時代は、豊臣秀吉から徳川家康に変わるころ。当時、近江商人は、東北地方から九州にかけて各地に、行商や出店に手を延ばし、着々とその地歩を固めていた。その旺盛な開拓精神は、当然のことのように、海外発展の夢につながっていった。その代表的な人こそ、西村太郎右衛門といえる。
太郎右衛門は、近江八幡の新町(現在の近江八幡市新町二丁目)の西村嘉右衛門の弟として慶長八年(1603:家康が将軍になった年)に生まれた。幼少時代から負けず嫌いの腕白坊主だったという。すでに十二、三歳の頃から、兄と共に、父の家業である蚊帳、木綿の商いの手助けをし、遠近の国々を歩き回っていた。
近江八幡の町は、もともと豊臣秀次の城下町としてつくられ、ついで京極高次が領主となった。高次およびその父高吉はキリスト教を信じ、外人宣教師もこの町に出入りしていた。したがって町民の中にも宣教師を通じて世界の情勢を知るものが少なくなかった。 |
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江八幡市宮内町の日牟礼(ひむれ)八幡宮に絵馬として秘蔵されている西村太郎右衛門奉納額(国の重要文化財) |
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その頃、八幡で指折りの豪商であった西村家の次男、太郎右衛門も、成長するにつれて、おぼろげながら海外の情勢も知るようになり、すでに多くの先覚者が海外で活躍していることを聞かされた。生まれつき冒険ずきの青年、太郎右衛門にとって、まだ見知らぬ外国の天地は、この上もない活躍の場に思われた。
「外国へ行きたい。そして南方の新天地に「綿屋」(西村の屋号)ののれんをかけるのだ」太郎右衛門の夢は大きくふくらんでいった。だが、その頃には、すでに徳川幕府は、キリスト教の弾圧と海外渡航の制限に手をつけはじめ、渡航のための朱印状(幕府から出す許可証)を手にすることは困難となっていた。
しかし、これで思いをあきらめるような太郎右衛門ではない。彼の目的は貿易に従事することではなくて、新しい南方の地に綿屋を出店して、近江商人の“第一線”を異国にまで広げたいという念願である。そのためには「何としても海を渡りたい。海を渡って上陸さえすればどんな苦労があっても自分の力でやり抜いてみせる」と、彼はいっそう決意を固くし、その機会をねらっていた。
待ち望んだその機会を太郎右衛門は、自分の力でつかみ取った。
当時、海外貿易の一方の雄に京都の角倉了以(すみのくらりょうい)がいた。いわゆる角倉船と呼ばれた大船を、南方アジアの各地に走らせ、大きな利益を得ていた。角倉家は、近江源氏佐々木氏から出て、吉田氏を名のり、代々医を業としていたが、のち京都嵯峨の角倉に移って角倉の姓を名のった。一方、西村家の祖先も、佐々木の家臣として一城の主であった布施氏から分かれており、ことに当時、貿易のことを引き受けていた角倉与一(了以の長子)の叔父宗恂が豊臣秀次の侍医として八幡にとどまった際、太郎右衛門の父とも交渉があったりして両家は少なからぬつながりがあった。
太郎右衛門が角倉家の門をたたいたのは、こうしたつながりによるものと思われるが、与一とはもちろん初対面であり、太郎右衛門は、まだ二十才に足らぬ若者であった。与一から聞かされる世界の情勢、異国の風俗、気候など、すべてが珍しく、目をかがやかされるものばかりであった。太郎右衛門は、日ごろ持ち続けてきた念願を語り、なんとかして異国に行けるように頼み込んだ。
はじめのうちは、若僧の一時の気まぐれぐらいに思っていた与一も、膝をのり出し、こぶしをかためて一歩も退かぬ太郎右衛門の決意の固さに、いつとはなしに引き入れられていた。冒険ずきと、意志の強さで似かよう二人の心は通じあった。語らいは夜がふけ、やがて明け方近くなるのも忘れて続けられた。こうして太郎右衛門の安南(あんなん、ベトナム)渡航の青写真はできあがった。 |
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太郎右衛門長崎港へ
長崎の港には、早くも夏が訪れようとしており、集まる大小の船に活気があふれている。港を見つめて身動きもせず突っ立つひとりの若者。これこそ近江から胸をときめかせて馳せ下った若干二十歳の西村太郎右衛門である。角倉家の当主与一のはからいで、太郎右衛門は近く長崎を出航する角倉船の荷役の一人に加えられる手はずがととのっていた。かつて与一から聞かされていたが、いま眼の前に見る角倉家の堂々たる船の姿に、驚きの声をあげた。
船の全長は二十間(約40m)もあろうか、三本の帆柱がたち、艫(とも)には豪華な楼閣を構え、まるで海に浮かんだ城とも見える。楼閣のいただきには、角倉をあらわす旌旗が高々とかかげられ、角倉船の誇りを示している。
荷役の一人として船に乗り込んだ太郎右衛門は、出航までの幾日かを待ちどおしく思いながら懸命に働いた。船には百人に余る屈強な乗組員が忙しく出航準備をととのえている。与一も京都からわざわざやってきて、仕事の指図のかたわら太郎右衛門を励まし、細かい注意もあたえていた。さらにこの船の頭領にも、ことの次第を話し、十分な援助をあたえるよう言い添えもしていた。 |
近江商人達がかつて住んでいた地域(新町・永原町)は、格子戸や見越しの松、うだつなどが並び「重要伝統的建造物群保存地区」として町並み保存がなされ、近江八幡の代表的な観光地域となっている。こんな中に、洋風の建物が角地の一角を占めている。この建物は、太郎右衛門の居宅であったが、安南で死亡して以来、一家の安否が分からず、市では明治に入って、近江八幡在住の建築家・ウイリアム・メレル・ヴォーリズ氏に依頼して旧家を現在風(写真)に改築、一時、八幡町警察の建物として利用、現在は市立歴史資料館として活用している。 |
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いよいよ出航
出帆の日は来た。大きな望みを胸にたぎらせながら甲板に立つ太郎右衛門は、遠ざかる故国に別れを告げ、成功せねば再びこの地をふむまいと思いを定めるのだった。
長い航海の日が続いた。強い陽光を照り返す海面に巨大な波のうねりがつづく。三本の帆柱は、帆いっぱいに風を受け、船はまっしぐらに進む。嵐の日もあった。雨の日もあった。毎日毎日が試練の連続である。この間にも彼は頭領や水夫から安南の言葉、地理、風俗などを学びとることに熱中した。
安南カウチ(南ベトナム)に到着
長い長い航海の果て、船は黄色く濁った河口にある港に着いた。安南カウチ(南ベトナム)である。ここにはすでにかなりの数の日本人が住みついていたので、与一がかねてからこの地を太郎右衛門にすすめていたのである。
与一から贈られたいくらかの商品を背負った太郎右衛門は、夢にまで見た異国の土地に第一歩を印した。かれにつけられたひとりの従者は、日本人にもいくらかの顔見知りがあったことは、彼にとっては何よりも心強いことであった。角倉船は、この地での取引に四、五日をついやし、やがて目的地であるトンキン(北ベトナム・ハノイ)を目指して出航した。
太郎右衛門の独力勤勉の生活が、いよいよ始められるのである。
山道を踏み越え、新しい商の場をひろげていくことは、近江商人伝統の商法である。幼時から鍛えられた近江商人の根性は、この異国の土地に一粒、二粒と種をおろし始めた。見知らぬ異国の土地、オランダ人あり、唐人あり、その中へ裸一貫でとび込むのは無謀といえるが、この苦境を乗り越えてこそ、近江商人なのである。
青年太郎右衛門よ、くじけるな。
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日牟礼神社の楼門(上)と本殿(下) |
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以来幾年間。残念ながら安南における太郎右衛門の奮闘を物語る資料は残っていない。
しかし彼が安南で大成したたしかな証拠がただ一つ残されている。現在近江八幡市宮内町の日牟礼(ひむれ)八幡宮に絵馬として秘蔵されている西村太郎右衛門の奉納額がそれである。この額は、明治40年5月27日、国宝に指定されている(その後重要文化財に指定替え)。絵馬は縦約十センチ、横約八十センチで、画面いっぱいに唐風の渡航船を配し、船上には唐風の衣裳をまとう十名の人物を描き、船楼の中に帽子をいただくおだやかな容姿の中心人物が描かれている。 |
太郎右衛門の建物敷地東北角の隅にある
太郎右衛門の住宅地跡を示す石柱。 |
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この人物こそ恐らく西村太郎右衛門その人であろう。満々と風をはらんで丸くふくらむ帆、舷側に乱れる波頭を受けて大洋を渡っていく当時の渡来船の様子をたくみに描き出している。
額の周囲に分散して記されたつぎの文字が読みとれる。
奉 掛 安南国住 西村太郎右衛門
御奉前 正保四年丁亥三月吉日
菱川孫兵衛筆
正保四年(1647)といえば、太郎右衛門は、すでに四十五歳であり、安南移住以来、約二十五年の年月を経ている。恐らく肉親を思い故郷の山河をしのぶ余裕さえもない二十五年であったろう。もともと近江商人は愛郷の念に厚く、殊に氏神に寄せる尊敬の心は深い。ようやくにして「ニホンジンマチ(フイホに移住した日本人は租界をつくり自治制を布いていた)でも指おりの商人となった彼の胸中に浮かぶのは、やはり父母や兄の顏、朝夕に仰いだ八幡山の姿、八幡宮のおごそかな社殿であったろう。
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当時の面影を残す八幡掘の風景
その昔この掘を荷物を積んだ船が琵琶湖まで往き交った |
ひとたびは故郷に錦をかざり、氏神日牟礼八幡宮にお礼参りもと願い、正保四年正月、一隻の唐船を手に入れ、熟練の水夫を雇って日本に旅立った。長崎に着いたのは三月だった。だが幕府はすでに完全な鎖国体制を布き、異国に住む日本人でも内地に上陸した者は死罪と決めていた。やむなく長崎にいた画家菱川孫兵衛をひそかに船に招き、一幅の奉納画を描かせ、これを八幡宮に奉納してくれるよう依頼、ついに故国の土を踏むこともなく、再び安南をさして帰っていったのである。
第二次大戦後、このニホンジンマチのあとに「絹屋太郎右衛門之墓」確認され、八幡市正福寺過去帳にも「慶安四年(1651)二月、月唐宗春信士、西村嘉右衛門舎弟」と明記されていることが判り、絹屋の号は唐人から絹、生糸を買い受け、これを商っていたことが判った。
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