第32回
              幕末の大政治家

         彦根城主 井伊 直弼(上)
 埋木舎(うもれぎのや)での修業
 直弼は、彦根城主掃部頭直中の子として文化12年(1815)12月29日、彦根城の槻(けやき)御殿(いまの楽々園)で十四番目の男子として生まれた。幼名を鉄之助、後に鉄三郎と改名、三歳で母を失った。
17歳の天保2年(1831)父直中が死に、長兄直亮が第十四代彦根城主となった。直弼はその後、槻御殿を出て埋木舎に移った。埋木舎は、彦根城の外堀に近い尾末(おずえ)町に、いまもそのままの古いたたずまいを残しており、歴代城主の幼少青年期の修業の場となっていた。直弼もひたすら文武の道を修め、剱の道では「七五三柔居相秘書」をあらわすほどの居合術の奥義をきわめ、とくに三段剱法をあみ出す“剱聖”の力量をも収得していた。
 埋木舎には、粗末な、間に合せの茶室がある。直弼は、この茶室
を「 露軒」(じゅろけん)とよんで愛好した。      
この茶室名は、法華経の中の「甘露の法雨をそそぎて、煩悩(ぼんのう)の焔を滅除(めつじょ)す」という一節からとったもので、茶の道に入り、人間のわずらわしい慾を絶とうというのである。
 直弼の茶道は、極意をきわめたもので、茶名を「宗観」または「無根水」(むねみ)と号して一派を起こし、とくに茶道の中で「一期一会の精神」をもっとも大切にした。この精神こそ、そのまま直弼の生活の信条であり、生活の根本態度でもあったといわれている。
 直弼がその精神を伝えた「茶湯一会集」のなかに、つぎのようなことが書かれている。
そもそも茶の湯の交わりは、一期一会といって、例え幾度会ってい
ても、今日のこの交わりは二度とかえってこないことであると思えば、一世一度のことである。
 だから主人は、あらゆることに気を配って、真心をつくして客をもてなし、客もまた主人の気配りに感じ入って誠意を持って交わることである。これを一期一会というのであって、決して主客ともいいかげんな気持ちで茶をとり交わしてはいけない。

 このような人と人との交わりの厳しさが、ほんとうの友情を生み出すのであろう。われわれは、これほど人間を大切に考えたことがあったであろうか。これほどまで人との交わりを真剱に考えたことがあったであろうか。  さらに一会集の中には、主客とも余情残心を催し(名残惜しさをあらわし)別れが終ったら、客は露路を出ていくとき大声など出さないで、静かにふり返りつつ出て行けば、一方主は、客の姿が見えなくなるまで見送るものである。
 それから家の戸障子などを早々にバタバタ締めるということは、感じの悪いことこの上もなく、一日のせっかくのもてなしが無になってしまうから、決して取片付けは急いではならない。
 
 さらにもう一度、心静かに茶室に戻って、今日の交わりが再び戻ってこないことを思いつつ、一人でもう一服、茶を入れて味わうことが一期一会の本当の心である。このときは、シンと静まり返って、話す相手といってなく、まことに独りでなければ味わいえない境地である。ここには、ほのぼのとする風流の味を超えて、厳しいまでの人間愛が感ぜられるのである。この一期一会の境地こそ、再びかえることのない人生の尊厳さを悟りえた直弼だけがわかる境地であったといえよう。
 直弼江戸に移る
 直弼32歳のとき、兄直亮の養子となり、いよいよ埋木舎を出て、江戸に移った。それから四年後の嘉永3年(1850)10月、直亮の死によってその後を継ぎ、第十五代彦根藩主となった。いよいよ波乱続きの嵐のような人生に飛び込んだ。ときに直弼36歳の秋であった。徳川幕府は三代将軍・家光の頃から日本は、オランダとシナを除いて外国との交際は一切閉じるという鎖国政策をとってきた。そのため外国の動きについては、ほとんど関心もなく、閉ざされた中で平和を求めていた。

 開国の夜明け
 こんな矢先の嘉永6年(1853)6月、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーは、大統領の国書を持ち、軍艦四隻をひきいて突如、浦賀に来航、修好条約を求めた。幕府は浦賀・久里浜で国書を受け取り、翌年回答することを約してこれを帰した。

 国書には、「あなたの国が外国との交わりを禁じておられることはよく知っています。しかし全世界の動きから考えて、今こそ新しい法律や制度を定めなければならないでしょう。そこでとりあえずわがアメリカ合衆国と商売取引をしてください。つぎに、シナ方面へ行くアメリカの船が台風にあって難破したときは、あなたの国でこれを救い、荷物や財産を保護してください。またアメリカの船の航行の途中、日本の南の港に立ちよったさい、石炭、食料、水などを売ってください」と書かれていた。
 しかし、当時の日本人にとっては、この申し出のねらいがなかなか理解されなかったため、多くの人々がこれに対して敵意さえ示した。そして、ただちに外国船を打ちはらえとまで叫ぶ人が多かった。ことに徳川幕府最高の権力者、徳川御三家の一人、水戸の徳川斉昭(なりあき)を中心とした「攘夷(じょうい)主戦」(外国を打ちはらえ)の動きは厳しいものがあった。
 このような動きの中で、彦根にいた直弼は、決然として開国政策を主張し、主戦論者と真っ向から対立した。このとき直弼が幕府に出した意見書「別段存じ寄り書」には、つぎのような意味のことが書かれていた。
 このような考えは、当時の日本人にとっては思いもつかないことであったであろうが、今にして思えば、世界の情勢をながめ、広い視野に立って日本の未来を見通したすばらしい考えであったといえる。
 翌年、アメリカ艦隊が再び江戸湾の入口に錨をおろし、ペリーは先年の国書の返事を求めてきた。幕府の主だった役人たちは、いろいろ相談をくり返したが攘夷論、開国論ともに譲らず、なかなか話がまとまらなかったが、世界の動きのなかから日本の未来を考えている直弼の意見に賛成する人が増えてきたので幕府は、反対をおし切って、
「今の世界情勢から考えてみれば、鎖国政策というようなことでは、国の平和は保たれそうもありません。したがってアメリカ合衆国が望んでいる臨時急用の石炭、薪水、食料は長崎で与えるようにした方がよいと思います。また、ほかの国(イギリス、フランス)と商売取引もしましょう。そうすることが有無相通じる天地の道でありましょう。そしてわが国も大きな船を造って、自由自在に大洋に乗り出し、将来は海軍も必要と思います」

ついに和親条約を結ぶことに決め、安政5年(1858)4月23日、直弼が大老職に就いたのを機に、日米修好通商条約に調印、同時に下田駐在のアメリカ総領事ハリス氏の就住も決めた。続いてイギリス、フランスとの修好條約も相次いで締結した。
だが、直弼は外国と條約を結ぶ時には、天皇の許し(勅許)=ちょっきょ=が必要条件となっていることは判っていながら、攘夷論が日に日に高まるうえ、京都御所の周囲にも攘夷の勢力がはびこり、開国通商の勅許を受けることは大変なことであった。直弼は、幾度か勅許が受けられるようにつとめたが、やはりそう簡単にはいかなかった。
 海外の様子はますます切迫してこのままじっとしていることは国の存亡にも関わるようになってきたので、直弼の国を思う心は自然に、日米通商条約の締結へと走った。

いで調印したならば、違勅の罪は御前ひとりで受けなければならないから、調印はしばらく待たれたらどうかという諌(いさめ)に対して、直弼はつぎのように答えている。
 「海外のことを考えると、昔とは違って、航海の術もすすみ、万里はなれていても隣のように貿易をしている。また兵器や軍隊の制度も、実践の経験をもっているので強くなっている。
 もしここで、わが国から戦いをしかけたならば、一時は勝ったことがあるかもしれないが、いずれは海外の国々をみな敵にまわしてしまうことになる。
いやしくも戦いに敗れて、土地をとられるようなことがあれば、国辱(こくじょく、国の恥)は、これより大なるものはない。
いま、アメリカの申し出を拒絶して長く国体を辱めることと、勅許を待たないけれども国体を守ることとは、どちらが大事なのか。・・・・・・ とにかく政治をとるものには、臨機の道が必要である。
しかし勅許を待たなかったというこの重罪は、わたしひとりで甘んじて受けるから、もうなにもいうな」責任感の強い人の言葉である。この鉄の意志が当時の日本を救ったともいえよう。
                                                        (曽我 一夫記)

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