卒論に琵琶湖疏水
明治16年のある日、東上中の北垣知事は、工部大学校土木科(後の東京大学工学部)の学生が、琵琶湖疏水を卒業論文にしている。ということを聞き込んだ。この学生は、田辺朔郎と判った。論文の内容を読んだうえ、大学まで出かけ、田辺青年と逢った。一介の学生と北垣がお互いの胸を開いて話し合ったあと北垣知事は、重ねて田辺の疏水計画が実現可能なものかどうか尋ねた。椅子から立ち上がった田辺は、北垣知事の手を握り「間違いなく実現出来ます。私は実際に大津と京都の間を測量しました」と力強く答えた。
その時、北垣知事は、田辺の右手の中指が醜く曲がっているのに気付いた。
「この指はどうしたんだ」
「実地測量の際、負傷して以来、関節が曲がらなくなり、卒業論文も疏水の計画図も左手で書いたので、うまく書けませんでした」と笑いながら語ったという。
北垣知事の心は「この男こそ、この難工事を立派にやり遂げてくれる男だとの確信が持てたという。
疏水建設工事に着工
明治18年、琵琶湖疏水建設工事の許可が京都府におりた。東京遷都以来、次第に寂れてきた京都が、懸命に取り組んできた疏水建設計画が遂に日の目を見ることになったのである。その年の6月、大学を卒業した田辺は京都府庁に就職、以来、主任技師として、疏水工事の指揮をとることになった。
政府から視察にきた外人技師デレーケは、この工事の難しさを述べ、施工に反対したが、田辺技師は勿論、北垣知事もあえてその反対を押し切ったのである。
工事は、三井寺の山腹をぶち抜いて藤尾村に至る延長2.5kmの胎内掘りから始められた。 |
工事の前に難問続出
土木機械の少ない時代のこと、幼稚な工具を用いての工事には、並々ならぬ苦労があったが、それ以外に予期しないところから意外な障壁が立ちふさがった。
尾花川、中保、北保といった町々では、土地の買収価格をつり上げる運動が起こった。また大津西部、他20か村への送水パイプが切れ、住民達が一斉に工事の中止を叫んだこともあった。
しかし工事責任者である田辺技師と彼を支える北垣知事の努力で、そうした障害を次々と克服していった。そうして当初予定していたより1年余りも早く、明治23年2月23日、遂に琵琶湖疏水が完成した。この工事に要した費用は250万6735円、だが、当時としては膨大な金額であった。 |
付帯工事にインクライン
当初、水車用の動力と、船の水路を作るという目的で始められた琵琶湖疏水は、工事たけなわの明治21年に、新しく水力発電という大きな使命が加えられた。そしてそのために、京都蹴上げで34メートル余りの落差がつけられ、そこに荷物や人を乗せたままの舟を運ぶケーブルカー式の鉄道が設けられた。その距離は約600メートル、これが当時の人々をあっといわせた「インクライン」である。
琵琶湖疏水の交流が、大津と京都間の交通をより便利で楽しいものにしたことはいうまでもない。疏水は、そこを上り下りする船で大いに賑わいだ。その数は1日、100隻にものぼったという。大津から下り船は、20石船1隻が銭30貫、京都から出る10石船の上り運賃は13貫500だった。これは陸上の運賃に比べて米20貫当たり950匁も安い値段であった。
そして貨物ばかりでなく、人々も京都と大津の往復にこの疏水を利用した。とりわけ桜の頃は疏水の両側は桜のトンネルであった。その桜を見るために、ひょうたんに酒を入れ、船に乗り込む風流人も多かった。
インクラインもまた珍しい乗り場であった。船に乗ったままで山を越す。古いのが特徴の京都の町に、インクラインは、奇妙に似合った乗りものとして好評だったという。人は競ってこのインクラインを疏水に利用したのである。 |
琵琶湖疏水の後工式
明治23年2月23日、大津・茶ヶ崎の疏水工事が完成した。完成式を見ようと大勢の人々が詰めかけた。やがて政府の代表や工事関係者などが見守るなかに、真新しい水門が開かれた。
水しぶきをあげて、琵琶湖の水が水路に流れ込み、何隻もの船が次々とトンネルに消えるごとに、多くの人達の歓声と拍手がわき上がった。
山と湖の交通機関に影響
交通機関で大きな影響を受けたのは、坂本に本拠を構え、大津と京都の物流に従事していた“坂本馬借”が事実上、消滅した。馬借とは、交通労働者で、商業が発達するに従って商品の輸送を専門職とする業者。京都を中心に畿内地域に多く存在し、中でも坂本、大津の馬借が有名。そして秀吉以来、繁栄を極めた大津百艘船(本紙第28回参照)も、その利益を汽車や汽船、疏水をいった文明に奪われてしまったのである。 |
第2疏水の完成
続いて明治45年3月には第2疏水が完成、長等山の下には2本の疏水が並行して走ることになった。それはまさに明治土木技術の華であり、文明開化の象徴でもあった。しかし時の流れは速く、国道1号線が改良されたうえ、乗用車などの発達によって折角便利になった新疏水にもかげりが見え始め、やがて使命を失う運命にあるのでは…と、平成の新計画を待つ声も出始めているようだ。 |
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参考図書 : @NHK大津放送局放送部編「近江百年」
A滋賀総合研究所主任研究員織田(おだ・なおふみ)「編琵琶湖疏水」 |
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(曽我一夫記) |
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