第3回

  弥生時代、定点とその像が変わる
 1995年6月マスコミは「弥生都市国家」「巨大神殿」などのタイトルで、池上曽根遺跡の大型建物と巨大な刳り抜き井戸の発見を一斉に報じた。
大阪府和泉市池上町と泉大津市曽根町にまたがる、この遺跡の存在は明治時代から知られていたが、1965−71年の第二阪和国道の事前調査により、直径300mにおよぶ環濠集落で弥生中期後半の遺跡としては最大規模のものであることがわかった。

保存運動の高まりと相俟って,1976年には環濠が巡る範囲約11ha が国史跡に指定された。1990年から8年間にわたっておこなわれた発掘調査は小規模なものであったが、集落中心部で検出された巨大な建物や井戸は、弥生時代の大規模な環濠集落を都市と見なす思い切った研究を促進させることとなっ
た。

 調査では床面積が約135uもある巨大な掘立柱建物・大型建物が発見され、断片も含めると十八基の柱穴に十六本のヒノキや二本のケヤキの柱根が遺存していた。建物の南面には、直径2m以上のクスノキの巨木を刳り抜いて井戸枠にした大型井戸も設けられている。

この建物は、短期間にほぼ同位置で3−4回の建て替えが行われ、それに伴い大型井戸やその排水溝、周辺の区画施設も作りかえられた。

大型建物は、この中での最終段階の建造物にあたる。ヒノキの柱材十六本の中から、比較的遺存状態の良いもの五本を選定し、年代測定を行った。
このうち柱12は樹皮型、柱20は辺材型である。柱12と柱20の年輪パターンとヒノキの暦年標準パターン(紀元前614−紀元46)との照合は成立し、それぞれの年輪年代を柱12は紀元前52年、柱20は紀元前56年と確定することが出来た。

このことから、弥生時代中期後半の暦年代の一定点が紀元前50年ころにあると想定されるようになった。
従来の年代観では、概ね西暦一世紀中ごろと推定されていたが、それに対し九州では甕棺墓副葬の前漢鏡を根拠として、弥生中期後半は紀元前一世紀後半とする説が主張されるようになり、近畿とは約100年の時間差を生じていた。

池上曽根遺跡遺物の年輪年代法による測定結果は近畿・九州の時間差を解消し、弥生中期後半の暦年代を最大一世紀も遡らせることになったのである。
 一方「弥生時代の開始年代が500年ほど遡及する」との研究報告が、国立歴史民俗博物館の研究チームによっておこなわれたのは、2003年3月のことであった。

その報告のまとめは、つぎのとおりである。
「九州北部の弥生早・前期の土器である、夜臼II式と板付I式の煮炊き用土器に付着していた煮焦げやふきこぼれなどの炭化物を、AMS による炭素14年代測定法によって計測し、得られた炭素14年代を年輪年代法にもとづいた国際標準データベース(暦年較正曲線)を使って暦年代に転換した所、11点の試料のうち10点が前900−750年に集中する結果を得た」。

したがって、北部九州の一角で水田稲作がはじまった夜臼I 式の年代は、前1000年ごろまでさかのぼる可能性がでてきた、つまり、弥生時代の始まりが前5−4世紀という、これまでの定説よりも500年ほど早まったわけである。

弥生時代開始年代の遡及は、水田稲作とその文化のはじまりが500年はやくなることを意味し、これまでの歴史像が大きく変わる可能性がある。縄文文化の消滅原因、弥生文化と縄文文化の融合の仕方、弥生文化の普及とその具体相、後につづく前方後円墳国家の時代の社会的特質への影響など解明すべき問題がいろいろとある。
当然のことながら、これまでの歴史像をつくりあげてきた歴史観も大きく揺さぶられることになるであろう。

 弥生時代開始年代の遡及がもたらした衝撃は、ほとんど「信仰」に近かった水田稲作の拡大力や生産性の高さに疑問符が付されたことにある。開始年代が500年遡及することは、弥生時代各期の年代幅が均等に長くなるということではなく、弥生時代前期がおよそ500年間もの長きにおよんだということになるからだ。

したがって、500年を加算することでの弥生時代前期の「間延び」の評価が問題となるのである。すなわち、「水田稲作ならびに金属器の製作・使用は、日本列島の社会を大きく発展させた」との通説における「急速な発展」の中味の再検討、水田稲作の拡大力は従来考えられてきたほど強力ではなく「数百年かけて緩慢に各地に普及・定着していった」のではないか、さらに「水田稲作の開始とともに北部九州では人口が急増した」では人口増加の上昇曲線がゆるやかにならざるを得ないことなどが考えられた。
 国立歴史民俗博物館の研究チームは、その後、板付遺跡(福岡市)出土の板付式土器を、炭素年代法で数多く測定しデータを集積した。また、全国の市町村に測定する試料の提供を呼びかけて集まった約1万点のうち、型式が明確な土器を優先して約5千点の年代測定を行った。

朝日新聞(2009.3.31.夕刊)はこの新たな年代測定の結果によって、わかってきたことを「変わる弥生像 暦博の研究から上」の表題で、弥生集落の規模も、稲作の広まり方も考え直さなければならないと次のように要約して報じている。

 福岡市の板付遺跡から出土した土器は板付式として北部九州における弥生時代時間の物差しの役割を
果たしてきた。この板付式土器を多数測定した結果、型式ごとに使われた期間がわかってきた。板付I 式は70−80年、板付a 式が約130年、板付b 式は約130年である。この結果は考古学者を驚かせた。

弥生土器は30−50年の周期で型式が変化してきたと考えられていたからだ。型式変化に周期性のないことも判明した。土器の存続期間が長くなった影響は大きい。遺跡で複数の住居跡が確認された場合、床面から同じ型式の土器が見つかれば同時に存在した住居と見なすのが一般的だったが、歴史民俗博の藤尾教授は「そのような考えはもう成り立たない」としたうえで、「集落には同時に何軒の家があり、人口は何人だったのかなど弥生社会は根底から再考を迫られる」と指摘する。

 稲作の広まり方も再検討を迫られている。これまでの歴史観では、稲作は極めて革新的な生産技術で、短期間で列島に普及し、遅れた縄文文化を一掃したとされてきた。

歴史民俗博が日本全国の型式が明確な土器約5千点を測定し、各地域で水田が出現する段階の土器をつなげると、稲作の広がり具合が見えてきた。この場合、陸稲を含む稲作は縄文時代にもあった可能性があり、水田稲作の登場が弥生文化の始まりであるという定義を採用している。紀元前10世紀に北部九州に上陸した水田稲作は、まず前800年ごろ四国の西部と南部に伝わった。

ついで瀬戸内に広がり、前650年ごろ近畿圏に到達し、前500年頃名古屋で始まっていた。ところがこの先、
東進の痕跡がなかなか現れない。関東で水田が確認されるのは前100年ごろ。その一方、日本海沿いに稲作は北上し前400年ごろには青森に到着。そこから太平洋側を南下していた。

関東の稲作は、西からではなく、北から伝わった可能性が出てきた。
稲作の普及は遅々として進まなかった。中でも東海と関東の間には深い溝が見えてきた。これは何を意味するのだろう。「関東地方には独自の文化があり、異質な文化の受容に反発があったのでないか?」

「東海から中部に畑作文化が広がっていて、関東への稲作の波及がブロックされたのではないか?」とか、いろいろな推測がある。
 新たな姿が浮かび上がってきた。縄文と弥生という異なる文化は日本列島のなかで数百年の長さにわたり併存していたのである。自然に依存していた獲得経済の縄文文化はいきづまり、水田稲作の生産経済をひっさげた弥生文化がそれを救ったのだとの生産力優位史観、或いは発展史観があった。

しかし、実態はそうではなかった。採集・狩猟・漁労に、後期以降は地域によってはコメも含めた雑穀栽培の組み合わせを経済基盤とした縄文文化は、基本的には均質的な文化であった。

そこに水田稲作が導入されることで、続縄文文化、弥生文化、貝塚後期文化の三つに分裂した。そして、これらの文化と経済は平安時代、更には近代国家成立期まで併存していた。

 「古事記」や「日本書紀」の神話についても、神武紀元が紀元前660年に設定されていることに問題ありという指摘が多かったが、 弥生時代の始期が500年も早まると、日本列島に紀元前七世紀に何らかの国家形成に向けての動きがあったとしても、必ずしもおかしなことではなくなってくると考えられるので、今後の展開が期待されている。
(岡野 実)
文献 1)考古学と暦年代 西川寿勝他 監修 ミネルバ書房 (2003)
   2)弥生時代千年の問い−古代観の大転換 広瀬和雄他 ゆまに書房(2003)
   3)変わる弥生像 暦博の研究から 上 朝日新聞夕刊 (2009.3.31)


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