野上神社は、琵琶湖の一番狭い部分、琵琶湖の中央部を東西に結ぶ琵琶湖大橋の直下にある。その西端・大津市今堅田二丁目には、かつては”近畿一”ともいわれた大観覧車があった遊園地がある。
 直径1mもあろうかと思われる古い木々に覆われた森の境内にある小さな三棟のお社である。お祭は毎年9月18日と10月8、9両日に行われる。この祭は、お渡りから最後の夜の渡御までに一寸常識では理解の出来ないような場面が出てくる。町の中でも「それは祭の特色だ」と評価する人もあれば、「いやあれは気ちがい祭ですよ」と酷評する人もある。
 祭神は太平記の中に出てくる新田義貞の妻公当内侍(こうとうないじ)。
公当内侍の悲話
 太平記によると、建武3年(1336)10月、南朝方の武将・新田義貞は、北朝軍との戦いに敗れて、京都から西近江路(今の国道一六一号線)を経て、越前(福井県)へ逃げた。その途中、妻の内侍は、今堅田の「海人」の磯屋に身を隠した。2年後の延元3年(1338)秋、やっと義貞の迎えがきて、越前に行ったが、義貞はすでに戦死した後であった。その後、内侍は、尼となって、京都嵯峨の往生院あたりの草庵で、義貞の菩提をとむらっていたという。
 以上は、応安4年(1371)頃出版された南北朝内記「太平記」に記された内容であるが、今堅田では少し異なる伝記が残されている。


 それによると、内侍は、家臣の小堀三右衛門に守られて今堅田にいたが、義貞の死後、同地の琴ヶ浜(琵琶湖大橋から約350mほど南の浜)で入水して果てたという。
 悲嘆のあまり、乱心しての入水であったろうというのが一般的な見方であったようだが・・・。
地元の堅田三方地区の地侍に襲われて入水したとの説もあり、またその説を裏付けるように、三方の地侍は、この事件の後、北朝方の足利尊氏から感謝状が与えられたというような話まで伝わって、内侍を悼む人達はがっかりしたようである。
 それ以来、祭は、毎年、12軒の野上講と呼ばれる人達の手で、現在まで厳粛に行われてきた。
講員は、全て内侍を葬った人々の子孫と伝えられ、それ以外の人は講員になれないという厳しい取りきめがあるようだ。
 毎年、講員の中から祭を担当する当屋が選ばれ、前年の当屋、「前当屋」、翌年の当屋、「受当屋」の三人で祭りの準備、進行など総てを取りしきることになっている。

祭の準備と進行
 筆者は、この祭を実際に見ていないが、野上講の人達が、昭和54年度の祭典の模様を祭の準備から終わりまでを克明に記した記録を参考にまとめてみた。
祭の準備
  一、例年9月18日午前10時半
 その年の当屋と受当屋が野上神社に参拝、その後、手桶と杓を持って琴ヶ浜へ。そこで手桶に半杯の湖水とバケツ一杯の泥を汲んで神社に戻る。
内侍塚の中に積み上げてある人頭大の石約二十個のうち九個を取りのけ、手桶の水で清めた後、残った石に泥を塗りつける。この日の行事はこれで終了。
  二、10月8日午前8時半頃
 講員は当屋に集まり、しめ縄や神饌を作る。当屋の床の間に安置された「開けずの小唐櫃」(こからびつ)にも御幣のついたしめ縄をつけて、箱蓋に白紙を貼り付けて前当屋の立ち会いで封印する。これは当屋を引きつぐ印でもある。
 午前11時、大唐櫃に神酒、洗米、鯉、鏡餅、たき合わせなどの神饌を入れて、講中の青年二人が担い棒で担い。この大唐櫃を先頭に、神主、榊をささげた当屋、裃で正装した講員十二人が太鼓に送られて神社へ向かう。神社に着くと社殿に神饌を供え、当屋、前当屋が礼拝する。続いて神主の祓いと祝詞の奏上がある。
 午後1時、当屋に受当屋からの使者が到着し、お渡りが始まる。行列は小唐櫃を持った当屋を先頭に神主、大唐櫃、太鼓、御膳持ちと続く。行列は受当屋の家の手前で立ち止まって、小唐櫃を持った講員と御膳持ち六人がそこに残り、他は当屋に向かう。やがて受当屋が行列を出迎え、小唐櫃を受け取って走り帰り、玄関前で、行列を出迎える受当屋の家族や関係者などをめがけて、お膳を激しくたたきつける。陶器類の割れる大きな音がし、料理類は祭関係者や見物人にも当たり、その果ては地面にゴミとなって散乱する。
 受当屋は家の中に入って「当渡し」の杯を受けて新しい当屋となる。

 (注) お膳割りでは、講員たちが直会(なおらい)の料理として折角苦労して作り、膳に盛り付けた品々が、多くの参拝者が見守る中で、何の前ぶれもなく、突然投げつけられる。その理由などは、講員には事前に知らされているが当日、祭を見にきた人には、それこそ突然のハプニング。
 悲鳴に交わって、ガチャン、ガチャンという陶器の割れる音には皆がびっくりするという。この年は怪我人もなくすんだようだがもし怪我人でも出たら大変なこと。折角のお祭がとんだ雰囲気にもなりかねないという場面にあわてて自宅に逃げ帰る人もあったようだ。その上、昨今は子供達への食育がやかましくいわれているだけに、このお膳投げの理由などは、事前に子供達に理解できるよう説明してほしいと町民達は願っているようだ。


 夜の渡御始まる
 午後8時半、当屋の床の間の燈明から松明に火が移される。渡御行列は、前当屋から移された長い竹の御幣を持つ当屋を先頭に、神主、松明、神饌を持つ講員、そして火消し用のほうきを持つ少年のほか、不測の事態に備えての警察官、消防署員、それに見物人と続く。
 行列は、当屋を出発すると「城門じゃ、火事じゃ、火事じゃ」と大声をあげて琴ヶ浜に向かう。そこで湖水を手桶に汲み取った後、行列は内侍塚へ向かう。
 神社に着くと先頭の当屋は、参道右側横の田んぼに降りて、竹の御幣を力いっぱい地面に突き刺す。その竹が深くさされば来年は豊作だという。
 その後、一行は、内侍塚へと移動し、燃え盛る松明に取り囲まれながら、当屋は塚を元の状態に戻して手桶の湖水を手杓で何杯のかけて泥を除き、塚を清める。次いで塚に神饌を供え、神主が祝詞を奏上して、塚での行事を終える。この後松明行列は、今堅田の氏神である伊豆神田神社(今堅田一丁目)に向かい、参拝する。
 境内では、参拝者に柿、栗、枝豆、餅の神饌が配られる。参拝を終えると行列は再び「城門じゃ」「火事じゃ」「火事じゃ」と大声で叫びながら集落の中を一巡して当屋に帰り、太鼓の音を合図に、無事渡御を終えたことを知らせ、夜の渡御が終了する。
 9日は「灰葬まつり」といい、新旧両当屋が紋付き羽織を着て、野上神社に参拝して、全行事の終了を報告する。 

(注) 夜の渡御については、かなり多くのご婦人から、夜、「火事じゃ 火事じゃ」と大声で騒がれるので、寝ついたばかりの年寄りや子供が起き出すという困ったことがあるとの話や、夜、火事でもないのに火事だ 火事だと騒ぐこと自体が問題ではないのかといった批判がかなりあった。

 現在、野上神社や内侍塚周辺の境内地内には、天保7年(1836)の500回忌に京都上賀茂神社の神官、加茂季鷹(かもすえたか)が寄せた追悼文を刻んだ石碑と、明治16年(1883)550回忌の際、滋賀県会(当時の知事)籠手田安定(こてだやすさだ)が揮亳した「勾当内侍墓」の石碑が立っている。


(曽我一夫記)
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