第10回 −田原籐太秀郷と龍宮(その1)− 136号
田原籐太秀郷(たわらのとうたひでさと)は、天慶(てんぎょう)3年(940)2月14日天慶の乱の首謀者・平将門を下野(茨城県)で打ち破った実在の人物であると同時に、大百足を退治した伝説の主人公としても有名である。
この大百足は滋賀県野洲郡野洲町の三上山(別名近江富士)に七巻き半、巻きついたまま頭を瀬田唐橋まで延ばして毎夜水を飲むかたわら、付近を通った若い女性を襲っていた。秀郷は龍姫(たつひめ)という女性の依頼で、三矢目でこの大百足を射止め、そのお礼に龍宮に案内され吊り鐘をはじめ刀、鎧、槍、鍋、それに食べても食べてもつきない米俵までもらったという。従って俵籐太秀郷とも呼ばれていた。
・・・ このお話は、昭和60年、大津市の菓匠・叶匠寿庵が、大津市三井寺から同市大石龍門・寿長生(すない)の郷(6万3千坪)に進出された際、当時広島大学で比較文化論を専攻されていた荒木博之教授(故人)が、龍門町の歴史的歩みを民俗学的立場から調査研究、これをまとめて「大石・龍門と常世国」と題する小論文として発表されたものです。筆者もその調査に同行させて戴いたのをご縁に過日、叶匠寿庵代表・芝田清邦氏のご了解を得て、今回から3回シリーズで小誌「メトロ」に掲載させていただくことになりました。ご一読いただければ幸甚に存じます。・・・
★秀郷の実像★
ところでこの田原籐太が訪れたとされる龍宮の地は一体どこにあるのだろう。私はその地を大石・龍門と考えているのだが、そのことを考察するためには、まず田原籐太秀郷・すなわち藤原秀郷の実像について述べなければならない。
秀郷が史料にその名を初めて現わすのは「日本記略」の醍醐天皇・延喜16年(916)8月21日。それによると秀郷は藤原兼有、高郷、興定など18人と共にその罪科に従って配流された。「尊卑分脈」という諸系図のなかでも最も信頼できる系図によると秀郷は下野大掾、村尾の子で藤原魚名の五世の孫。秀郷の祖父豊沢の母は、下野の史生(文書を写すことを司る役人)鳥取業俊の娘であったから、豊沢の父・藤成が秀郷流藤原のなかで、最初に下野とかかわった人物である。
さらに祖父の豊沢も下野史生鳥取豊後の娘を妻として村尾を得、村尾はさらに在地豪族と思われる下野大掾鹿島の娘を妻として秀郷をもうけた。このように秀郷流藤原氏はつぎつぎと在地豪族との婚姻によって下野にその勢力を拡大していった。
★将門の乱鎮圧で大功★
その秀郷が罪に問われた背景については、つぎつぎに在地豪族と婚を通じることによって次第に反律令的な土豪と同質化していったのではないかとするのが一般である。後に秀郷らに滅ぼされる平将門にしても同様で、いうなれば秀郷の将門討伐は毒をもって毒を制したということになりそうだ。
秀郷はこのように一旦罪に問われて流罪になるが、その後許されて下野の押領使(兵を率いて凶徒を鎮圧する役目をもった平安時代の令外の臨時の官)となり六位に叙せられ、やがて将門の乱鎮圧という大功によって従四位下、下野守に任ぜられることになる。天慶3年(940)のことだった。さらに扶桑略記によると秀郷はその功によって功田を賜わり、加えて武蔵守を兼ねるべしとの追補が行なわれた。かくて秀郷流藤原氏の全盛期を迎えることになり、その子孫は亘利、小山、結城、下河部などの諸氏となった。
★秀郷と大石のつながり★
こういった実歴を持つ藤原秀郷がなぜ三上山の百足退治の主役として伝承の世界に登場することになるのだろうか。秀郷は一説によれば山城国・田原郷(綴喜郡田原町)を治め、さらに隣接する大石をも領したといい、一名田原籐太といわれるのはこれによるとされる。
また田原籐太が俵籐太とも記されるのは、百足退治の御礼に龍宮に案内されたとき龍宮で、食べてもつきない米俵を贈られたからだとも伝えられている。そこで大石・龍門と藤原秀郷は果たしてつながりがあるのか、そして秀郷が訪れたとされる龍宮とは一体どこだったのか、次にその問題について考えてみよう。
★秀郷の子が中央政界に★
将門討伐という大功にもかかわらず秀郷が中央政界にその足跡を印したことを示す史料は全くない。しかしその子の千春は康保4年(967)6月、伊勢の固関使に補任されることによって中央の政界にはじめてその名を現わすのである。
固関使というのは令制で天皇の代替り、あるいは政変に際し勅令によって伊勢の鈴鹿、近江の逢坂、美濃の不破の三関を固める役としてさし向けられる官人である。この時は5月25日、村上天皇の崩御にともなってさし向けられたものである。
そして千春は、やがて中央政界の権力闘争の渦に巻き込まれ、安和の変(969)の首謀者の一人として捕えられ隠岐に流された。この事件の最高責任者は左大臣源高明でありライバルの藤原師尹(もろただ)の策謀にはめられたとするのがこの事件への一般的認識である。ともあれ千春は源高明を頂点とする人脈のなかに組み入れられていた重要人物の一人であったのだろう。
千春は中央政界に出没してその勢力伸長を試みていたのであるが、田原、大石との関係は不明である。ただ千春が伊勢の固関使に補任されたという史実は、秀郷四代の祖・藤成が伊勢守に補任されているという史実とも相まって秀郷流藤原氏の伊勢への何らかの関わりを暗示しているようだ。
このように秀郷流藤原氏の宇治田原および大石とのつながりを明らかにする直接史料は皆無だがそれを傍証する資料はいくつか現存している。
★宇治田原と秀郷とのかかわり★
綴喜郡宇治田原町小字北堂山に「宇治川之先陣田原又太郎忠綱之墓」と刻まれた自然石がある。
「田原(足利)又太郎忠綱は『尊卑分脈』によれば秀郷十世の孫。「吾妻鏡」治承4年(1180)閨2月23日に、平氏に加わり宇治川を渡河したと記されている。
忠綱は宇治田原の伝承によると先祖の地である田原にかくれ住み、後、平家の滅亡を嘆いて北堂山の地で自刃したとも、宇治川の戦いで深傷を負い、北堂山の地に辿りついて息絶えたともいう。住民は大いに哀んでこの地に厚く葬った。そして宝筐印塔一基を建て、菩提を弔うと共に一社を建立、又太郎社として崇めたといわれる。
この社は現在斎田神社の摂社として祀られている。(宇治田原町史参照)
もう一つの例は、宇治田原町切林の浄土宗宝国寺の山門をくぐってすぐ右手に二基の墓碑が並んで立っている。
左の墓の表は、元和庚申年 円寂直底道正大居士 覚霊 9月初9冥と、裏には秀郷23代の末、小山七郎兵衛尉高重(尾張藩士)が、老い先短い年を迎えたのを機に、父道正大居士の眠る田原村に帰ってきて、63回の法要を行い、ここにこの碑を建てたといった主旨の一文が刻まれている。(宇治田原町史参照)
小山氏は前述したように秀郷流藤原氏の流れの中の枢要な家筋であった。この人たちが田原を本貰地と考えてきたことは重要である。さらに大石・龍門の地に目を向けると、佐久奈度神社の南東に小山屋敷と呼ばれている丘がある。
龍門の八幡神社の永正四年(1507)10月の棟札に「奉加 五百文 小山殿」とある。
小山の屋敷跡に違いなく、天文9年(1540)の同社の棟札には「時の地頭 小山源左衛門殿」とあって、秀郷流藤原氏の後裔のなかでも最も勢力があるとされた小山氏が16世紀の時点において大石・龍門の地頭を努めていたことを裏付けている。
小山氏は秀郷の孫文修の二男兼光六世の孫政光を祖とし、政光の子朝政の裔大石に住し子孫が連綿たりと伝えられている。
さらに大石の名家大石氏も秀郷の後裔を主張している。大石氏は元小山氏であったのが大石氏の下司職となって大石を名乗った。
大石系図によると大石氏は応仁の乱に一族ことごとく討死して家名が絶えたが、秀郷の本拠地下野の小山から養子を迎えてそのあとを継いだとある。さらに織田信長が近江に入って佐々木と対抗していた頃、大石嫡家は信長のため所領を没収されて断絶し、中家、東家、新家の三支家が存在したことが系図の冒頭に記してある。
嫡家は金左衛門光重といって前記の龍門八幡神社天文九年の棟札に、下司大石金左衛門光重、公文橘氏松尾源介重俊として見えている。また佐久奈度神社には寛永6年(1629)3月、大石内蔵介良勝が寄進した絵馬が掲げられている。
良勝は浅野釆女正長重に仕え、大阪の陣の功によって五百石から千五百石に加増、家老となった。内蔵介良雄の四世の祖である(以上新大津市史「大石のあゆみ」参照)
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