京都の小径は千年の歴史が刻み込まれて今もなお佇んでいます。その道を歩くと何かしら面白い発見がありそうで、期待に胸が高まります。今日は地下鉄東西線の蹴上(けあげ)で電車を降りて南禅寺に向かってみました。
桜の頃と紅葉の頃ならこの辺りは人また人で歩くのもままならない道ですが、夏のこの時期は人も疎らで、蝉時雨だけが降り注ぎます。
写真:哲学の道
◆ 南禅寺へ ◆
その中を5分程歩くと南禅寺の三門に着きました。
ここで思い浮かべたのは歌舞伎「楼門五三の桐」、
石川五右衛門が
「絶景かな絶景かな、春の眺めは値千金とは小さなたとえ、この五右衛門が目からは値万両・・・」
と見得を切る場面。
この三門は上層の五鳳楼まで上がることができ、値万両の京都の景観を見ることができるのです。
写真:南禅寺三門
南禅寺の三門は1295年に建てられたそうですが、現在のものは1628年伊勢津藩藤堂高虎が再建したものです。
ということは記録に残る石川五右衛門が釜煎りの刑は1594年ですから、現在のこの三門ではないのですね。
藤堂高虎という人は浅井長政に仕え姉川の戦いで手柄を立てたのは15才の時です。以後、宇和島7万石、今治20万石、伊勢津22万石の大名となり徳川3代の将軍に仕えてきました。また伏見城はじめ多くの城を築いた建築の専門家でもあったのです。
もう一つ、ここでは「三門」という文字を使いました。「山門」との違いを気にすることもないのですが、一応こだわっておきます。
「三門」とは迷いから解放されようとする者が通らなければならない空・無相・無作の3つの解脱の門のことをいい、「山門」は山に建てられた寺の寺門のことで平地の寺院でも山号を使用するようになってから山門が使われるようになったのです。
さて、南禅寺の歴史を見ると1291年亀山上皇の離宮を禅林禅寺としたのが始まりです。室町時代の禅宗には五山制度というものがあって、南禅寺は京都五山(天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)とは別格で「五山之上」という禅宗寺院最高の寺格をもっています。
しかし、応仁の乱で衰退し現在の建物は桃山期以降のものです。
この寺で見るべきものは多くあるのですが、先ずは方丈でしょう。大方丈と小方丈があり、大方丈は天正年間の御所清涼殿を移築したもので、襖絵は124面を数え、桃山前期の狩野元信、永徳らによる花鳥画や人物が描かれています。また、広縁の欄間彫刻は左甚五郎の作と伝えられ、天井、板扉なども近世宮室建築の姿を伝える遺構として注目しておきたい。小方丈は伏見城の遺構であり、「虎の間」の襖絵(重要文化財)は狩野探幽筆と伝えられています。大方丈の前面の庭園は「虎の子渡し」と呼ばれる枯山水の庭園で小堀遠州の作と伝えられています。
左手から中央にかけて配置されている石組みが親虎が子虎を連れて川を渡る姿と言われていますがこれもじっくり観賞しておきたいものです。
− 金地院以心崇伝 −
さらにもう一つ押さえておきたい人物を紹介しておきましょう。
それは第270世の住職である金地院以心崇伝(いしんすうでん)のことです。
簡単に紹介しておくと徳川家康にブレーンとして起用され、外交・宗教行政を担当していました。
伴天連(バテレン)追放令を発布し、徳川幕府によるキリシタン弾圧を始めた他、
朝廷政策である「禁中並公家諸法度」、寺院政策の「寺院法度」、
大名政策の「武家諸法度」などを起草しています。
極めつけは豊臣家滅亡のきっかけとなった方広寺の梵鐘に刻まれた「国家安康」、
「君臣豊楽」の文字に難癖を付けたのもこの人だったのです。
写真:永観堂
永観堂で見るべきものは見返り阿弥陀如来像でしょう。
言い伝えがあって「平安中期、東大寺別当の永観律師が阿弥陀像の周りを巡りながら念仏行を行っていたとき、阿弥陀像が台座を降りて律師を先導した。これを見た永観が驚いて止まると、弥陀は振り返って『永観おそし』と叱った」という。その姿が阿弥陀如来像になったのだそうです。
◆ 哲学の道 ◆
この永観堂を越えて右に回ると「哲学の道」があります。
写真:哲学の道
後白河法皇が熊野権現を勧請して建てた熊野若王子神社から銀閣寺の参道である銀閣寺橋までの1.6qほどの小径です。近代日本の代表的な哲学者西田幾太郎が思索にふけりながら歩いたことから名付けられたという。何となくロマンを感じさせる響きがあるではないですか。
京都という町は北が高く南が低い地形になっています。従って川は北から南に流れるのは当たり前のことです。ところが、京都で一つだけ北に向かって流れる川があるのです。この哲学の道に沿って流れる疎水がそうなんです。明らかに人工の運河ですね。そのことにも注意を払っておきましょう。
疎水に沿って北へ歩いていくと大豊神社の参道を横切ることになります。
◆ 大豊神社 ◆
大豊神社は887年、宇多天皇が病気平癒のために創建したと伝えられている神社で、ご神体は神社の背後の椿ヶ峰という山だったのですが平安中期にこの場所に移転してからは本殿を持つようになったといわれています。
面白いのは末社を鎮る狛犬ならぬ、大国社は狛鼠、日吉社は狛猿、愛宕社は狛鳶、稲荷社は狛狐たちが鎮っていることです。
写真:コマネズミ
大豊神社を参拝した後、哲学の道をさらに北に向かいます。
途中に橋がありこれを渡って東に行きます。
◆ 安楽寺へ ◆
そして霊鑑寺の前を左に曲がると住蓮山安楽寺という寺があります。
この寺は浄土宗寺院で恵信僧都源信作と伝えられる阿弥陀三尊像を本尊としていますが、この話だけは紹介したいと思いまして取り上げたのです。
鎌倉時代初め、法然上人の弟子に住蓮房と安楽房という上人がいました。両上人は法然上人の教えに従い、専修念仏、六時礼讃を修道していたのです。
写真:安楽寺
専修念仏は当時の庶民に受け入れられ、出家して仏門に帰依する人も出てきたのです。
そうなると、旧来の仏教集団である南都北嶺は後鳥羽上皇に専修念仏の全面停止と法然とその弟子の処分を求めたのでした。
そのころ今出川左大臣の娘で容顔美麗博識な二人の女性がいました。名を松虫・鈴虫といい、時の権力者後鳥羽上皇の下にあり寵愛を受けていたのです。
1206(建永元)年7月、上皇が熊野詣へ行幸した際、彼女らは「哀れ憂きこの世の中のすたり身と知りつつ捨つる人ぞつれなき」と詠み、住蓮房・安楽房の説く専修念仏の教えと、礼讃声明の声に惹かれて出家を決意したのでした。
さあ、熊野詣から帰ってきた上皇は怒り心頭。これまでの南都北嶺の訴えを一挙に取りあげ、翌年1月、「念仏停止」の院宣を下し、さらに2月9日には住蓮房と安楽房は死罪、法然は土佐の国へ親鸞は越後の国へ流罪としたのでした。これを「建永の法難」のいいます。
両姫は出家後、紀伊の粉河寺に身を隠していたが住蓮房と安楽房のことが気になり京に戻ってきたのです。その日は両上人が処刑された翌日で、両上人の許へ行きお詫びしたい一念で草庵の近くで自害したという。住蓮房、安楽房亡き後、「草庵」は荒廃したが、流罪地から帰京した法然が二人の上人の菩提を弔うために建立したのがこの寺なのです。
茅葺の門を入ってすぐ、右手に住蓮房・安楽房の五輪石塔があり、境内東側には松虫姫・鈴虫姫の五輪の塔が二基あります。本堂にはその悲劇を不憫に思った親鸞聖人が残したと伝えられる親鸞聖人の笠と杖も保存されています。
京都奈良歴史散歩、今回が初めての登場です。次回はさらに哲学の道を北へ歩いてみます。
京都を古めかしい町、伝統の町、儀式や格式を重んじる町と思ってはいませんか。京都ほど革新的で新しい文化を取り入れることが好きな町は他には無いだろうと思っています。今回の疎水にしても琵琶湖の水をトンネルを掘って京都に流し、それで発電所を作り、路面電車を走らせたのも新しもの好きの京都人だからできたことだと思っています。優雅な祇園祭の鉾の「胴掛け」や「見送り」の「イサクの嫁選びの図」だったり、オランダ刺繍、ゴブラン織、ペルシャ絨毯であることを考えれば納得できる話でしょう。
こういった新旧取り混ぜた話に暫くはお付き合い下さい。
(遠藤真治記)
All contents of this Web site. Copyright © 2003 Honnet Company Ltd.,
All Rights Reserved
・