●木幡山から見た巨椋池跡

●宇治川からの景色


参考資料:京都市埋蔵文化財研究所リーフレット京都、巨椋池干拓史、史料京都の歴史(伏見区)他
1592年、朝鮮出兵のため名護屋城にいた秀吉は母(大政所)の危篤の知らせで大坂城に戻ったが母の死(7月22日)に間に合わなかった。前年には愛児鶴松を失ったが、甥の秀次の養子縁組で跡継ぎもできた。そして今回の母の死。秀吉はこの時第一線から退くことを考えついたのかもしれない。直後の8月20日には伏見殿のあった指月の丘に茶会や宴会を催す隠居城の建設を始めた。翌年9月完成した指月屋敷に秀吉は移った。この1年の間には有力大名達も伏見に屋敷を建てている。城下町としての様相を呈してきたのだった。

 そのころ秀吉の朝鮮征伐政策も明国の出兵と朝鮮の義兵の蜂起により、戦局の悪化のため講和せざるを得なくなってきた。そのため明の使節を迎へ自分の権威を誇示するために壮大な城郭都市を建設する事を思いついたのだろう。

 翌1594年1月には諸大名から数十万人の人夫を徴発して建設にかかったのだった。その概要は城下町の建設のため地域内の社寺民衆の強制移転、伏見の町の中に外堀も兼ねた掘割の建設。とりわけ大きい土木工事は宇治から巨椋池に流れ込んでいた宇治川を「槙島堤」を築いて北に流し、伏見の南側を西に流れる川に分離、さらに淀堤により淀川に直結するというものであった。

これによリ、伏見は大阪湾から大型船の運航が可能になり江戸時代まで物資輸送のハブ的港町の性格を持つようになったのである。京都から奈良に至る大和街道はこれまで宇治を通っていたのであるが伏見から南下する新街道(現近鉄京都線沿い)ができあがった。伏見城の建設のためには淀城、聚楽第(城主秀次は関白、左大臣職を解任され高野山で自刃)を取り壊し天守閣や櫓や石垣を移設した。

 ところがである。1596年閏7月13日京都は慶長の大地震に見舞われ城も町も瞬時に崩壊し死者も数えられないありさまだった。しかし、余震が続く翌日に秀吉は今の伏見城がある木幡山に新城郭を建設する事を命じている。瓦礫の山と民衆の不安の中、秀吉の伏見城建設にかける並々ならぬ執念のようなものを感じざるを得ない。昼夜兼行で復旧作業と新築工事が続けられ十月には本丸が、翌年5月には天守閣が完成し秀吉・秀頼らが移り住むことになった。

 伏見城は隠居城の目的で作られたのであるが朝鮮出兵の後始末、秀頼の誕生と秀次の失脚という出来事を通して秀吉の政権復帰で伏見は日本の政治の中心地であることは動かしがたい事実と言える。1598年3月、公家や各地の大名を招いて醍醐の花見の宴を開いたのも伏見が日本の政治経済の中心地である事の証だろう。城下町の整備も続けられ徳川家康、前田利家、石田三成、浅野長政ら武将が住み、武家屋敷、寺社、町家、道路などの区画整理が行われ現在の伏見の原型が形づくられた。現在の町名を見ると松平筑前、金森出雲、毛利長門、長岡越中、井伊掃部、松平武蔵、板倉周防、鍋島、弾正とそうそうたる名前がある。

 伏見城の工事が続けられていた1598年8月18日、「露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにはの事も 夢のまた夢」の辞世を残して秀吉はこの世を去った。秀吉の死後、伏見城は事実上家康の居城となった。そして1600年関ヶ原の戦いが始まったが戦いの場は関ヶ原だけではない。家康は伏見城を鳥居元忠に守らせたが8月1日西軍方の攻撃により炎上し消失してしまった。

 関ヶ原の戦いは家康方の勝利に終わり、伏見の町の西軍方の大名屋敷は焼き払われた。その後伏見城と城下町は家康により復興されて、徳川政権初期の間は、伏見は依然として政治の中心地であり続けたのだ。

伏見城の見学の後、我々は幕末の伏見を訪ねて歩きました。その話は次回といたします。
 伏見は現在のように宇治川に隣接しておらず、桃山時代までは大きな巨椋(おぐら)池が南側に広がっていたのである。
 伏見の高台から南を望むと広大な池とその向こうに遠く奈良までも見渡せるゆったりとした景色を見ることができた。桓武天皇はこの景色を好んでいたのだろう。だからこそこの伏見の地に陵墓が造られたのではないかと考えてしまった。陵墓は深草柏原陵と名付けられ、丹波橋駅からは東方向徒歩10分ぐらいのところにある。今日はゴールデンウイークという事もあって観光地はどこも満員だがここはすれ違う人すらいない。しかしよく整備されていて静寂で緑も多く散歩道としては最高の場所だろう。

 桓武天皇陵の横には昭和39年に再建された鉄筋コンクリートの伏見桃山城がそびえたっているのが見える。城と遊園地のレジャーランドであったが遊びの多様化と長引く不況のためなのか昨年1月末から閉鎖されている。それでも戦国史ファンの神奈川の友人は是非とも行ってみたいという。
 伏見は平安時代には藤原氏の荘園の一部であった。ここに藤原頼道の四男橘俊綱が優雅な伏見山荘を建てている。 伏見山荘は白河上皇に献上され、後白河法皇は壮麗な伏見殿に改築し、室町時代には北朝の光厳上皇に引き継がれた。したがって北朝の光明天皇、崇光天皇陵(大光明寺陵)はJR桃山駅の南100bのところの指月の丘に造られた。1533年には足利12代将軍義晴が伏見山に築城するとあるも、所在、規模とも全く不明である。

 戦国時代も過ぎ豊臣秀吉が天下を取るとそれまで別荘地程度だった伏見の様相が一変してくる。秀吉は明智光秀と戦った山崎の地に宝寺城を築いてから、妙顕寺城、大坂城、聚楽第、淀城、名護屋城と連続して建ててきた。これは秀吉が日本の支配者であることを誇示するためと、諸大名の富の蓄積を防ぐのも目的の一つだった。

●桓武天皇陵

●桓武天皇陵参道.

●桓武陵横の伏見城


●桃山城
 インターネットという言葉を聞いたのは10年ほど前だったろうか。率直なところ「それで何ができるの?」ぐらいにしか思っていなかった。そんな私が今や自分のホームページを持ち毎日掲示板やメールで見ず知らずの人と話をするようになっている。
 先日そのネットで知り合った神奈川の友人が関西にやってくるという。それで京都の伏見を案内することにした。ネットで伏見散策を呼びかけると京都市在住のご婦人も午前中だけならご一緒してくださるという。
 伏見が初めて文献に現れてくるのは『日本書紀』の雄略天皇17年(473年)の条だろう。「土師器をつくる陶工を『山背国俯見(ふしみ)』から朝廷に差し向けた」という記述がある。ここでいう陶工とは帰化人の技術集団であり京都の古代史の中で最も大きな存在だった秦氏のことである。ここに陶工がいたのは深草から木幡山の丘陵地にかけて粘土が採取できたからで、今でも伏見人形にその名残を見ることができる。
私達は京都駅から近鉄に乗り丹波橋で下車、先ずは平安京を築いた桓武天皇陵から伏見の町を歩く事にした。
第6回     − 伏 見 −

All contents of this Web site. Copyright © 2003  Honnet Company Ltd., All Rights Reserved
・