-古代史年表を眺めて考えること(1)- 
                                             第16回
 福岡市西区の元岡古墳群(4世紀末*7世紀)にある7世紀の古墳から、19文字の銘文が峰の部分に象眼された大刀が出土したと同市教育委員会が発表した。

古墳は地方豪族の墓と推定されている。銘文には「庚寅(こういん)、正月6日《など製造時期と見られる日付が刻まれており、日本での暦使用を示す最古の発見である可能性が高いとのことである。
日本書紀には554年に百済から暦を導入したとの記述があり、大刀の日付「庚寅、正月6日庚寅《は、百済の「元嘉暦《によるものである。十干十二支で年歴は60年ごとに回り、日付は60日ごとに回る。

庚寅の年で1月6日が庚寅に当たるのは西暦570年しかない。これは、6世紀後半には暦が普及していたことを示す証拠で画期的な資料であるとともに、西暦を特定できた初めての例として評価できる。さらに、この大刀銘文でまた一つ、記紀の記述を裏付ける資料が追加されたことになる。

 中国の史書に記載されている倭人、倭国、倭王などについては、本稿で必要に応じ引用してきたが、中国史などに出てくるそれらの関連事項を時系列的に眺めて見たらどうなるであろうか?列島の古代史は越境してくる渡来人の流れとともに進んできたことからすれば、それらの年表をレビューして、独断的に楽しめる考察をまとめてみたいと考える。

 最古の時代の倭人が記載されている文献「魏略《「論衡《ははるかに後の時代に書かれたものではあるが、刺青をして潜水漁労を得意とする倭人が周王朝の祖先古公壇父の長男太白の後裔であると称することを否定しておらず、また周の第二代成王に薬草を朝貢したと記載している。
縄文時代に中国大陸と通交があったことは、丸木舟が大陸を往来するのに十分な航行力を持っていたことが考証されているし、またこの時代に渡来したと鑑定される石器が、北九州のいくつかの遺跡で発掘されていることから判る。

 「東方に九夷あり《という九夷がどの異民族を指すかは時代により異なる。九夷のなかに「倭人《が登場するのは、「漢書《地理誌燕地の條、そして「魏志《烏丸・鮮卑・東夷伝である。魏志の記述順でいうと東夷は、扶余、高句麗、東沃沮、挹婁(ゆうろう)、濊(わい)、辰韓、弁韓、馬韓、倭人の九民族がそれに当たる。

約300年に及んだ諸侯が国を建てて相争う春秋時代、孔子は世の有様を悼み「子九夷に居らんと欲す《と論語にあり、また「子曰わく、道行われず、桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん《ともある。
海を隔てている九夷は朝鮮半島の南の瀚海を越えた倭人だけであるから、孔子が桴に乗って目指すのは倭人の地ということになる。倭人の地が道徳の行き届いた一種のユートピアのように思われていたことがあったらしい。

 世の乱れは更に約250年の戦国時代へと続き、秦の始皇帝が統一を果たすまで、通算して550年間もの戦乱時代が続いた。
この戦乱の結果、敗者あるいは戦いの影響を受けた人々など、多くの人・物・技術が中国大陸の周辺地域へと分散伝播することになり、日本列島へも多くの人が直接・間接に渡海し、また半島を経由して渡来した。
これらの渡来人は弥生文化に多大な影響を与えまたその形成に貢献した。この間に稲作は段階を経て確実に列島に定着し、規模を拡大して組織的な水田稲作の本格化へと向ったのである。

 稲作の発展とともに国(ムラ→小都市)の形成が始まってゆく。その間に漢(前)の建国、衛氏朝鮮の滅亡、漢による楽浪など四郡の設置があった。

楽浪郡の東南海中には倭人がいて、百余国の小国に分かれており、時々楽浪郡に朝貢にきていると漢書に書かれたように、倭の小国の外交(情報)活動がこの頃から記録に表れ始めている。

王莽が漢を簒奪した新の貨幣「貨泉《は、新が続いた期間が短いにもかかわらず、壱岐、福岡・糸島、大阪・住吉などから出土しており、大陸との往来が盛んであったことを示している。

 後漢王朝成立の後、西暦57年(建武中平二年)倭奴国王が後漢に遣使し、印綬(金印)を授かる。西暦107年(安帝の永初元年)倭王師升が遣使、いずれも、公式史書「後漢書《に記載されている。
中国王朝の認める、倭の一定の勢力を代表する王の登場とその外交の記録である。
しかし、その後倭国大いに乱れ、また中国においても後漢は衰退、三国割拠の戦乱の世となり、東夷の地域では遼東を本拠とする公孫氏が国同様の勢力となり、楽浪郡を分割して南を帯方郡とし、韓と倭は帯方郡に属した。
倭国内に動乱が起こり相攻伐することがあったのは、倭国内のみで単独に起こったものではなく、東アジアで起こっていた動乱と連動していたものと考えられる。

 倭国が次に記録に表れるのは女王国の卑弥呼が魏に使者を送った記事で、魏が公孫氏勢力を滅ぼした西暦238年(景初二年)の翌年のことである。女王国は国際情勢の変化に機敏に対応する外交活動を行っていたといって良いであろう。
その後の使者の往来と諸状況については魏志倭人伝に詳述されているところであり、その解説解釈は「邪馬台国《論争、あるいは古代史の難パズルとして古くから多くの人が論じてる。 
                                                             (続く)

中国・朝鮮半島・日本列島の関連古代史年表

前1100頃

古公亶父(周王朝初代武王の曾祖父)には長男太白がいたが、末子の季歴に後継を譲り出奔して、呉の地に流れその地で句呉の首長に推され国を開いた。 (倭人の旧語を聞くに、自ら太白の後という) (魏略)

前1046

周の武王、商(殷)の紂王を滅ぼして、周王朝を開く。

前1042

周の第2代成王即位。(成王の時、越常雉を献じ、倭人暢を貢す) (論衡)

前770~

各諸侯が国を建て、春秋時代始まる。

前475~

晋が魏・韓・趙に分裂し春秋時代が終わり、戦国時代となる。

前221

秦・始皇帝が中国を統一。

前206

楚(項羽)との戦いを経て、劉邦・太祖高帝が漢を建国。

前108

漢の武帝が衛氏朝鮮をほろぼし、楽浪・臨屯・玄菟・真番の四郡を置く。
(楽浪郡の東南海中に倭人がある、百余国にわかれている、ときどき来て朝貢しているそうである)(漢書)

・08

(前漢)の帝位を王莽が簒奪し「新《を建国する。赤眉の乱を経て一代で滅びる。

・25 

世祖光武帝(劉秀)即位。後漢の建国。

・32

高句麗が後漢に入朝。西域十八ヵ国ついで南匈奴が後漢に入朝。

・57

奴国が後漢に朝貢する。(漢委奴国王の金印・志賀島出土)(後漢書)

・107

倭王師升の使者が後漢の首都洛陽に行き、生口160人を天子に献ず。(後漢書)

・140~
180年代

倭国大いに乱れ、更相功伐し、暦年主なし。(後漢書)(魏志)

・178

黄巾の乱起こる。(~184)魏、呉、蜀の三国時代。

・204

遼東の公孫度が楽浪郡の南半分に帯方郡を新設する。
(公孫度の帯方郡と倭国は交易したであろうが、記録には表れない)

・238

魏が遼東の公孫淵を攻め、楽浪・帯方の二郡を接収する。(魏志)

・239

倭の女王卑弥呼の使者難升米、帯方郡に詣(いた)り、ついで洛陽に詣(いた)り、朝貢する。(魏志)

・240

帯方郡太守の使者、魏帝の詔書・印綬を奉じて倭国にいく。(魏志)

・243

倭王の使者、帯方郡経由で洛陽に行き、伊声耆、掖邪狗らが率善中郎将の印綬をうける。(魏志)

・245

魏帝は倭の難升米に黄幢を与えることとし、郡に付して仮授せしめる。(魏志)

・247

帯方郡太守は女王国と狗奴国との戦争状態を報告し、郡の属官・張政などを倭国に派遣し、詔書・黄幢を与え、檄をつくって告諭した。(魏志)

248

卑弥呼死す。 男王が立つが国中上朊、壱与(台与)が共立される。(魏志)

265

司馬昭が晋王となり、魏帝を廃して晋を建国する。

266

倭女王壱与(台与)、大規模な使者団をもって張政等の帰国を送り、併せて晋に朝貢。(魏志、晋書)

313

高句麗、楽浪郡を滅ぼす。

316

(西晋)が王族の内紛でほろび、五胡十六国時代となり、南に東晋がおこる。

391

高句麗、広開土王即位、領土拡張の遠征を開始する。

396

高句麗、漢江以北の百済の領土を奪取する。

400

高句麗、百済へ派兵。百済、加耶及び倭連合軍を撃破する。

413

東晋の安帝のときに倭王讃がいた。(梁書)

420

東晋が滅び、宋となる。北方の五胡十六国はまだつづき南北朝時代となる。
倭王讃の使者が宋に入貢、武帝から除授(官位をさずける)詔書をたまわる。(宋書)
(岡野 実)
    


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