称徳天皇高野陵 神功皇后狭城盾列池上陵
神功皇后といえば応神天皇を出産する前に臨月でありながら朝鮮半島まで攻め込んだという記述が残っているつわもので全国の八幡宮の祭神になっている人です。
この地の古墳を巡ると古代のロマンに夢が膨らみ、もう一度歩いて見たくなるのです。
(遠藤真治記)
以上の他、佐紀盾列古墳群には聖武天皇を父に持ち、弓削道鏡で名を馳せた前出の称徳天皇の高野陵(たかぬのみささぎ)や神功皇后の狭城盾列池上陵(さきのたたなみのみささぎ)もこの辺りにあるのです。
日葉酢媛命陵の隣が成務天皇陵です。成務天皇は景行天皇の子供なのですが、異母兄弟にあの有名な日本武尊(やまとたける)がいます。
日本武尊は日本中を駆け巡り大和朝廷の統治地域を拡大した人です。遠征途中で薨去しなければ当然に天皇に成るべき人だったのです。
また古事記には「若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらみこと 成務天皇)、近淡海の志賀の高穴穂宮(たかあなほのみや)に坐して天の下治らしめしき・・・・」とあります。高穴穂宮が滋賀県大津市坂本穴太(あのう)町にあったことは容易に想像が出来ます。成務天皇は国造、県主を定めるなど、地方行政組織を整備した天皇ですが日本武尊の働き無しには考えられない成果だったのでしょう。
結果自殺することになったのですがその前に、自分の代わりにと、異母兄の丹波道主命(たにわみちぬしのみこと)の5人の娘(日葉酢媛命・渟葉田瓊入媛(ぬはたにいりひめ)・真砥野媛(まとのひめ)・薊瓊入媛(あざみにいりひめ)・竹野媛(たかのひめ))を天皇の妃にしています。
もう一つこの陵で特筆しておかなければならないことがあります。
この時代天皇や皇后が亡くなった時、殉死の風習がありました。垂仁天皇はこれに心を痛めていました。そこで相撲の始祖といわれている野見宿禰が天皇に「土の人馬や種々の形を作り、殉死者の代わりにしては」と申し出て、はじめて形象埴輪が埋められたということです。このことに関して日本書紀には『天皇、是に大きに喜びたまひて、野見宿禰に詔して曰く、「汝が便りなる議、寔(まこと)に朕が心に洽(かな)へり」と。則ち其の土物を、始めて日葉酢媛命の墓に立つ。仍りて、是の土物を号なづけて埴輪と謂ふ。亦は立物と名(い)ふ。仍りて、令を下して曰く、「今より以後、陵墓に必ず是の土物を樹てよ。人をな傷(やぶ)りそ」と。』との記述があります。
成務天皇陵(狭城盾列池後陵 さきのたたなみのいけじりのみささぎ)
平城天皇陵の前の道を西方に道なりに歩いていくとやがて大きな古墳が現れてきます。この界隈は佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群といって全長200bにも及ぶ古墳が点在しています。道を歩いていくと現れてきたのは日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の古墳です。彼女は第11代垂仁天皇の皇后です。日本書紀によると垂仁天皇の皇后は初め沙本毘売命(さほひめのみこと 狭穂姫)ですが、沙本毘売命は心優しい皇后でした。ところが自分の兄、沙本毘古王(さほびこのみこ)にそそのかされて天皇を殺そうとしたのです。
皇后の母親、藤原薬子との醜聞は有名な話ですね。ただし、この古墳は五世紀頃の築造で平城宮建設時に削平されています。したがって、平城天皇の陵に治定されてはいますが、これは明らかに間違いでしょう。
日葉酢媛命陵 (狭木之寺間陵 さきのてらまのみささぎ)
平城宮の北側には平城天皇(へいぜいてんのう)陵があります。天皇の名前からして奈良時代の中心的天皇のようですが、実は平安遷都を行った桓武天皇の子供で、間違いなく平安時代の天皇なのです。どうも気が弱く病弱だったため、天皇位を3年で弟の嵯峨天皇に譲位して平城京に移り住んでいます。しかし、病気が回復するや平安京にいる貴族たちに働きかけ、平城京への遷都をも画策しました。
現在、朱雀門に続き、平城遷都1300年にあたる西暦2010年を目処に第一次(*)大極殿の復元整備工事が行われています。奈良時代の中心的遺産を視覚で捉え、形にすることの重要性が認められたからでしょう。
平城宮の南東の隅には東院庭園が復元されています。この庭園は称徳天皇の時代に宴会や儀式を催したとされています。
日本庭園というのは自然に対する思い入れから造られたのでしょう。山あり、川あり、谷あり、その自然を庭園の中に凝縮、投影して、それを眺めて心の安らぎを求めたのでしょう。本格的日本庭園の起源は飛鳥時代に皇極天皇が飛鳥苑池を造っていたことから見て、私は600年代前半と推測しています。そして現在でも庭園は日本人の心に共感を与え続けているのでしょう。
(*):第一次とは・・・
奈良時代に平城京が都であり続けたのでないということを意味しています。聖武天皇の治世のとき京都府山城町(恭仁宮)、大阪市中央区(難波宮)、滋賀県信楽町(紫香楽宮)と転々と遷都しています。恭仁宮は平城宮の大極殿などを移築して造っていますから、聖武天皇の時にすでに大極殿などの建物は消失していたのです。そのため再び平城宮に戻ってきた時には第二次の宮殿を建てなければなりませんでした。
平城天皇陵 揚梅陵 (やまもものみささぎ)
平城宮朱雀門
平城宮跡へ
奈良時代の官庁街というべきこの平城宮の広さは、実に東西約1.3`、南北約1`、この中で律令国家の管理運営が行われていたのです。ここは昭和27年、国の特別史跡に指定され、奈良文化財研究所により昭和34年から現在も継続的な発掘調査が行われています。私も何度か発掘の現地説明会に参加しました。
平城宮の中には天皇の住まいの内裏をはじめ、司法、行政、立法、儀式を行った大極殿、朝堂院などの建物があり、青い空のもと朱と白のコントラストが眩いばかりでした。
天高く馬肥ゆる秋、10月になり空は高く青く澄み渡り、本格的な秋の訪れを感じられるようになりました。今回は秋の気配を求めて古の都、奈良市の郊外を歩いてみました。
近鉄西大寺駅で下車。ここから東へ10分程歩くと平城宮跡の北の端に出ます。
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第8回