第35回
                           − 江州の義民・土川 平兵衛 −
  天保の飢饉は、江戸時代の三大飢饉といわれ、物価は上がり、大阪では大塩平八郎の乱をはじめ、美作、但馬、豊前、豊後、駿河、阿波、摂津、紀伊と全国的に一期が勃発、その上、外国船が日本近海に現れるなど国内は騒然としていた。この頃、幕府老中首座(今の総理大臣のような役)に着いたのが、水野越前守忠邦であった。忠邦は、この難局にあたって、政治にたずさわるものの姿勢を正すことを厳しく求め、いろいろと思い切った政策を行った。これが天保の改革である。
古代から日本の米どころとして知られていた近江は、先ず米の増収による財政確保に向けられた。その目標は、琵琶湖の湖水べりや、数多くの河川の寄州(よりす)=河口や湖岸などに吹き寄せられて自然にできた州=を新田耕地に加え、年貢の増加をはかるための検分を実施することにした。検分に当たって農民たちは、検分による目減り分は新開田で戻してほしいと願っていたが、これは認められず、その代わり幕府からは
@検分役が村に来ても、百姓は手を休めなくてよい
A菓子や酒は出すな
B食事は一汁一菜にしておけ
など、こと細かく庄屋に言い渡していた。

    三上小児童たちが作った校舎前の
    土川平兵衛の銅像

 幕府の検分が始まる
 やがて幕府の検分役・市野茂三郎らは、竿取、縄引、絵図師、それに医師、やり持ち、ぞうり取りなど総勢四十余人を従えて、仁保川筋の野村(近江八幡市)にやってきた。
 市野らは、到着した日から村方の作った一汁一菜には手をつけず、八幡のえびや善兵衛から村方の名で料理を取り寄せ、しかも村方へは一汁一菜の代金しか払わなかったので検分が長引けば長引くほど村の負担が重なっていった。
 そのうえ、市野の使う間竿は、172cm(一間は182cm)で、これで測ると、実際の一反(9.9アール)が、帳面上では70平方メートルも広くなる。
この頃は、とれた米の半分近くを年貢として納めなければならなかったし、しかもそれが年々の事だけに、こんな検分をされては大変だというのが農民たちの声。
 一行は次の小田村にきた。ここでも庄屋の家が宿となり、何事も手落ちなく準備されていたのに、風呂場にぬか袋を備えておくことだけを忘れていた。庄屋は注意を受けあわてたが、ここの老婆はかねて用意していた絹のぬか袋を出し、それにぬかではなく、おかねをつめて持たせてやった。
老婆の冒険のおかげで、翌日からの検分はまことにゆるやかとなった。

 このことは、すぐ隣の江頭村にも伝えられ、多額の「わいろ」が使われ、その効き目は一段とはっきりしてきた。こうしたことは、市野だけではなく、やり持ちや、ぞうり取りまでにも及び、彼らはそれが役得であるとさえ考えていた。
上に厳正な水野忠邦がいても、その命をとり行う役人がこのようではたまったものではない。

 その頃、「茂三殿の嫌いは、尾張大根(尾張藩)と彦根かぶら(彦根藩)に陸奥の魚(仙台藩)といわれたほどで、市野は、尾張、彦根、仙台など大藩の領地は検分をさけ、仁保川筋の野村、小田村のような小藩や旗本領、しかもこれらが入り混じった弱い土地を選んで検分をしていた。

こうして、仁保川筋をさんざん痛めつけた一行は、やがて野洲川筋の小篠原村にきた。ここは「陸奥の魚」と仙台領、旗本領が入り混じった村である。
市野は、能率を上げるために不正な間竿を見せておどしながら、多くを目測と勘でことを済ませてきたが、ここの庄屋は実測を要求した。実測は検地の原則であるから拒むことはできない。三日間でようやく二ヘクタールを測っただけで早々に三上村へ移っていった。

 これより先、市野が仁保川筋を検分しているころ、土川平兵衛は、甲賀郡の黄瀬文吉・藤田宗兵衛・田島治兵衛らを訪ね、幾度となく語り合っていた。

 やがて甲賀郡は水口村、野洲・粟田郡は戸田村(現在・守山町内)で庄屋大会が開かれていた。表向きは肥料価格の引き下げを京都奉行書に頼むというふれ込みである。両会場とも、村々の差し迫った窮状を背負った代表者の集まりだけに、その会合は、もはや事をあげるよりほかに道がないまでに殺気だっていた。
 土川平兵衛の心には「千万人といえどもわれ往かん」の勇気が湧いてきた。しかし、徒党を組んで、強訴(ごうそ)することは強い法度であり、妻や子供の命をかけてのことである。


 検分中止の申し入れ
そこで、できるだけおだやかな方法で、代表者数人が市野に検分中止を願い出ることにした。しかし、それはたやすく聞き入れてもらえないに決まっている。そこで土川平兵衛の決意を知らせるために、農民たちを野洲川堤防上で待機させることに決めた。

 打合せ通り、野洲川上流の矢川神代(甲南町)の鐘が鳴り出すと、続いて付近の寺々の鐘もそれとばかりにつき鳴らされ、行者参りのホラ貝が寒い夜空に響き渡っていった。人は人を呼び、いまのJR三雲駅の横田橋あたりは、二万の大群衆にふくれ上がっていった。それは野洲川水利の触れ頭・土川平兵衛に寄せる絶対信頼の集団である。 
沿道の家々は、にぎりめしや、つまみもちをつくって、この集団をねぎらった。川原の水に映える営火をぬって、解放感で血気にはやる若者をしずめるため、庄屋たちは声をからしてかけずりまわっていた。

このとき、白髪、白装束の老人が、旗を手に「われこそはこのたびの発頭人である」と叫んで、さえた月の光に白く光る川原を真っ先に駆け出した。百足再来記(むかでさいらいき)に「乱心者なり、村方の者、これを見つけ、早々に村方に連れ帰りける」と記されているが、これが悲壮なまでに興奮した群衆に方向を与える結果となり、わっとばかりに、三上村さして走らせてしまった。

三上小学校校舎の前に建つ土川平兵衛の銅像
                      (30年前)
 新開場検分は十万日日延べ
 かくて朝霧立ち込める川原で待機していた野洲、粟田勢と甲賀勢も合流、総勢四万といわれる大群衆は、怒りの鬼となって、市野の本陣を囲んだ。

 みなぎる殺気に肝をつぶした市野は、ついに「このたびの野洲川回り、村々新開場検分は、十万日の間、日延べ、聞き届け候事、野洲川筋村々惣百姓共へ」との書状を張り出した。十万日というのは永久にという意味である。陣屋を囲んだ里山の農民から歓声が巻き起こった。

 土川平兵衛が、障子に「検分十万日、日延べ」と大書して、物干竿で高くかかげたのは、天保13年(1842)10月16日、三上陣屋の白壁が、つるべ落としの夕日にくっきり浮かび上がったその瞬間だったのだ。
 京都奉行書の手入れ
 それからあっという間もなく、京都奉行書の与力同心が乗り込んできて、つぎつぎと主だったもの百数十人を捕らえ、京都二条城の牢屋へ収容した。12月になると大津の牢屋に移され、そこで厳しい取り調べが行われた。
気絶すると水をかけ、血が出ると砂を塗る。平兵衛のたよりにしていた杣中村庄屋の黄瀬文吉をはじめ多くの人々がここで死んだ。御上神社や矢川神社では、毎晩、お百燈があげられ、仁孝天皇は、延暦寺に祈祷を命ぜられた。

 翌年3月4日、主だった者12人が江戸送りとなり、出発の間際にその一人・杉谷村庄屋西浦九兵衛が死んだ。
唐丸籠という罪人送りの十一丁の籠は、ものものしく警戒されながら大津の牢屋を出発。十一丁の最後の籠に発頭人の三神村庄屋土川平兵衛が乗っていた。一行が石部に着いたのは、その日の昼前であった。捕らわれて五か月、やつれにやつれ、しかも高手小手にしばられたまま、妻や子供と最後の別れをした。
そのとき宇田村庄屋藤田宗兵衛は、ぽっくり死んだ。そのことは県庁文書倉庫にある膳所藩政日誌に記録されているという。ここで籠は十丁となった。

  人のため身はつみとがに近江路を
  わかれていそぐ死出の旅立ち
土川平兵衛がここで詠んだ最後の歌である。

 折しも近江路は菜の花ざかり、なぜかこの日は、雨風が強く、沿道は黒く思いとばりにつつまれ、ひとびとは相いだいて泣いていた。平兵衛大明神、田島治兵衛代権現と手をあわせつつ遠ざかり行く籠の後ろをいつまでもいつまでも伏し拝んでいた。

 桑名で一人、藤枝でまた一人、八丁の籠が江戸に着いた日に、また一人死んだ。
 念願の江戸の大白州
 土井大炊守の厳しい取り調べに対して、平兵衛は市野の上に不忠、下に不信のかずかずを挙げるとともに、寄州の新開場だけの検分を本田にまで及ぼした違約をなじった。この日のために生き抜いてきた精魂の限りをつくして論難した。しかし目的がどんなに正しくても徒党強訴の罪は許されず、ついに死罪となった。平兵衛ときに43歳。


 妻子は所ばらい
 それから間もなく、三上村のはずれに「このもの強訴徒党をなし、公儀をおそれざる、いたし方、不届至極につき、存命に候えば三上村において獄門に行うべき者なり」と記した獄門札が立てられた。この日平兵衛の妻と幼い子供5人は、野洲川原につれ出され、たたきの仕置きを受けた上に、家・田畑をとりあげられ所ばらいとなった。
三上山麓に建った義民碑
 一揆といえば、思想も計画性もない土民の勃発的な暴挙と思われがちだが、近江のはそうではない。学徳ともに高い土川平兵衛によって指導された正義の抵抗である。平兵衛は中江藤樹を慕っていた。その知行合一を説く陽明学の精神がここにその本領を発揮したというべきである。平兵衛の義民思想の根底には陽明学の深い裏付けがあったようだ。
 平兵衛が処刑されてから間もなく、水野忠邦も老中の座を追われた。自分の配下に謀られた彼も悲劇の人であった。この頃から幕府はまっしぐらに衰亡の道をたどることとなる。
                                                            (曽我 一夫記)

参考図書 : 「郷土に輝くひとびと」 滋賀県厚生部青少年対策室編集 1970年
          「近江風土記」     NHK大津放送局放送部編 1970年

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