-多羅尾代官所(下)-
 普請・作事奉行としての遠州 
 家督を相続して間もない遠州は、慶長九年(一六〇四)に伏見城の作事にかかわったのを手初めに、仕事量は年を経るごとに増え、その東奔西走の様子をしたためた書状などによると当時の公的建造物のほとんどの工事に関与していたことが判る。
 朝廷関係では、慶長十七年(一六一二)からの内裏増築工事、寛永四年(一六二七)からの御水尾院・東福門院御所の作事・同十七年(一六四〇)からの内裏新築工事などがあげられる。この内、慶長の内裏工事での総奉行は、板倉勝重で、当時、三十四才の遠州は、中心部分を外れた南御門、大台所を担当している。これに対し、寛永十七年の新築工事は、六十二才になった遠州が総奉行となり、担当も紫宸殿など内裏の中心部分であった。遠州が朝廷で行ってきた各種作業への高い評価が、この内裏建築における総奉行への昇格となった。
 幕府関係のものは、慶長十七年(一六一二)名古屋城本丸、天守閣の作事。寛永五年(一六二九)九月、二条城二の丸作事。寛永六年(一六二九)六月、江戸城西の丸庭園の普請など。
 近江に関するものとしては、寛永十年(一六三三)水口城の築城工事や、将軍宿泊施設である伊庭(いば)御殿(能登川町)の作事も担当している。このほか、幕府の外交、宗教事務に当たった以心崇伝の住坊である臨済宗南禅寺の最大の塔頭・金地院の諸施設の建造に関わったことは著名。さらに奈良興福院の本堂、客殿、四足門、桂離宮なども遠州が手がけたといわれている。
 遠州自身の菩提寺として慶長十七年(一六一二)に、大徳寺龍光院内に自身が建てた弧篷庵は、遠州の入念な設計の下に建造されたことはいうまでもない。
 遠州は、作庭の名人としても知られている。これは幾多の建築工事にともなって、庭園部分の設計、施工に関与したからである。現存する遠州作の庭園は数少ないが、仙洞御所庭園、二の丸庭園、金地院庭園、弧篷庵庭園、それに備中時代に住居をともにした岡山県頼久寺庭園などがあげられる。しかし、これらはその後の改修によって、遠州の作庭の残るのは、その一部である場合が多い。全国に遠州作と伝えられる庭園は、数多く見られるものの、その多くは遠州の作庭の流れをくむ「遠州好み」の庭園として理解されている。

 遠州の協力者 
 ところで遠州の普請、作事への協力者、相談相手として、幕府の大工頭の職にあって活躍した京大工中井家の存在は大きい。中井家は、もともと大和法隆寺大工の出身で、幕府大工家の初代正清は、天正十六年(一五八八)徳川家康に召し抱えられた。その後、関が原の合戦後の慶長九年(一六〇四)の伏見城の本丸小座敷工事は、遠州から正清に当てた書状によると、遠州は家督相続直後より、正清とともに仕事をしていたことがわかる。
 大工頭の仕事は、単に建築の施工、監督ではなく、測量・設計から見積、さらには資材の調達、大工の手配など行政的部分が多かった。これは幕府作事奉行の遠州の役職に求められる能力であり、遠州は多くの作事に関する知識を、正清から得ていたと思われる。その後、名古屋城作事や内裏拡張工事などを遠州と共にした正清は、元和五年(一六一九)に五十五才で没した。
 中井家を継いだ二代正侶(とも)三代正和も遠州と共に、京大工頭として朝廷、幕府、幕府関係の仕事に中心的な役割を果たしている。幕府の大工家は、四家あったが、うち甲良など三家は関東中心に、仲井家は京都を中心に畿内の仕事を請け負った。中井家の資料は、六か所に分蔵されているが、その直系に当たる中井正知家には、同家が関わった江戸初期の建築工事が多く伝わっている。これらの多くは、同時に遠州が関与した工事という。

 茶人としての遠州 
遠州は、茶人としても名高い。千利休によって大成された茶の湯は、近世に入り、成長する町人層に支えられて民衆の間にも広がり、一方で大名茶の流れを生んだ。古田織部から茶の手ほどきを受けた遠州は、この大名茶の基礎を築いた人物で、この流れは、片桐旦元のおいに当たる片桐石州らに受け継がれ、幕末には彦根藩主の井伊直弼にまで伝わった。大名茶は、書院での茶会を重視したもので、これが武家の茶のスタイルともなった。
 遠州は十才の時、利休に会っている。父の主君・豊臣秀長の屋敷を秀吉が訪れた日、遠州は、秀吉に出す茶のおはこびをしたという。前日には利休が秀長に茶の稽古をつけるのを、遠州は目にすることが出来た。これが遠州の「茶の湯」の道を志す大きなきっかけとなった。十代の半ばには、父と共に茶会に招かれるように成長、十八才の時には、手水鉢の下にかめを配し、水の反響音を楽しむ「洞水門」(水琴窟)を発明し、師匠の古田織部から称賛されたと伝えられている。
 遠州の茶匠としての名を決定的にしたのは、寛永十三年(一六三六)五月二十一日の品川御殿における三代将軍家光への献茶であった。この功により遠州は、南北朝時代の禅僧・清抄の墨蹟「平心」を拝領した。この後も何回か将軍への献茶が行われている。そのほか、将軍は大名家を訪れる「お成り」や将軍主催の茶会の後見役をつとめるなど将軍家光の茶道師範的な地位についた。

 寛永文化の特徴が「総合性」であったように、遠州の茶も多くの文化を取り入れた。「遠州口切帳」によると遠州の茶会は、二部に分かれていた。最初は、小座敷で禅の師匠・春屋宗園の書を掛け、利休から受け継いだ「茶禅一味」の茶を展開する。利休は茶の湯の後段を禁じていたが、遠州は、小座敷に続く間に客を通し、再び茶で客をもてなした。そこに広がる書院風世界は、東山文化で尊重された中国画の掛物で飾られていたり、定家の和歌や伊勢物語の書が施されるなど遠州の茶には多くの文化が混在していた。

 現存する遠州の書状の中には、数多くの大名に茶の湯を教えていたことが伺えるという。特に茶器の鑑定を頼まれたり、さらに斡旋をしていたことを示すものが多く、遠州は茶道具の目利きとしても知られていた。茶器の鑑定にあたって遠州は、古い名物の本物とにせ物を見分けることはもちろん、新しい物からも、姿のよいもの、使いやすいものを選び、新しい名物を世に出すことも怠らなかった。遠州の選んだ茶器は、後に出雲松江藩主であった大名茶人・松平不味(ふまい)によって「中興名物」と言われるようになった。

 また茶器自体の創作にも熱心で、遠州は晩年、各地の陶工を直接、間接に指導、自分好みの作品を作らせた。この遠州の影響下で茶陶を焼いた窯を「遠州七窯」と呼び、現存する遠州国・志戸呂、近江国・膳所、備前国・上野(あがの)、筑前国・高取、山城国・朝日(宇治)、摂津国・古曽部、大和国・赤膚が七窯と称されている。

 小室藩と小堀家 
 小堀遠州は、正保四年(一六四七)二月七日、伏見奉行所で亡くなった。六十九歳。浅井郡をはじめとする遠州の所領は、次男の大膳正之が継いだ。(長男は早死)正之は茶道の分野では、道具の目利きとして知られ、また墨蹟も遠州の書風をよく伝えていることで有名。

 遠州の時代は、浅井郡に所領を持っていたといっても、伏見奉行所が本拠で、家臣たちは、伏見や京都、大津に分かれて暮らしていた。領地の年貢収取などの事務も伏見で行っていたようだ。正之の時代になって初めて浅井郡小室村(現浅井町小室)に陣屋を築き、藩政治の核とするようになった。慶安三年(一六四八)三月一日であった。それ以降、政恒、政房、政峯、政方と遠州から数えて六代続いた小堀氏を主とする藩は、小室藩と呼ばれるようになった。同じく政之の時代である承応二年(一六五三)には、上野(現浅井町上野)の地に、遠州の菩提寺と家臣たちの修禅の道場として近江・弧篷庵が建設された。

 ところが、小室藩小堀氏は、第六代目藩主で伏見奉行であった政方の時代の天明八年(一七八八)改易(士人の名称を除き家禄、屋敷を没収し平民とすること=広辞苑による)となった。藩財政の悪化を、浅井郡の領民や、伏見町民に対する増税や借金で賄おうとした政策が破綻した結果であった。偉大な業績を残した遠州の子孫としては何とも残念な失態であった。この結果、借金の不流れとして、あるいわ廃藩後の競売により、小室藩に伝わっていた数々の美術工芸品や史料、それに建造物が散り散りになっていった。
 中でも国指定重要文化財、八窓庵(はっそうあん)は、小室藩の陣屋内にあったとされているが、大正八年(一九一九)、札幌市の個人が買い受け、現在札幌市の中島公園に建てられている。名の通り、八つの窓を配した切妻造の二畳台目(二畳と四分三の大きさの畳)から成る遠州好みの茶室。戦前のこととはいえ、遠州ゆかりの湖国から北辺の地に流失したことは惜しまれてならない。 
参考図書
▽長浜市史A秀吉の登場▽小堀遠州とその周辺 寛永文化を演出したテクノクラート 市立長浜城歴史博物館発行

(曽我一夫記)
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