-ふたたび海人族・倭について- 
                                             第10回
 三世紀の「魏志倭人伝」よりも遙かに古い「山海経」に倭という文字がでてくることを、前回の「わだつみに生きる海人・倭(人)」で紹介した。
ここに登場する倭は、紀元前の昔から、日本列島周辺をはじめ、遙かに中国の南部沿岸から山東半島、遼東半島、南朝鮮の多島海の島々、済州島などの広い世界で活躍する海人であったと想像できる。

●子安貝
 何故、中国人が倭(人)に関心を示し、古い歴史書に「倭」が登場するのだろうかという謎の答に、「貴重な子安貝(タカラガイ)を中国にもたらすのが倭人だったからだ」という説明をしたのは、ロマンあふれる壮大な仮説「騎馬民族征服王朝説」を提唱した故江上波夫氏である。
若い頃、江上氏は「極東における子安貝の流伝に就きて」という論文を「人類学雑誌」に発表している。

1932年のことであるが、当時はまだ沖縄諸島での子安貝の産出は確認されておらず、中国での子安貝の使われ方に重きをおいた研究であった。中国大陸では、日本の縄文後期、晩期、弥生時代、古墳時代、その後の時代にかけて、子安貝は貨幣に相当する価値をもつものとして珍重されていた。「財」や「貯」など、今日、経済活動に関する漢字には貝偏が多く、旧字体の「賣」「買」などにも貝がついている。

この漢字の貝の字はタカラガイの形から象形されたものである。タカラガイにはいろいろな種類があるが、古代の中国人が珍重したのは、小指の先ほどの大きさのキイロタカラガイである。同じタカラガイ類でも色艶の良いこのキイロタカラガイ以外は財としての価値がなかった。

 戦後になって沖縄諸島での考古学的研究が盛んとなり、研究が進むにつれて、アジアでのタカラガイの主要な産地が沖縄諸島だったことが明らかになってきた。
日本列島で宝石のように貴重視されていたイモガイ、ゴウホラ、スイジガイなどの採取や加工のこととともに、タカラガイの諸事情もよくわかりだした。

江上氏は亡くなる数年前になって、古代の中国の状況などの検討を重ねた上で、口頭発表の形で「倭人とタカラガイ」という論文を発表した。この論文で中国の歴史書に「倭人」が登場するようになった理由として、倭人がタカラガイを持ってくる人々であったことを挙げ、そのために中国人が倭人に注目したのであると結論づけている。
南方系の海人族は弥生前期の中頃には江南から北上して、東シナ海で黒潮の分流である対馬海流にのって、その流れの両岸にあたる地域に広がっていった。

一方、時代はより後であるが、アジアの内陸河川(黒竜江、松花江、遼河、鴨緑江そして豆満江)の漁労民が遊牧民文化と接触して、狩猟の技術や遊牧民の集団を組織する力を学び、馬の代わりに舟という移動手段をもった略奪者となり勢力を伸長した。

この「内陸河川漁労民が遊牧文化のあるエッセンスをパッと取り入れることができた」という大胆な仮説は梅棹忠夫氏の提唱したものである。
梅棹氏はこの考えが高句麗国家の成立からのちの渤海まで続く一つの柱であり、それが日本建国に続いてくるともしていた。北進しまた南下する南北両文化の接触地帯は朝鮮半島の基部と推定されている。

日本人の起源を考える上で重要な「古事記」と「日本書紀」の神代の説話に、中国の江南、呉あたりの南方海人族と共通の「海幸・山幸」の伝説、また北方民族に共通の「国の成り立ちは天から降臨した神によるものである」という神話がふくまれていること、即ち南北の伝説が合体していることに注目すべきであるという。
このことは南から北から海を渡っていろいろな人種が列島にやってきて定着し混血したことをしめしている。

 海人族すなわち漁労民と言っても、そのなかには潜水漁労民、釣り漁民、網漁民といった職業の技術的な違いが明らかに存在する。
海にもぐる刺青をした海人は隼人系であり、薩摩・大隅の南九州だけでなく、九州の沿岸に広く分布していた。土蜘蛛・女酋といわれていたのは、隼人系の特に女を中心にした潜水海女の集団であったと考えられる。

もう一つは安曇系で漂海民的、航海民的な種族としての特長が強く、苗族が漢民族に追われて海上に去り、漂海民として生活するようになったのが、ずっと北上して九州の北岸まで来て安曇になったのではないか?
このインドシナ系苗族の航海漁労民と江南から発した隼人系の潜水漁労民という二つの系統が南方から九州に入っている。

 安曇の海人神社を奉ずる海人族は漁業を専従とする海人ではなくて、舟をこぐほうの海人であった。家船系統の漂海民的海人であって、やがて九州から瀬戸内海に入り、朝鮮半島と九州、瀬戸内を通して大和との通商航海に活躍する。
安曇の海人神社と対比されるのが、宗像三女神をまつる宗像神社であるが、これを信仰する海人は九州から日本海を北に越の国まで、すなわち潜水漁労民の潜れる海の範囲まで出て行く。現在でも能登半島・舳倉の海人は宗像の女神を祭っている。

 「浦島伝説」はさまざまな時代のものがあるが、その一番古い原型は丹後にのこっている。丹後系の漁労民を束ねていた氏族・日下部首が始祖伝承として浦島伝説をとっていた。
それが体系化されて伝えられていたものが、国司に注目されて記録され運よく後の時代まで残ったのである。

古くさかのぼれば、浦島伝説は広く漁労民間に伝承されていたものではないかと推測できる。浦島伝説の竜宮城には二つの形式がある。
一つは竜宮が海底にあって潜っていくという形の伝承で、いまひとつは舟に乗って海のさい果てまでいくと、そこに竜宮があるという見方、つまり海上の水平線上にあるという見方をする伝承である。

丹後や丹波のほうの日本海の浦島伝説では海底に行くという形をとり、「万葉集」の大阪湾の浦島伝説は水平線上を行くところが、同じ漁労民であっても系統が違うという一つの証拠であろう。「丹後国風土記」の浦島伝説は、中国の神仙思想などの影響を受けて、素朴な伝説の原型からだいぶ変化しているが、その話の骨組みは他界思想の反映と見ることができる。

守護神である海神がどこにいるかという問題であり、神が海底にいるという見方と、あるいは海のかなたのどこかにいるという見方をする者の二つがあって、それが結局は海神信仰をもっていた人びとの魂の帰る場所がもと来た海上のかなたとか、あるいは海底とかへいくので、他界思想になるわけである。
舟に乗って海を行く漁労民は海上のかなたのどこか、潜水漁労民は海底が神聖な存在ということになる。

 ここらで、北方系の海人族渡来人「天日槍・アメノヒボコ」を登場させねばなるまい。
アメノヒボコは「古事記」と「日本書紀」に日本に渡ってくる新羅の王子として、唐突に登場する。
「古事記」によれば、アメノヒボコは「珠二貫、浪振る比礼、浪切る比礼、風振る比礼、風切る比礼、奥津(おきつ)鏡、辺津(へつ)鏡」をもたらしたという。

浪と風にかかわる比礼、沖と岸を祭って航海安全を祈る鏡を持参したと云うことは、彼らが海人族であることを示している。
アメノヒボコの渡来は4−5世紀とされていたが、弥生中期から後期と訂正する見方が提案されている。

また、「播磨国風土記」にある揖保川流域での出雲族とアメノヒボコの戦いも、日本列島の西部各地に割拠した地域王または首長が相争った「倭国大乱」にあたる2世紀の終わり頃であるとしている。
「記紀」はアメノヒボコの系譜を記しているが、この系譜には「但馬」「葛城」「息長」などの豪族名が登場し、「神功皇后・オキナガタラシヒメ」につながっている。

京都の宮津市にある籠(この)神社には、奥津鏡・辺津鏡という名前の鏡が伝わっており、前漢鏡と後漢鏡と鑑定されている。アメノヒボコに象徴される渡来集団は紀元前後にいろいろなところに鏡を持って渡来してきたのであろう。

その一つが現在まで所蔵されているといえるのではなかろうか?大乱を経て、アメノヒボコ集団の末裔が強力な首長・部族として存続したことは、「記紀」がアメノヒボコの系譜は歴史を説明するためには不可欠として掲載しているところから明らかである。
さらに日本海を渡って越に渡来する後続の海人族と連携、琵琶湖周辺を勢力圏とし山城国にも進出、ついに古代史の謎・継体天皇の登場となる。

 丹後一の宮である籠(この)神社は日本最古の系図の一つとされる国宝「海部氏系図」を所蔵していて、この海部は「あまべ」とよむ。律令政府が海人を掌握する場合に、農耕地帯とは明らかに別の地帯だとして、郡をたてるところがいくつかあり、紀伊、豊後、尾張、隠岐では海部郡として分けている。
さらに郷として分けているところは阿波・志摩・佐渡とかたくさんあるわけである。
漁民が多く、塩のとれるところが郡になったわけではなく、むしろ歴史的因縁と航海技術者との関係を重視して郡が設置された。
海部を「かいふ」と読むことがある。豊後(大分)の海部郡は「あまべ」だが、阿波(徳島)では「かいふ」と読んでいるし、紀伊(和歌山)でも「かいふ」と読む場合がある。
紀伊や阿波の海部郡・郷は点々と海辺に散在している、むしろ海辺が主で、海人の根拠地が郡・郷になっている。

 五世紀にこの海人族の社会に非常に大きな騒擾が起こった。地球気候の変化によって、五世紀の古墳時代は非常な寒期となり、漁場の海況が変わって日本海の海で潜水漁労ができなくなり、そこで暖かい海を求めて瀬戸内から太平洋岸に移動した。

そして丹波から伊勢に海女が移動したようにいい漁場、新しい漁場を求めるが、そこで前から居る漁労民と漁場の争いをおこした。その海人の騒擾を押さえて台頭したのが安曇氏で、安曇氏が全国の海人族の総官掌者となって、海人を統一支配したという伝承がでてくるのである。
(岡野 実)
文献 1)空白の古代史 水野 祐、森 浩一 社会思想社(1980)
    2)知られざる古代 水谷慶一 日本放送出版協会 (1980)


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