第31回

                                     − 琵琶湖に蒸気船 −
 戦国時代の末期、天正15年ごろ(1587)琵琶湖水運の拠点を堅田から大津に変えた豊臣秀吉の“大津百艘船構想”(本誌メトロ163号 25回)はものの見事に成功、徳川末期の大津港は、今日の人々が想像も出来ない大小丸子船や大きな帆船が出入港し、湖岸には諸藩の蔵屋敷が軒を連らね、荷揚場には数多くの船が並ぶ活気あふれる港町に変貌していた。中でも沖を行く五百石船や千石船と呼ばれる大きな船が帆をはらませ、ゆっくりと湖上を縦断して行くさまは、人々の心を和ませる琵琶湖ならではの“風物詩”でもあった。
 だが、穏やかだといわれる琵琶湖もいったん時化(しけ)ると恐ろしい湖に変わり、古くから多くの悲劇を生んできた。琵琶湖特有の比叡おろし(南西風)比良八荒(北西風)湖心部に起こる逆気流による龍巻などがそれである。これらに対しては帆船や艪船(ろぶね)ではなすすべもなく、波の荒れるまま、風の吹くまま木の葉のようにもて遊ばれた。当時の巨船・五百石船、千石船も同様、あげくの果ては座礁し、転覆して貴重な人命や積み荷を無に帰し、泣き寝入りする以外に方法はなかった。だが、徳川末期になってようやく天災に抵抗しようとする二人の人物が現れた。一人は大津の百艘船問屋・一庭(いちば)啓二、いま一人は加賀大聖寺藩士・石川嶂(しょう)であった。

 二人の出会い
 一庭は、弘化元年(1844)京都の商家・加賀屋に生まれ、のち大津百艘船仲間の一員である大津・平蔵町の船屋へ養子に入った。彼は15才の時、船体を黒く塗った三本マストの蒸気船の木版画を見て、ある種の恐怖感と威圧感を覚えると同時にどうして帆と蒸気で大きな船が走るのか ―― その仕掛けが知りたくて、外国わたりの書物や先覚者の手引きを受けて蒸気機関に関する知識を深めていった。
彼に新しい知識を植えつけていた人の中に石川嶂がいた。

 石川は、加賀大聖寺藩の海軍奉行に所属する藩士で、その頃、加賀大聖寺藩の所領である大津浜と海津間の航路を行き来し「大きな大砲を積み、船足もうそのように早い。風がなくても蒸気で走る。あんなものに攻撃されたら日本の国はどうなるのだろう・・」とつぶやいていたという。

 その頃、大津浜は加賀大聖寺藩の所領で、京都禁裡護衛の任を担当、万一の場合は、多数の藩士を京都へ送り込むため、湖北・海津港から大津浜までの航路権を守り、大聖寺藩へ帰るごとに「今のような貧弱な船でどうして禁裡守護ができましょうか。是非蒸気船を建造してほしい」と強く藩に建議していた。しかし、藩には、時代の変化にまだ背を向ける人が多く、若い石川の進言は握りつぶされるばかりだった。憤然とした石川は、藩籍を返上して、単身大津浜に出向いた。
そこで彼は百艘船の問屋衆に呼びかけたが、問屋衆の反応もにぶかった。

石川が一庭と知り合ったのは、この時期でたちまち二人は意気投合、蒸気船づくりに命をかける盟約をした。

 汽船一番丸進水
 二人は慶応3年(1867)春、長崎を訪れ、幕府の開設した製鉄所(後の三菱造船所)で、蒸気機関操作を杉山徳三郎について学び、造船の技術をオランダ人のポーゲルについて習得「月月火水木金金」休日のない勉強振りであった。
 その頃、長崎に滞在していた加賀大聖寺藩の海軍奉行・稲葉助五郎に会ったのを機に、二人は汽船建造の必要性を説いた。稲葉は二人の強い意志を認め、建造資金として用金数千円を貸し与えた。二人にとっては、まさしく神助とも言える出会いであった。この金で陸用蒸気機関二組をイギリス人から譲り受けることが出来た。早速熟練した鉄工職人や船大工を長崎で集め、大津へつれて帰り、造船計画を進めた。
 翌明治元年(1868)加賀大聖寺藩から12,500円の建造費が出資されたのを機に、大津川口町に大聖寺藩用場を設置、建造に着手した。
工事は4ヶ月の突貫工事の後、翌2年3月3日、見事に進水した。木造外輪船、長さ16.3m、幅2.7m、14t、14馬力、まさしく蒸気で動く驚異の船であった。
 船名は、琵琶湖に初めての汽船というところから「一番丸」と名づけられ、加賀大聖寺藩大津汽船局は、初代船長に一庭啓二を任命した。

 大聖寺藩に籍を与えられた一庭は、チョンマゲをゆい、オランダ渡りの洋服を着用、靴をはき、白帯を締めて脇差しという「先端スタイル」で一番丸の舵輪を握り、
浜大津――海津間64kmの航路を往復した。
 啓二は、琵琶湖が晴天に輝く日であっても、オランダ人・ポーゲルからもらったコウモリ傘を身辺から離さないのが独特のスタイル。マストには、常に加賀大聖寺藩の紋所と日の丸の旗がひるがえっていた。これらの様子を、当時の瓦版(新聞)は「漁船をけちらし、大津百艘船の帆かけ船を押しのけ、しぶきをたてながら堂々と進む一番丸、まかり通る」と書き立てたという。

彦根市松原内湖遺跡で発見された丸木舟一艘(全長5m、幅45cm、厚さ4cm)縄文時代後期
 続いて二番丸就行
 ところが、一番丸の好調なすべり出しに反対する者どもが相い次いだ。湖畔沿道各浦の旅籠屋(はたごや 宿屋)と、古い考えを捨て切れない回漕問屋、それに沿岸を漁場とする魚師たちであった。なかでも旅籠屋は、客足を奪われ「営業妨害」と叫んで、いっせいに妨害しようとした。さらに彼らは漁師たちをたきつけて「エンジン音で魚がいなくなった」「一番丸の大きな水車がタナ場をこわし、小糸網や流し網を破る」などという口実をつけて反対運動をあほり立てた。これらは船大工のストや、放火事件にまで発展した。しかし蒸気船を好む乗客は、常に船上にあふれていた。
 一番丸の就航に成功した石川や一庭は、続いて二番丸の建造計画を立て、大聖寺藩に願い出たが政府(民部省)が沿岸各地の反対をどの様に受けとめているかが気がかりだった。
明治2年(1869)10月、民部省は大津県に対して大聖寺藩の増船を認める決定を下した。同時に、蒸気船への反対行為については「いろいろと理由はあろうが、開化につれて、転職、改業の道もあり、申し立ての通り、取りはからう筋のものではない」として却下した。

 ところがこの頃、全国的に廃藩置県問題が台頭して加賀藩も二番丸の建造費に待ったをかけた。
この時、一番丸建造時に石川に協力した一庭が、大津町人や旧百艘船仲間を説得して一口100円で、190口の募金に成功、建造費18,280両(一番丸は8,720両)を生み出してやっと進水に漕ぎつけた。

 二番丸は、長さ22m、幅4m、32t、一番丸と同じ木造外車輪の船で、一番丸より大きくて煙突が太く、もくもくと黒煙をはきながら波頭を立てて航行する姿に乗客は、歓声をあげて喜んだ。乗客を乗せ切れない時は、六十石の丸子船に乗せて曳行した。それでも先を行く帆かけ船をすいすいと追い越して行く文明開化の利器の持つスピード感に満足していたという。
汽船の便利さが湖上の話題になり出すと、古い帆船にしがみついて、反対運動を繰り返していた各浦も、一番丸、二番丸の寄港を申し込むと同時に、彦根藩は補助金を出して汽船建造に乗り出し、明治3年に金亀丸、ついで松宝丸、長浜にも湖龍丸、飯の浦に盛大丸、塩津にも渉湖丸など明治2年2月3日(1869)から明治7年(1874)9月までの五年間に19隻の蒸気船が各所で誕生、湖面の黒煙の数が増えた。これにともなって蒸気船同士が貨客争奪をめぐる激しいスピード競争を演じ、あげくの果てには悲しい災禍を招くことになった。


 遭難事故と対策
 最初の遭難事故は、明治7年(1874)11月1日、唐崎沖での「長運丸」(長浜所属)の沈没、乗客十数人が死傷、原因はボイラーの過熱による爆発。続いて同8年2月24日、満芽丸(大津所属)の過重積載から、小松沖(滋賀郡志賀町)で転覆し、乗客47人が犠牲となる悲しい事故を招いた。
 事故を重視した大津県は、明治8年7月、兵庫製作所の外国人技師を招いて検査に当たる一方、諸機械の検査、船長の選任、航行の注意など取締規則を通達、翌9年3月20日には、湖上汽船の危険防止と人名保護を目的に、大津湊町に「汽船取締会所」を設け、湖上汽船の検査から湖上船運行のすべてを監視、指導するなどで事故数を軽減。
大正期に入ると蒸気船が鋼鉄のディーゼルエンジンに変わるなど、神戸や横浜港を思わせる新しい観光船がお目見えして琵琶湖は、全国の観光ファンを楽しませるメッカへと発展していった。

写真:琵琶湖周辺の各浦(港)=○印=と大津港から主要港までの距離
                                                        (曽我 一夫記)
参考図書
  ▽大津歴史博物館発行「琵琶湖の船」▽滋賀県厚生郡青少年対策室発行「郷土に輝くひとびと」
  ▽琵琶湖汽船株式会社発行「大湖汽船五十年」

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