最澄、遣唐使船で唐に渡る
 延暦23年(804)38歳の最澄は留学生として遣唐使船に乗って唐に渡った。天台教を現地で深く研究するとともに、天台大師の蓋書やその他の諸経を持ち帰りたいという念願のためである。そのころにあっては中国に渡ることは命がけの冒険であった。彼は遣唐船の第二船に便乗して7月6日肥前国松浦郡田浦を出帆したが、翌日から海が荒れ、波浪にただようこと50日、第一船より20日も遅れて、9月1日にようやく明州鄭県にたどりついた。求道のために生命の危険をも恐れず遠い異国に渡ろうとした最澄の意志と実行力を讃えずにはおられない。
政府が天台宗を公認
 天台宗は、すでに一宗派として成立していたが、政府から公認されたのは延暦25年1月26日のことで、この日をもって天台宗の開宗紀としている。ここではじめて天台宗は、天台大師の教、すなわち円を根本とし、これに真言の法と禅の学問と大乗戒の四宗を合わせて日本化したものという。四宗綜合といわれているように、多くの要素を含んでいるところに、この宗派の大きな特色がある。それは、最澄が「衆生ことごとく仏性を具す」という立場に立ったこと、すなわち、すべての人間に福音を認めたところに、奈良仏教と異なる最澄仏教の一大特色があることを認めたいのである。
▲根本中堂

 最澄は、人間はその出生のいかんにかかわらず、一定の方法によって修業しさえすれば、だれでも仏陀と同様な境地を開くことが出来ると確信したのである。そして天台宗の僧としてはただ仏陀の前で僧として生きることを誓約すればよい、特定の人にだけ僧侶としての資格を認め特定の人だけが成仏できると考える特権的な旧教団を支持することはできないと考えたのである。こう考えた最澄は、新興仏教天台宗の基礎を固めるためには、施設や規定を整えて、新しい僧侶の養成に努力しなければならないと確信した。
 これがいわゆる最澄の大乗戒壇建立とよばれるものである。彼は弘仁9年(818)3月1日、一大決心をもって次のことを発表した。
 「わが天台宗は、法華経によって立っている。天台宗の学問を志し、修業しようとするものは必ず比叡山に登ってなすべきである。これまでは、東大寺等の戒壇で戒を受け、そのおきてのとおり守ることを誓ったが、それは小乗戒である。自分は、小乗戒を捨て大乗戒の行を守ることを誓う」こうして最澄は弘仁10年3月15日、比叡山に大乗の戒を授ける戒壇をつくることを許されたいと朝廷に願い出た。この主張は、旧教団から激しい批判と攻撃を受けたことはいうまでもない。しかし、彼はいささかも屈せず、自分の立場を明らかにするため、守護国界章や顕戒論など多くの著述をして論争を続けた。最澄の懸命な努力にもかかわらず、大乗戒壇の建立は、彼の生存中には実現されなかった。この意味では、彼は失意のうちに死んだのである。ときに弘仁13年6月4日、齢五十六歳であった。しかし、彼の死後わずか一週間後に大乗戒壇建立公認の裁定が下った。天台宗教団はここに名実とともに独立することができたのである。
 大乗戒壇建立を深い関係にあるのが山家学生式である。山家学生式は、詳しくいえば天台法華宗年分学生式という。これは天台宗の青年学徒を教育するための制度を書いたもので、六条からなっている。その第五条には、彼が養成しようとした人材の性格が述べられてある。
 国宝とは何物ぞ。宝は道心なり。道心ある人を名づけて国宝となす。すなわち能く言いて行うこと能わざるは国の師なり、能く行いて言うこと能わざるは国の師なり、能く言い能く行うは国の宝なり。
 これにみられるように、有言型、実行型、有言実行型などの人間像のうち最澄が最も理想としていた人材は、いうまでもなく有言実行の「国宝」であった。国宝とは、宗教的情熱を内に包んだ言行ともに積極的な人物をいい、これが最澄の脳裡に描かれた理想的人物像なのであった。
 最澄はまた「一遇を照らす、これ国宝なり」ともいっている。それぞれに与えられた境遇で天与の使命を果たす人物。これが国宝だというのである。人はだれでも社会的に名声のある地位を欲するかも知れない。しかしそれだけが人間として真に価値のあることではない。たとえ無名の士であろうと、真にその職分に生きる人であるならば、最澄のいう国宝であり、人間として真に尊敬すべき人なのである。
 最澄は腐敗堕落した南都の僧侶や本来の使命を失っていた旧教団を激しく対立し、天台宗の独立を闘いとったひとである。しかし唯我独尊的に偏った人柄ではない。真実のもの、聞くべきものには謙虚に教を請う心のひろい人であった。特に平安初期仏教革新に大きな役割を果たした弘法大師とは、肝胆あい照らす仲であった。最澄は空海より七歳年長である。五十歳を超えた最澄の夢は、比叡山を国の道場とし、国に役立つ僧や役人を育てることだったのだが、解決を見ることなく、最澄は弘仁13年(822)56歳でこの世を去った。
▲伝教大師像
(曽我一夫記)
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