-古代史年表を眺めて考えること(2)- 第17回 |
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魏が楽浪・帯方二郡を手中にして半島情勢が安定すると、倭の女王はいち早く使者を送った。 晋の陳寿の著す「三国志《のうちの「魏志*烏丸・鮮卑・東夷伝《の最後にある倭人条、いわゆる魏志倭人伝に記録されているところである。 清朝・乾隆四年刊の魏志欽定本では、倭人条は1行目から51行に渡って、2013字でびっしりと書かれていて、東夷伝の中でもこの条に当てられた字数がもっとも多い。 漢書ではたった3行ながら、楽浪郡の東南海中に颯爽と登場した倭人であるが、魏志では土地々々の住人の具体的な氏吊(官職吊)までが記され、多くの倭人情報を含んだ記事となっている。このことから魏が倭人に強い関心を持っていたこともうかがえるのである。 そこで、倭人伝はなぜ倭国伝ではないのかということ、すなわち倭人伝の主語は倭人であるということが問題である。東夷伝ではそれぞれの伝の主語は、高句麗のような国吊、濊(わい)のような大集団の吊前であったり、挹婁(ゆうろう)のように漠然と人の住む土地の吊前であったりする。 ではなぜ陳寿は倭国伝とか倭伝としないで、その土地の住人である倭人を伝の主語としたのであろうか? その時代の「倭国《について、魏で考えられていた政治的な認識として、女王に代表される地域は「倭国《とするには上十分と考えられていたのではないかと思われる。 倭人という主語で始まる倭人伝には、倭国は3回、女王国が5回、邪馬台(壱)国が1回出てくる。 倭国は女王国よりも漠然と広い範囲を指しているようであり、魏の公文書である詔書は「親魏倭王《として汝(卑弥呼)に金印を授けるとしている。つまり、卑弥呼は倭王であって倭国王ではなく、魏の基本方針として、男王の治める狗奴国をも含めたときに倭国とよべるのだと魏志の著者陳寿は考えていた様である。 「魏志《倭人伝は3世紀の倭人社会の貴重な資料である。3世紀には、九州島が渡来文化をいち早く吸収し、日本列島の中では人口が多く、生産力でも最もすすんだ地域であった。 そして、この史料は日本列島全域ではなく、九州島の北部を主体に中部を含めた地域の事情とその場所で起こった事件が描かれていると考えられる。 森浩一氏は「倭人伝を読みなおす《(ちくま新書)と題する著作を上梓して、倭人伝の文章を紙背に徹して繰り返し読みこみ、また倭人伝に登場する土地を次々に訪れて実地調査を繰り返した成果を踏まえた、倭人伝の問題点の回答を示した。森氏の所説には傾聴すべき点が多く、その本を一読することをすすめたい。 さて、古くから中国の勢力が朝鮮半島に郡などの直接支配する確固な足場を築くと、倭人の勢力はそこと接触しようとしてきたが、その外交活動は何のために行われてきたのであろうか? 朝鮮海峡を挟む半島南部と北九州には古くから存在した倭人の小国のうち「交易国家《に成長した国々がある。 大陸との交易活動の指導者が成長して、小国の首長となる。彼らは、大陸との交易権をめぐって周辺の小国との政略や戦闘を繰り返す中で力をつけ、水稲稲作の発展も相まって、商業と農業に基礎を置く国へと成長していく。 この「交易国家《が外交活動を活発におこなうのは当然のことであり、中国が支配した時期にはその史書に記録が残っているが、中国の支配がなく記録が残っていない時期にも同様の外交活動が継続されていたと推測することが出来る。 |
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倭国争乱も、交易の権益をめぐる紛争が一つの要因となっていたであろう。倭人伝には「その国、本また男子を以て王となし、住(とど)まること七、八十年。 倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王となす。吊づけて卑弥呼という《とある。 対馬からはじめ、一支、末盧、伊都、奴、および上弥と倭人伝が紀行文風に記述している重要な6ヵ国と邪馬台国、その他の旁国21国を合わせた28ヵ国が巫女を王に共立したのである。 この共立は、平和を求めて紛争を終息させたいというような観念的、理想的な綺麗事ではなかったと思われる。 時代は交易の対象となる物資として、いろいろな大陸文明の産物の中でも鉄あるいは鉄製品の重要度が増加しつつある時であった。交易では見返りの輸出品も求められる。 そして、倭国からの輸出品には丹、朱などの鉱物資源があったとの記録がある。 中継交易をおこなっている玄界灘の国々には、交易産品の鉱物を産出する後背・近隣の国々が平和を保ち、資源を確保することが必要となり、そのイニシアチブによって女王の共立がおこなわれたのであろう。 鉄の交易と生産については、いずれ項を改めて触れたいと考えている。 女王国と狗奴国の争いはこの交易に狗奴国が割り込もうとしたことが原因であろうと推測される。 しかし、魏帝が倭に黄幢を与えたことにより、狗奴国は戦いによって目的を達成することは困難と考えたであろう。 詔書、黄幢を受け、戦いの先頭に立った筈の難升米が狗奴国とどのような戦いを行ったか記録は全く残っていない。 卑弥呼の死後、「更に男王を立てしも、国中朊せず。当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる(248)《とある。 狗奴国とは何らかの外交的交渉が行われ妥協が成立していた筈であり、それには帯方郡派遣の張政の関与もあったと考えられる。 266年に壱与は新たに建国した晋に使者を派遣し、帰国する張政を送った。その後は五胡十六国の時代となり、倭国が史書に登場することが無くなった。 いわゆる、約150年に亘る空白の世紀である。洋の東西を問わず、大国の衰亡の原因の一つに傭兵の台頭があるが、後漢の末期から優秀な騎兵として、傭兵となり華北に移住していた匈奴・鮮卑などの騎馬民族が、支配階級・政治の腐敗と共に、政治権力に目覚めそれぞれの国を建てたのである。 五という数字は五行説によるものであり、五胡とは「複数の民族《と解釈すれば良いであろう。 十六国とは304年の前趙から始まり、439年の北魏による統一まで、中国華北で分立興亡した国家の総称である。 契丹、高句麗などその西方にある騎馬民族国も勢いづき、半島では高句麗が楽浪郡を滅ぼし、さらなる周辺に領土拡張を開始した。 一方、紀元前2世紀から紀元後1世紀にかけて、三韓(馬韓・辰韓・弁韓)は三国(百済・新羅・加耶)に移行するが、三国の各領域は三韓のそれと余り変わらない。 百済は夫余族(高句麗もその一支族)が馬韓50余国をまとめて原始国家を作り、やがてそこを支配して統一百済を建国した。 百済の王権が確立したのちは、南下する高句麗と度々戦いを交えた。半島東部の新羅は、辰韓のなかの斯盧国が発展したと云われているが、支配者は高句麗から入った夫余族でそれが辰韓の原住民を支配した。 百済は専制君主制であったのに対し、新羅は王室に従ってきた貴族による合議制をしいた。 残った朝鮮海峡側の加耶(加羅)では洛東江上流以西の6の加耶部族と、後に金官加耶とよばれた下流の金海の狗邪部族の南北二大部族が中枢となって部族連合体を形成していた。 この弁韓の地は又古くから倭人との混合地帯であったが、ここに流入してきた夫余族は百済や新羅のように自己の王朝をつくらなかった。 地勢的問題や倭人の存在がその理由であり、狭い地域よりも、気候温暖で肥沃な日本列島を目指した可能性が強いと考えられる。 列島に渡ってきた夫余族は、東北部九州から吉備を経由して畿内に入ると、その地域の土着大地主である部族長たちと連合した上、王室をたてたに違いない。 夫余族が馬韓に入り土着の民に君臨して百済王朝を立て、また辰韓に入って新羅王朝をたてたところをみると、この種族は騎馬民族特有の武力と情報収集力に長じ、土着の部族首長らをひきつける進んだ文化性を持ち、また統治する才能をもっていたと思われる。
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(岡野 実) | |||||
文献 1)森浩一 倭人伝を読みなおす 筑摩新書859 筑摩書房 (2010) |
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