-多羅尾代官所(下)-
 北陸自動車道・長浜インターで下車、取付道路37号(県道)を左折、伊吹山を正面に望みながら一つ目の信号を左折する。この辺りは、長浜市小堀町といい、昔ながらの地名らしい。右側の総持寺というお寺で、遠州の生誕地はと聞けば、寺を出て二、三分で「小堀新介殿屋敷跡」(長浜市指定の史跡)と掘り込まれた高さ1.5メートルの石碑と対面する。新介というのは遠州(幼名 正一)の父親である。この界隈は、都市化の進む同市の中でも比較的田園風景の残る地域ではあるが、最近完成したと思われるアパートが、石碑の近くに軒を連らね、古のたたずまいを忍ぶよすがもないのが残念。
 それはさておき、小堀遠州といえば、武人でありお茶・生け花・和歌などに通じた江戸時代の文化人であり、一方では有能な幕府のテクノクラート(技術官僚)。芸術的センスを最大限に生かした城づくり、町づくり、庭づくりから陶芸の世界にも独自の手腕を発揮した歴史上でもあまり例を見ない特異な人物であった。
 遠州といわれるのは、慶長13年(1608)に、家康の居城である駿河国駿府(すんぷ)城の建築工事に、作事奉行をつとめた功績により朝廷から「諸太夫従五位下遠江守(とうとうみのかみ)」に叙され、以来「遠江」と同地名の「遠州」をとって「小堀遠州」と呼ぶようになった。
 ほかに、参禅の師である大徳寺の春尾宗園から与えられた「号」として「孤篷」(こほう)と「宗甫」(そうほ)が、また仏道に深く精進した者に与えられる「道号」も30才の若さで「大有」(たいゆう)の号を春尾禅師から与えられている。大徳寺境内にある有名な孤篷庵は遠州作の菩提寺である。
遠州の生い立ち 
遠州は、羽柴秀吉が長浜城主であった天正7年(1579)父の領国内である前記・小堀村に生まれた。幼い頃から父にともなわれて播磨や但馬、大和の国々を転々、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦を前に、父が徳川家康に従い、合戦後、備中国(岡山県西部)の国奉行(国奉行とは、多くの大名領や幕府直轄領が点在する畿内近国に設けられた江戸初期特有の職制で、幕府から任命された幕府政治の、その国における代行者)に任命された。備中時代の遠州は、検知奉行である父に従い大和、越前、備中や慶長7年(1602)には、近江国でも粟田、志賀、高島、伊香での検地に当たっていた。

遠州家督を継ぐ 
慶長9年2月29日、江戸へ出府中の父・新介が、相模国藤沢の駅で急死(65才)した。遠州26才の時である。父と同様、備中松山城を本拠に、備中国奉行や父の遺領一万五千石の内、1万3千石の領地を相続した。その内訳は、備中国小田郡内を中心に一万石弱、残りの所領は大和国葛上郡、それに和泉国(大阪府)日根郡にあった。残り2千石は、弟正行に分与した。遠州は、備中奉行在任中も、名古屋城や近畿内での普請、作事に追われ、年末年始の限られた時間しか備中に在国しなかった。このため、家老の小堀権左衛門のほか3人の代官を常駐させて備中の支配を行っていた。また、宇喜多氏、毛利氏に従った地侍からも代官、手代を登用した。関が原の合戦以降、備中国が幕府直属の国奉行管轄下に置かれた。この理由は、備中の中・北部から産出される鉄、銅、紙などの掌握を、幕府の手に握るためだった。

 備中は、古代から鉄や銅の産地で知られていたが、備中の鉄は、燐の含有量が多くて刀劔よりも釘、かすがい、鉄砲などの材料として使われた。遠州は、朝廷や幕府関係の建築工事に数多くかかわっていたところから備中産の鉄はその材料として使っていた。

 いまひとつ、遠州の備中での仕事として特筆されるのは、松山城の修築である。備中の元領主・三村氏や、毛利氏の城として建築された松山城は、標高四20メートルの臥牛山(がぎゅうざん)の山頂にあり、住民尊望の城であったが、遠州父子が赴任したころは、石垣が崩れ、建物も破損してかなり荒廃していた。遠州は慶長13年(1608)から同15年にかけて改修した。近江弧篷庵(浅井町)に残る2枚の絵図が、その工事の模様を伝えている。天守閣もこの時に新造されたが、現存する重要文化財の二層天守閣は、天和元年(1681)に改造されたようだ。

 近江国奉行へ 
元和8年(1622)近江国奉行に転身、40才だった。5年前の同3年(1617)には、河内国(大阪府)奉行に転身しており、事実この年以降、備中での在国は確認されていない。さらに三年前の元和5年(1619)には、備中から近江浅井郡への領地替えが行われている。この近江奉行への就任は、徳川家康の死去(元和2年 1616)にともなう幕府の上方支配システムの転換が背景にあり、以前から徐々に準備されていたといわれている。
 江戸幕府にとって、京都を中心とする畿内五ケ国とその周辺の近江、丹波、播磨など八か国は、禁裏(皇室)領、幕府直轄領、大名領、旗本領などが錯綜した「非領国」(大きな大名領のない地域)であり、関八州と共に特別な地域であった。ここには幕府からの特異な支配システムが導入されており、時代によって多少変遷しながら幕府政治が安定する寛文年間(1661-1673)まで続いた。

 寛永11年(1634)将軍家光の上洛を機に、幕府の上方行政システムが改善され、遠州は近江国内だけでなく、畿内近国八か国全体の責任者となり「八か国郡代」「上方郡代」と呼ばれていた。当時、畿内近国政治の最高責任者は京都所司代板倉重宗であり、それを補佐する立場であったところから遠州は幕府の畿内政治におけるナンバー・2になったことになる。

 「上方郡代」の仕事の内容は、先代国奉行の職務を引き継ぎ、幕僚支配を行ったことは当然だが、遠州は若い頃から朝廷関係の建築工事を担当して、朝廷文化の影響を色濃く受けていた。この力量を、一段と生かしてほしいと願う将軍、幕閣の強い要望のこめられた人事といえる。

伏見奉行としての遠州 
遠州の居宅は、大阪の天満や京都二条城南の六角越後屋などにもあったが、遠州の居宅に関する最も古い記事は、21才の時にあたる慶長4年(1599)の松尾茶会記。伏見・六地蔵の居宅で茶会を開き、奈良の商人・松尾久松を招待している。六地蔵は伏見の東に当たり、京都や近江から奈良方面に抜ける交通の要衝だったこともあって、遠州にとっては印象の強い土地であったようだ。だが、この居宅が六地蔵のどこにあり、どのような間取りであったかを調べる資料はない。

 元和9年(1623)遠州は、伏見奉行を拝命、清水谷にあった旧奉行所を使っていたが、余りにも不便な場所であったので、寛永2年(1625)富田信濃守の屋敷跡であった「豊後橋詰」の地に新しい奉行所を建築した。やっと待望の伏見に役宅兼居宅が完成した遠州は大喜びだったというが、ここが遠州の亡くなった場所ともなった。
 幕末まで幕府の職制として存在した伏見奉行所の任務は「伏見市街」と「伏見回り八か村」と呼ばれた周辺農村の行政、裁判を管轄することにあった。ただし遠州は、寛永11年(1634)以降、伏見奉行所でありながら京都所司代を補佐し、畿内近国八か国を管轄する「上方郡代」として、広域な行政を担当していた。
 遠州が新築した奉行所には、松翠亭(しょうすいてい)転合庵(てんごうあん)成趣庵(じょうしゅあん)など三茶室があり、遠州はここで何回も茶会を開いていたことが記録に残っている。後世、初期の遺構が発見されたほか、江戸中期の碗などが出土している。
参考図書:
▽長浜市史A秀吉の登場 
▽小堀遠州とその周辺 寛永文化を演出したテクノクラート 市立長浜城在史博物館発行

(曽我一夫記)
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