もう一人の義経                第44回
                    滋賀県湖北町
 賤ヶ岳の南、余呉川の流水がびわ湖に注ぐあたりに山本山という名の山がある。背後に琵琶湖を控え、北国街道を眼下における要害(ようがい)の地。山本山には昔から城が築かれ、山本氏が辺りを睥睨(へいげい)していた。

 今から約八百二十余年の昔、寿永2年(1183)6月28日のことである。山本山のふもとを走る北国街道を、おびただしい軍勢が通りすぎようとしていた。その数は、約5万。これこそ、一ヶ月前の5月11日、越中栃波(となみ)の倶利伽羅(くりから)峠の合戦で、平維盛を総大将とする平家の軍勢十万を、竒箪をもって打ち破った木曽義仲の軍であった。
系図:源義家の子孫が九郎義経。義家の弟「新羅(しんら)三郎義光」の子孫が山本義経で、同じ清和源氏の流れをくんでいる。また、九郎義経と木曽義仲は従兄弟同士。
                      
(湖北町観光案内より)


 6月とはいえ、湖北の天地は、すでに真夏。炎天の下で、汗にまみれ、泥となったほこりにまみれて京都をめざす軍勢は、行く手に待ち構える三百余りの騎兵武者の存在に気付いた。

 軍の先頭にあった今井四郎兼平は、「我等が行手をさえぎるとは不埒な奴。敵か味方か、返答なくば、一気に踏み潰してくれるぞ」
義仲の軍の先頭にあった今井四郎兼平が大音声に呼ばわった時、それを合図に待ち受けていた軍の中から唯一騎、義仲勢に向けて駆け出した武士があった。
緋おどし鎧をつけ、みるからにたくましい栗毛色の馬にまたがったその武士は、今井四郎の前でピタリと停まった。
 「われこそは、新羅三郎義光が後裔にて、山本判官義経と申すものにて候。木曽殿御入洛の道案内を仕らんと、これにてお待ち申し上げておりました」
「おう、そなたが山本義経どの・・・」

 兼平は、山本義経の名を覚えていた。「山本義経」・・・。  彼は治承4年(1180)11月、高倉の宮の綸旨に応えて、平家討伐の兵をあげ、弟の柏木冠者義兼と共に平家の将・飛騨守景家の館を襲い、家人の首十六をあげ、瀬田の橋に曝したことがあった。
.▲余呉川下流

「われら千余騎、園城寺をもって城となし、六波羅を襲わんと準備するところへ、知盛、資盛の軍が攻め来たり、我等懸命に戦いはしたものの、多勢に無勢、泪をのんであれなる山本山に潜んで居たのでございます」
義経は知盛の軍を破った木曽義仲の通過を待ち受けていたことの次第を物語った。

 義仲はことの他、上機嫌であった。
「聞けば、鎌倉にある源頼朝の弟にも九郎義経と申すものが居るそうな。過ぐる富士川の合戦には、なかなかの働きをしたそうじゃ。平家討伐を志す源氏の一族に、同じ義経を名乗る勇者が二人も居るとは、めでたいかぎりじゃ」
「鎌倉におわす頼朝公も。同じことを申されました」
 義経の言葉に義仲の顔は急に不快な色に変わった。
この年の春、義仲は鎌倉の頼朝と不和になり、息子義高を人質として鎌倉に送り、わずかに平和を保っていたのである。

 こうした事情を知らぬ山本義経の言葉に、一時は不快の念をあらわした義仲だったが、すぐに声を和らげた。
「何としても、おことが我が軍に加わったことはめでたいことじゃ。さあ、道案内をよろしく頼む」
「かしこまって候」
山本義経は、意気揚々と自分の軍へかけもどって行った。
山本義経を先頭に、木曽義仲の軍勢は燃えるような真夏の近江路を、一路京へ向かって進軍を続けて行った。

 木曽義仲と共に京都に入った山本義経は、兵衛尉の位を受けて、北は四条から南は九条まで、東は朱雀大路から西は丹波との境に至るまで広い地域の警護を引き受けることになった。思えばこの時期が山本義経のもっとも得意な時期であった。
世の人々は、山本義経の前歯が大きく二本突き出し、下唇の上にかぶさっているところから、「反っ歯の兵衛」と評判したが、連日、緋おどしの鎧をつけ、栗毛の馬にまたがって、市中の巡視を続けていた。

宇治川の合戦
 旭将軍とうたわれた木曽義仲が京都の町で栄華にふけった日は余りにも短かった。平家一門を京の町から追い落としてから、わずか三ヶ月。今度は義仲自らが、京の町を追われる身となったのである。
後白河法皇の院宣を受けた源頼朝の代官として、京をめざして攻め上がってきた蒲冠者範頼(かばのかんじゃのりより)と九郎義経の兄弟は、京都の南、宇治川の流れを挟んで義仲の軍と対峙した。
世に言う「宇治川の合戦」である。

 とうとうと流れる宇治川の左岸には源義経が、そして対岸(右岸)には木曽義仲の軍勢が・・・。
そこには義仲に従って出陣した山本義経がいる。
二人の義経はこうして、お互いに刃を交える皮肉な運命を迎えたのである。

宇治川の合戦は、佐々木高綱と梶原景季の先陣争いで幕を開け、義仲の敗北で幕を閉じた。
義仲は手兵をまとめ、近江粟津ヶ原まで逃れて、ここで果てた。
元暦元年(1184)1月20日。倶利伽羅峠の合戦から、わずか半年あとである。

 そして更に五年の後、義仲を打ち、平家一族を掃討した源義経も、奥州衣川で、兄頼朝の差し向けた追っ手のために、あえない最後を遂げたのである。

 もう一人の義経、反っ歯の兵衛山本義経が、宇治川の負け戦のあとでどうなったか・・・。
その消息は、沓としてわからない。源義経の活躍が本格的に始まるのはこの直後であり、現代に伝わる義経の武勇伝は、実はもう一人の義経、山本義経が作ったドラマだったのかもしれない。八百二十余年たった今日、母常盤御前の、類まれな美貌を受け継ぎ、匂うばかりの若武者であった源義経が実は反っ歯だったという説が歴史家の間で話題となっている。
 ・・・・・その真実を知るのは、昔のままのびわ湖と北国街道を見下す山本山だけかも知れない。
      ▲賤ヶ岳からみた山本山(左奥の尖っている山)
(曽我一夫記)


All contents of this Web site. Copyright © 2003  Honnet Company Ltd.,All Rights Reserved
・