埋木舎(うもれぎのや)での修業
直弼は、彦根城主掃部頭直中の子として文化12年(1815)12月29日、彦根城の槻(けやき)御殿(いまの楽々園)で十四番目の男子として生まれた。幼名を鉄之助、後に鉄三郎と改名、三歳で母を失った。
17歳の天保2年(1831)父直中が死に、長兄直亮が第十四代彦根城主となった。直弼はその後、槻御殿を出て埋木舎に移った。埋木舎は、彦根城の外堀に近い尾末(おずえ)町に、いまもそのままの古いたたずまいを残しており、歴代城主の幼少青年期の修業の場となっていた。直弼もひたすら文武の道を修め、剱の道では「七五三柔居相秘書」をあらわすほどの居合術の奥義をきわめ、とくに三段剱法をあみ出す“剱聖”の力量をも収得していた。
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埋木舎には、粗末な、間に合せの茶室がある。直弼は、この茶室 |
を「 |
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露軒」(じゅろけん)とよんで愛好した。 |
この茶室名は、法華経の中の「甘露の法雨をそそぎて、煩悩(ぼんのう)の焔を滅除(めつじょ)す」という一節からとったもので、茶の道に入り、人間のわずらわしい慾を絶とうというのである。
直弼の茶道は、極意をきわめたもので、茶名を「宗観」または「無根水」(むねみ)と号して一派を起こし、とくに茶道の中で「一期一会の精神」をもっとも大切にした。この精神こそ、そのまま直弼の生活の信条であり、生活の根本態度でもあったといわれている。 |
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直弼がその精神を伝えた「茶湯一会集」のなかに、つぎのようなことが書かれている。
そもそも茶の湯の交わりは、一期一会といって、例え幾度会ってい
ても、今日のこの交わりは二度とかえってこないことであると思えば、一世一度のことである。
だから主人は、あらゆることに気を配って、真心をつくして客をもてなし、客もまた主人の気配りに感じ入って誠意を持って交わることである。これを一期一会というのであって、決して主客ともいいかげんな気持ちで茶をとり交わしてはいけない。
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このような人と人との交わりの厳しさが、ほんとうの友情を生み出すのであろう。われわれは、これほど人間を大切に考えたことがあったであろうか。これほどまで人との交わりを真剱に考えたことがあったであろうか。
さらに一会集の中には、主客とも余情残心を催し(名残惜しさをあらわし)別れが終ったら、客は露路を出ていくとき大声など出さないで、静かにふり返りつつ出て行けば、一方主は、客の姿が見えなくなるまで見送るものである。
それから家の戸障子などを早々にバタバタ締めるということは、感じの悪いことこの上もなく、一日のせっかくのもてなしが無になってしまうから、決して取片付けは急いではならない。
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さらにもう一度、心静かに茶室に戻って、今日の交わりが再び戻ってこないことを思いつつ、一人でもう一服、茶を入れて味わうことが一期一会の本当の心である。このときは、シンと静まり返って、話す相手といってなく、まことに独りでなければ味わいえない境地である。ここには、ほのぼのとする風流の味を超えて、厳しいまでの人間愛が感ぜられるのである。この一期一会の境地こそ、再びかえることのない人生の尊厳さを悟りえた直弼だけがわかる境地であったといえよう。 |