第36回
                                       − 琵琶湖疏水物語 −
 明治22年、東海道線が開通、間もなく草津線が完成すると、鉄道沿線ぞいの宿場町は、鉄道の接続点となった草津を除いては、ほとんどが明治の御一新と、その後押し寄せて来た文明開化の荒波に押し流されてしまったようだ。ところが京滋の人達にとっては“夢の運河”ともいわれていた琵琶湖疏水の建設が俄かに現実味を帯びてきた。
 その理由は、明治5年(1872)京都市下京区の吉本源之助さんら3人が連名で京都市に運河建設の請願書を提出した。そしてその翌年には、大津市第一米商から出された請願書には「最近牛馬の幣死が多く、大津から京都間の物資輸送運賃が高騰し、しかも逢坂山を上り下りする幹線道路は、道路の傷みがひどく、修理中は牛馬車の通行は出来ず、困難をきたしている。是非通船路を設けてほしい」と書かれていた。これを機に同様の請願書が京都、滋賀、大阪の各府県庁にも提出され、疏水建設は、現実の問題として、3市民の気運は徐々に登りあがってきた。
 京都府知事に北垣国道氏が赴任
 北垣知事は、天保7年(1836)8月7日、兵庫県養父郡建居村能座の中農の郷士、北垣三郎左衛門の子として生まれた。幼名を晋太郎といい、10歳から同郷の宿南村の儒家で但馬聖人といわれた池田禎造の青渓学院で漢学を学び始めた。やがて尊皇に目覚めて京都にのぼり、長州藩士野村石中や筑前の志士平野国臣や因州鳥取藩士松田正人らと交際、その後いったん郷里に帰り、そこで尊皇討幕を意図し、2千名余りの農兵をつのり、機をうかがっていたという人物。 知事に就任した北垣は、この事業が、琵琶湖の所在地滋賀県、疏水の水路となる京都府、市から大阪府に至る広範囲な事業である。

特に前任者の槙村知事が京都振興策として打つべき手はすべて打ったにもかかわらず、ことごとく失敗に終わり、新機軸の振興策が必要であったことなどが、北垣を疏水着手にかり立てたようだ。とにかく府庁税務署地理係に、必要な調査を依頼した。  間もなく地理係から調査書が届いた。
「閣下、調査の結果、琵琶湖面と京都三条大橋の高低差は約150尺(約45m)あることが判りました。」
「そうかすると、疏水は可能ということかね」
「はい、うまくルートを開発すれば、水は確実に鴨川へ流れ落ちます」
「そのルートはどうかね」
「いちおう4つのルートが考えられます。三条から大津に達する路線、白川村から白川本道を経て滋賀県滋賀里にいたる路線、白川村から白川越新道を経て、滋賀県綿織にいたる路線、京都南禅寺から小関村を経て大津にいたる路線の4つです」。
 調査が進み、可能性が出てきたところで、北垣がこの構想を最初に相談した政府要人は、参議・伊藤博文だった。
 中央政府は当時、薩長土肥が政権抗争をしているさなかである。長州藩とゆかりの深い北垣がまずもって相談すべき人間として、伊藤は妥当なところであった。大久保利通亡き後、その国土政策をひきついだ伊藤は、大久保を凌ぐ開化論者であり、地域振興策に頭を悩ませていた。
 とりわけ衰退著しい京都の振興策は気になるところであり、北垣の話に賛成している。また、明治6年から18年頃までは、西欧文明に刺激され、たいへんな工学ブームの時代であった。伊藤自らも明治6年から11年まで工部郷をつとめており、いまだ工学熱さめぬ伊藤にとっては魅力的な話だったに違いなかった。
 ただ、明治初期の国の土木行政の所管は転々としていた。明治2年には、民部省土木司、同4年7月には工部省へ、ところがその3か月後には大蔵省に移るという具合である。明治6年内務省が新設されると、土木行政は内務省土木寮が扱うことになる。明治10年に土木寮は、土木局と名をかえているが、北垣が疏水開発に向けて動き出す頃は、基本的には、内務省土木局が国の窓口であった。
 そこで北垣は、話を松方正義内務郷のところにもっていった。北垣は松方に疏水による灌漑と水車動力の公用で京都振興をはかりたいと熱心に説いた。だが、当時内務省土木局サイドで、疏水のような大運河の実績はなかった。運河開発では、むしろ農務省が先んじていて、松方はさっそくその話をした。
 「灌漑といえば、君は福島県の安積(あさか)疏水のことは聞いているかね」
 「あれは亡き大久保さんが熱心に説いていた殖産と華士授産の手本となる大事業だ。7月31日には完成するから、通水式に君も出てみてはどうかね。琵琶湖疏水を考えるうえで参考になると思うんだが」 「維新後禄(ろく)を失った不平華士族が各地に激増し、大久保らは頭を痛めていた。殖産と華士族授産とは、各地で地域開発事業を興し、そこで旧華士族に生産活動に従事してもらうという一石二鳥の政策であった。なかでも幕末最も抵抗激しかった会津藩のあった福島県での事業化が最優先された。だが、大久保のあまり急ぎすぎた国土開発事業は、疲弊した国民をさらに苦しめる、という反対分子によって明治11年5月14日、大久保はついに暗殺されたのだ。
 大久保が政治生命をかけて完成させようとした安積疏水というのは、1番から35番に至る総延長7.4キロメートルのトンネルとおよそ4000ヘクタールの新田開発を含む大規模開発であり、琵琶湖疏水以前のわが国最大のプロジェクトであった。
 卒論に琵琶湖疏水
 明治16年のある日、東上中の北垣知事は、工部大学校土木科(後の東京大学工学部)の学生が、琵琶湖疏水を卒業論文にしている。ということを聞き込んだ。この学生は、田辺朔郎と判った。論文の内容を読んだうえ、大学まで出かけ、田辺青年と逢った。一介の学生と北垣がお互いの胸を開いて話し合ったあと北垣知事は、重ねて田辺の疏水計画が実現可能なものかどうか尋ねた。椅子から立ち上がった田辺は、北垣知事の手を握り「間違いなく実現出来ます。私は実際に大津と京都の間を測量しました」と力強く答えた。
 その時、北垣知事は、田辺の右手の中指が醜く曲がっているのに気付いた。
 「この指はどうしたんだ」
 「実地測量の際、負傷して以来、関節が曲がらなくなり、卒業論文も疏水の計画図も左手で書いたので、うまく書けませんでした」と笑いながら語ったという。
 北垣知事の心は「この男こそ、この難工事を立派にやり遂げてくれる男だとの確信が持てたという。

 疏水建設工事に着工
 明治18年、琵琶湖疏水建設工事の許可が京都府におりた。東京遷都以来、次第に寂れてきた京都が、懸命に取り組んできた疏水建設計画が遂に日の目を見ることになったのである。その年の6月、大学を卒業した田辺は京都府庁に就職、以来、主任技師として、疏水工事の指揮をとることになった。
 政府から視察にきた外人技師デレーケは、この工事の難しさを述べ、施工に反対したが、田辺技師は勿論、北垣知事もあえてその反対を押し切ったのである。
 工事は、三井寺の山腹をぶち抜いて藤尾村に至る延長2.5kmの胎内掘りから始められた。
 工事の前に難問続出
 土木機械の少ない時代のこと、幼稚な工具を用いての工事には、並々ならぬ苦労があったが、それ以外に予期しないところから意外な障壁が立ちふさがった。
 尾花川、中保、北保といった町々では、土地の買収価格をつり上げる運動が起こった。また大津西部、他20か村への送水パイプが切れ、住民達が一斉に工事の中止を叫んだこともあった。
 しかし工事責任者である田辺技師と彼を支える北垣知事の努力で、そうした障害を次々と克服していった。そうして当初予定していたより1年余りも早く、明治23年2月23日、遂に琵琶湖疏水が完成した。この工事に要した費用は250万6735円、だが、当時としては膨大な金額であった。

 付帯工事にインクライン
 当初、水車用の動力と、船の水路を作るという目的で始められた琵琶湖疏水は、工事たけなわの明治21年に、新しく水力発電という大きな使命が加えられた。そしてそのために、京都蹴上げで34メートル余りの落差がつけられ、そこに荷物や人を乗せたままの舟を運ぶケーブルカー式の鉄道が設けられた。その距離は約600メートル、これが当時の人々をあっといわせた「インクライン」である。
 琵琶湖疏水の交流が、大津と京都間の交通をより便利で楽しいものにしたことはいうまでもない。疏水は、そこを上り下りする船で大いに賑わいだ。その数は1日、100隻にものぼったという。大津から下り船は、20石船1隻が銭30貫、京都から出る10石船の上り運賃は13貫500だった。これは陸上の運賃に比べて米20貫当たり950匁も安い値段であった。
 そして貨物ばかりでなく、人々も京都と大津の往復にこの疏水を利用した。とりわけ桜の頃は疏水の両側は桜のトンネルであった。その桜を見るために、ひょうたんに酒を入れ、船に乗り込む風流人も多かった。
 インクラインもまた珍しい乗り場であった。船に乗ったままで山を越す。古いのが特徴の京都の町に、インクラインは、奇妙に似合った乗りものとして好評だったという。人は競ってこのインクラインを疏水に利用したのである。
 琵琶湖疏水の後工式
 明治23年2月23日、大津・茶ヶ崎の疏水工事が完成した。完成式を見ようと大勢の人々が詰めかけた。やがて政府の代表や工事関係者などが見守るなかに、真新しい水門が開かれた。
 水しぶきをあげて、琵琶湖の水が水路に流れ込み、何隻もの船が次々とトンネルに消えるごとに、多くの人達の歓声と拍手がわき上がった。

 山と湖の交通機関に影響
 交通機関で大きな影響を受けたのは、坂本に本拠を構え、大津と京都の物流に従事していた“坂本馬借”が事実上、消滅した。馬借とは、交通労働者で、商業が発達するに従って商品の輸送を専門職とする業者。京都を中心に畿内地域に多く存在し、中でも坂本、大津の馬借が有名。そして秀吉以来、繁栄を極めた大津百艘船(本紙第28回参照)も、その利益を汽車や汽船、疏水をいった文明に奪われてしまったのである。
 第2疏水の完成
 続いて明治45年3月には第2疏水が完成、長等山の下には2本の疏水が並行して走ることになった。それはまさに明治土木技術の華であり、文明開化の象徴でもあった。しかし時の流れは速く、国道1号線が改良されたうえ、乗用車などの発達によって折角便利になった新疏水にもかげりが見え始め、やがて使命を失う運命にあるのでは…と、平成の新計画を待つ声も出始めているようだ。

参考図書 : @NHK大津放送局放送部編「近江百年」
        A滋賀総合研究所主任研究員織田(おだ・なおふみ)「編琵琶湖疏水」
(曽我一夫記)
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