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 浪士隊234名は京都壬生村に到着したのは1863年2月23日のことです。
↑輪違屋
↑角屋(松の間)
↑角屋
 ←近藤勇
↑壬生寺
↓八木邸
↑新徳禅寺
来年はNHK大河ドラマで新選組が取り上げられます。新選組が今もなお人気があるのは小説などで虚像が先行していること、幕末の激動期に青春を賭け生き抜いてきたこと、敗者としての散り行くロマンがあるからでしょうか。あるいは勤皇討幕派が明治以降の天皇制国家をつくり、そうした近代日本への不満と批判による反動なのかもしれませんが、私にはその人気の理由が何故か気にかかります。
                                            (遠藤真治記)
屯所の正確な位置も今でははっきりと分からないのですが、リーガロイヤルホテル京都(写真右)の辺りであり、ホテルの前に石碑だけが残っているのです。

新選組の実像は初期においては高邁な攘夷と佐幕意識に支えられていましたが、組織後は組織維持のため仲間も処刑するといった非情の集団になってしまいました。
新屯所での新選組は拷問、斬首、切腹に加え大小の空砲を打ち鳴らし、鶏や豚を飼い、悪臭が漂い、屠殺される家禽の声が寺中に響き亘ったのでした。西本願寺も我慢できなかったのでしょう。困り果てて会津藩公用方に改善の要望を出しています。しかし結局は寺の南200m辺りの不動堂村に1町四方の土地と建物を用意して立ち退いてもらうしか解決の道はなかったのでした。
不動堂村の屯所は大名屋敷かと思わせるほどの立派なものでした。
1867年6月15日やっとのことで新選組を追い出すことに成功したのですが、その後僅か半年で戊辰戦争が始まり新選組は京都から去っていったのでした。
新選組は池田屋騒動、禁門の変の後、入隊する隊士は増え続け130人を超えるようになり、そのため壬生の屯所では狭すぎるようになっていました。そこで目を付けたのが西本願寺だったのです。交渉に当たったのは土方歳三だったのです。
西本願寺は勤皇寄りといわれており、寺側は当然に拒絶したのですが、執拗に交渉は繰り返され、ついに暴言と恫喝に屈し、寺は本堂の北にある600畳の北集会所を新屯所に明け渡したのでした。この北集会場は明治6年に解体され姫路市の本徳寺に移築されましたが、隊士の集合や調練の合図に使われた太鼓楼(写真左)は今も西本願寺の北東隅に残っています。
 西本願寺へ 
島原の大門を出て東に向かうと10分ほどで西本願寺に着きます。
 島原遊郭へ 
 壬生寺へ 
 八木邸の南には壬生寺があります。新選組はこの壬生寺の境内で武道の鍛錬を行っていたのです。阿弥陀堂の横には壬生塚がありここに八木邸で暗殺された芹沢鴨と平山五郎の墓、池田屋騒動で亡くなった奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門らの合祀の墓もあります。
またここには近藤勇の遺髪塔や胸像もあり、いつも訪問者が絶えないところです。
 その夜、休むこともなく清河は宿泊先の新徳禅寺に全隊員を集めて演説をしました。
「浪士隊の真の目的は天皇の仰せに従い攘夷の先駆けとなる。将軍の警護ではない」と言い放ったのです。このときの近藤、土方たちの驚きは如何ばかりだったでしょう。当然幕府も驚き急遽浪士隊の江戸復帰を命じています。しかし、初志貫徹を決め込み江戸に帰らなかった13名の浪士が京都に留まったのです。それは近藤勇を初めとする8名と芹沢鴨を中心とする5名だったのでした。

彼らが宿舎としていたのが八木源之丞邸であり、今も当時の部屋を見学することができます。

この年の前年、幕府は治安維持と幕権回復のため軍隊とも言うべき京都守護職を置き、会津藩主松平容保を派遣していたのでした。

近藤ら残留組も生き伸びる術が必要でした。彼らは京で将軍家の警護と京の町の治安を守ることを京都守護職に嘆願し、認められたのは3月10日でした。この残留組が名を挙げたのは土方歳三がデザインし忠臣蔵をイメージしたあのギザギザ模様の制服を着て徳川家茂の警護をしたことや、公武合体派のクーデター(8.18日の政変)で御所を警護して成功したことでしょう。このクーデターの成果により幕府から「新選組」の隊名を授かり、身分も「松平肥後守容保御預」となったのです。

しかし局長は近藤勇・芹沢鴨という変則的な組織だったのです。近藤は「局中法度」を定め規律を重んじたのに対して、芹沢は規律を嫌った無頼漢でした。芹沢は元水戸藩士というプライドがあり近藤らを田舎剣士と蔑み、局中法度を無視して傍若無人な振舞いを繰り返していました。芹沢の市中での横暴な振舞いに松平容保も業を煮やし、近藤らを呼びつけ抹殺を命じたといわれています。その殺傷事件が起きたのが宿舎として使っていた八木邸であり、鴨居にそのときの刀傷が今も残っているのです。
芹沢鴨らの葬儀はこれまた新選組みの宿舎として使っていた前川荘司邸(写真右)で執り行われましたが、暗殺を命じた近藤勇は何食わぬ顔で死を悼む弔辞を読んだということです。

 現在、前川邸は所有者も代わり見学することはできませんが、「勤勉」「努力」等の文字が墨書された雨戸や池田屋事件の引き金となった古高俊太郎を拷問した器具なども残っているということです。
 1853年6月3日、ペリー率いる米国艦隊が開国を求めて浦賀にやって来ました。

 これが幕末の始まりでしょうか。

 その後10年、幕府は米・蘭・露・英・仏と条約を結び日本各地の港を開いていきました。この動きに対して世の中は開国か攘夷か、佐幕か尊皇か、これまでになく時勢を論じることに盛り上がりを見せたのです。当時、幕府は攘夷派浪士の扱いに手を焼いており、江戸から彼らを追い払う手立てがないか模索していたのです。
そんな中、山形県庄内出身の浪士清河八郎という男がいました。彼は尊皇攘夷討幕論を打ち立て、同志を募って諸国を巡り歩いていた男です。彼には秘策がありました。その秘策をもって幕臣松平主税之介に献策したのでした。それは「攘夷派の取り込みと将軍上洛の警護のため」という名目で浪士隊を江戸で結成し京に向かうということだったのです。まんまと幕府に金を出させることに成功し、彼の描いた尊皇攘夷倒幕のため、浪士を率いて上洛することになったのです。この浪士隊の中に近藤勇、土方歳三、沖田総司らも入っていたのでした。
第3回 -新選組の足跡を訪ねて-
 壬生寺から南に1kmほど南に行ったところに島原遊郭があります。今も当時の面影を残す大門(入り口とは言わず出口という)、揚屋の角屋、置屋の輪違屋を見ることができます。揚屋というのは現在の料亭に当たるもので、置屋というのは太夫や芸妓を派遣する店のことです。


角屋の柱にはこれまた新選組が付けた刀傷が残っていますし、前出の芹沢鴨が暗殺された夜はここで酔いつぶれるまで飲んでいたのでした。
しかしここは不思議なことに新選組が利用していたばかりではなく、久坂玄瑞、武市瑞山、西郷隆盛ら勤皇倒幕派の密会にも使われていたのです。


輪違屋は非公開で内部を見学することはできませんが、外灯に赤い2つの輪が交錯するように描かれているのが如何にも屋号を表していて何か微笑ましい感じさえ伝わってきます。