-多羅尾代官所(下)-
 山内一豊といえば、知っておいでの方も多いと思う。戦国時代、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人に仕え、幾多の戦で功績をあげ、長浜(滋賀)掛川(静岡)の城主を経て土佐(高知)の殿様となった歴戦の武将。大東亜戦中には、国語の国定教科書に「山内一豊の妻」の題材で取り上げられた。
 中味は、一豊の妻千代は、貧しい暮らしの中で、夫が求めていた馬の購入費に鏡台の引き出しにしまっていた持参金を差し出した。一豊はこの金で名馬を手に入れ、これが彼の出世の糸口ともなったというお話しで"武人の妻の鏡"として映画や読みものの題材となった。今回はNHKの大河ドラマでも放映されるため、地元では準備に大わらわ。

 山内家の十九代当主・山内豊功氏(掛川市在住)の父・豊秋氏(故人)が、掛川城天守閣の復元に備え、自家に保存している山内家の古文書や資料を調べ、平成六年四月「掛川から土佐へ」−山内藩の移封とその前後−と題する書籍を出版された。その本を同市在住の友人から送っていただいたのをご縁に、今回、小誌「メトロ」でご紹介させて戴くことにした。
 なお明治維新前、薩摩、長州藩と手を結んで討幕軍を編成、明治維新を確立した土佐藩主・山内豊信(容堂)は、山内家最後の藩主である。
初代一豊の生い立ち 


 一豊は、天文14年(1545)尾張国守護代・織田伊勢守の家老・山内盛豊の子として生まれた。参考のためこの時代の信長は十二歳、秀吉十歳、家康三歳。「一豊公紀」によると、生まれは尾張の黒田といわれる。一豊が12歳の弘治3年(1557)7月12日、黒田城は信長の夜討ちにあい、兄は16歳で戦死、父は負傷、一豊は母、弟、妹と共に脱出して岩倉城に逃げて助かった。さらに永禄2年(1559)14歳の時にも信長に不意討されて岩倉は落城、父・盛豊は戦死、一豊は家臣・祖父江勘左衛門に助けられて母梶原、弟・妹と共に避難、この時から一豊の流浪の時代が始まり、その足跡は尾張から近江へと向かっていた。有名な桶狭間の戦はこの頃である。やがて近江瀬田城主・山岡景隆に仕え、ここで始めて禄高二百石を与えられ、士分となった。

 一豊の結婚と夫人の出自(しゅっじ)
 一豊夫人は、見性院・俗に「千代」「松」とも呼ばれ、出自については諸説あるが、通説では若宮氏とされ「一豊公紀」もこれを採っている。若宮氏は、藤原秀郷(歴史上の実在人物。瀬田唐橋のムカデ退治で有名)が遠祖と伝えられ、近江国坂田郡新庄村若宮に住み、後に同郡宇賀野飯村に移った。一豊夫人はこの地で生まれたといわれる。
 夫人の父は、若宮嘉助友興といい、従来六角氏に属していたが、浅井長政の台頭と共に鞍替えしたが、永禄9年(1566)八月戦死、長政は当時十歳の夫人に遺領を安堵(旧知行地をそのまま与える)した。夫人の母親は明智光秀の重臣・石川小四郎の女といわれ、小四郎は後に亀山城々代として光秀に殉じている。「一豊の母親・梶原は、永禄末年ごろから坂田郡法性寺郷宇賀野の長野家に身を寄せて近所の娘さんに裁縫や読書を教えているうち若宮の娘さんが目にとまり、やがてこの娘さんが一豊と結ばれることになった。結婚後、名前を「千代」と改めた。」 
 また結婚の前、伯父に当たる美濃の豪族・不破氏を親代りとして嫁いだともいわれ、鏡台の引き出しの持参金は、不破氏から贈られたと見る向きもある。
 結婚の時期は「山内家々譜」では、天正初期で、近江唐国を領した頃とされる。宝永年間編さんの「山内家御記録」では、年月不詳となっているが、天正元年とすれば一豊28歳、夫人17歳、元亀元年とすれば26歳と14歳、いずれにしてもこの間と思われる。

 刀根坂の死闘で武名 
 信長が足利義昭を迎えて上京したのが永禄11年(1568)、5年後の天正元年(1573)武田信玄が没すると、信長は直ちに上京、将軍義昭を追放し、続いて朝倉義景を討ち、更に浅井長政を小谷城に攻め亡した。
 一豊の武名は、朝倉義景の追撃戦で、琵琶湖東北方の刀根坂(北陸自動車道刀根PA付近)で、敵方の勇将・三段崎勘右衛門(みたざきかんうえもん)を討取った戦で認められた。勘右衛門は強弓で知られ、槍を振って迫る一豊は、左の眼尻から右の奥歯まで射抜かれたが、そのまま組み伏せて討ち取り、駆けつけた家臣・五藤為浄に矢を抜かせて首をはねた。首は秀吉から信長へと閲覧され、信長は戦功を賞し、一豊に薬を与えた。

 一豊秀吉に仕える 
 朝倉、浅井討滅戦の翌天正2年(1574)秀吉は、湖北の地を与えられ、今浜に城を築き長浜と改めた。一豊も刀根坂の死闘での功によりその領国の一部・近江唐国(からくに)=現在の虎姫町=に四百石の所領を賜り領主となった。唐国は、長浜から北国街道を北西に約4キロ。東に伊吹山を望むのどかな農村地帯ではあるが、近くには国友の鉄砲生産地をひかえた要衝の地でもあった。
 天正3年(1575)の長篠の役には、一豊は手勢二百五十を率いて秀吉に従い、同5年(1577)には、秀吉を主将とする中国攻略に従って播磨西部国境の有年(うね)に移った。翌6年には、三木城攻略戦に参加、兵糧を搬入する敵方を撃退、その指揮ぶりが秀吉に賞賛され、この頃から部隊長として評価されるようになった。

 本能寺の変と秀吉の征覇 
 天正7年(1579)一豊は摂津に出陣、蜂須賀小六とともに伊丹城に荒木村重を攻め、天正9年(1581)10月には鳥取城を、11月には淡路に出陣、長曽我部勢力の偵察に入った。天正10年(1582)には、秀吉に従って備中高松城(岡山)を攻囲、城を取り巻く長い堤防を築いて水攻めにした。ところがこの年の6月2日、信長が京都・本能寺の変に倒れた。急報を受けた秀吉は、厳重な情報管制のもとに、急拠開城和約を毛利と結び、反転して山崎の戦で明智光秀を破った。一豊はこの時、本陣(姫路城)にいた。

 同月、清州会議で跡目の決定を中心に、長浜は柴田勝家の養子勝豊の領地となり、織田方諸将をめぐって目まぐるしい主権争いが展開、織田政権は事実上、壊滅状態に陥った。翌天正11年(1583)正月、秀吉は柴田、滝川など反秀吉勢力を撃破するため、雪で柴田勢が北陸に閉じ込められている間に、先ず柴田勝豊を引きずりおろして長浜城を手に入れ、次いで伊勢方面の滝川一益などの各個撃破に入った。

 一豊は秀吉に従って伊勢に出陣し、一益の部将・佐治新介の守る亀山城を攻撃した。この戦で長年付き従った功臣・五藤為浄は、城内に踏み入り奪戦の末戦死。次いで御旗足軽の三九郎(後の旗奉行小崎三太夫)は、脇櫓(わきやぐら)から塀を乗り越えて、敵塁に「三柏の旗」(一豊の旗印)を押し立て「山内猪右衛門一番乗り」と大声で名乗り、城は日ならずして落城した。

 4月11日、秀吉は柴田軍の出動に備え、近江に移動するように見せかけて岐阜城の織田信孝攻撃に向かった。だが、柴田軍の佐久間盛政の出撃を見て急拠反転、これを賎ヶ岳周辺で撃破、勢いをかって柴田勝家の本陣を目指して急追した。有名な「賎ヶ岳の七本槍」はこの戦闘。秀吉は22日、旧友の前田利家を柴田方から自分の傘下に組み入れ、24日、北ノ庄に勝家を亡した。お市の方はこれに殉じ、後の淀君など三姉妹は、秀吉に投じた。秀吉は続いて佐々成政を富山に降し、更に北進して上杉景勝との提携を固めて兵を返した。信孝は自刃に追い込まれ、これで秀吉の覇権は一応確立した。

 高浜から再度長浜へ 
 柴田勝家の討滅後は、秀吉の政権継承の勢いが確立し、天下統一の歩みが一歩前進した。さらに天正11年末(1583)には、秀吉と毛利の全面講話が締結されたが、翌年にはかって信長と同盟関係にあった家康に織田信雄が連合し、秀吉との間に小牧、長久手の合戦が始まった。
 当時、坂田郡で五千石を与えられ、長浜城を預かっていた一豊は、秀吉に従って尾張へ出陣、しばらく対峙したが、秀吉は信雄を単独講話に導き、家康もこれを認めて兵を収め、一件落着した。
 天正13年(1585)3月に入ると紀州に出陣、根来(ねごろ)、雑賀(さいが)を平定、さらに四国の平定戦で長曽我部元親は緒戦に敗れて帰服した。
 6月2日、一豊は若狭一円を給して高浜城主となり、石高一万九千八百余石を、8月には秀吉の命で、秀次の老臣(老巧の臣または家老)となった。そうして3ヶ月後の8月21日には、三万石の城主となって長浜城に復帰した。時に一豊41歳。やっと大名の列に加わり、今後5年間、掛川移封まで長浜で大名統治を経験する。

(続く)

(曽我一夫記)
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