現在の安土山には、山の四分の一をも占めた七層六階の豪華な安土城の姿はない。山を取り巻く平地は見渡す限りの水田で、西側はそのまま琵琶湖につながり、その先に連らなる比叡山など湖西の山並みが美しい。時折、稲田の中を長い車列を連らねて走り去るJR琵琶湖線の新快速や、南の山すそに造成された“信長の夢が見える”「文芸の郷」のユニークな建物が“平成の安土”に呼び戻してくれる。 安土城は長い間“まぼろしの名城”といわれながら名城を裏付けるものがなかった。近年になって愛知産業大学々長 内藤昌教授が、古本屋で発見した「天守指図」と書いた図面を調べたところこの書は、金沢の前田家の御抱大工が伝えたものでさらに「信長記」「信長公記」などの史料や安土城跡の発掘、実測調査結果などからその図面は安土城の原図であることが確認された。 |
安土の城づくり 信長が琵琶湖を望む安土山(199b)に、大規模な築城工事を始めたのは天正4年(1576)正月の半ば。普請奉行は腹心の丹羽長秀だったが、気の短い信長は、2月末ごろには安土に入り、あれこれと工事の手配をし、4月からは山頂に高さ十二間(約22b)の石垣を築き始めた。石材は近郷の山々から二千、三千個と大量の石を掘り起こして大手門前まで運び、その中から蛇石と呼ばれる大石を選び出し、一個を一万人の人数で3日がかりで山頂まで運び上げた。 築城には、信長勢力圏下のすべての国々の侍が軍役を命じられ大工、鍛冶、壁ぬり、石工をはじめあらゆる種類の職人が京都、奈良、堺などから集められた。特に大量に使われる屋根瓦は、中国人・一観を招いて監督に当たらせ、奈良などの職人が中国風の瓦を数多く焼きあげたという。 |
なぜ壮大な城をつくったか この頃、信長は越後の上杉謙信と敵対関係にあった。安土は琵琶湖に沿い北陸、東海のどちらから京都に入るにしても要地である。京都からも一日行程の距離だから畿内、西国の動きにもすぐ応じることが出来る。あれこれの条件を考え@対上杉戦の最強のとりでとしたいA「天下布武」の根拠地として、領国の中心の城と城下町の新しい姿を実現してみたい−という願望の実現にあったと思われる。 |
新しい町づくり 城下町を繁栄させるには町に有利な条件を与えなければならない。信長は築城なかばの天正5年(1577)6月、安土の町々に十三条の法令をかかげた。 一 この町を楽市とするから商売については、あらゆる課税をおこなわない。 一 街頭を往還する商人は、中仙道を素通りせず、かならず安土に寄宿すること。 一 戦争などの特別の時のほか、住民には普請や伝馬役などの課税を免除する−など。−以下略−。 商業は室町時代から各地で盛んになり、市場が出来、しだいに定期市に発展していったが、市場代官が市銭を取り立て、特定の人間だけが市場の権利をにぎっていた。この悪弊がこの法令でなくなり、市銭をとらない――というのが楽市であることが商人に理解され、商人は争って安土に集まった。 |
関所の廃止と道路の拡幅 このほか領内に数多く設けられていた関所を廃止、領内の主要道路を三間幅(5.5b)に拡幅、東海道や中仙道より一足早く道路の両側に松や柳を植え付け、水やりや立木の世話は沿道の住民がするよう命じた。中でも安土から京都まで約50`の主幹道路は、曲折やでこぼこも少なく、当時安土城内のセミナリオ(神学校)にいた外人宣教師たちは「雨が降っても足をぬらさずに通行できる」と驚嘆したという。 |
安土の信長 天正6年(1578)の元日、安土城は、年頭祝いに出仕大名、小名でにぎわった。集まったのは五畿内(山城、大和、河内、和泉、摂津)越中(富山)越前(福井)尾張(愛知)美濃(岐阜)近江(滋賀)伊勢(三重)の11か国にわたる信長勢力圏諸国の武士。元日の出仕は毎年のしきたりで、参勤交代のない当時では、一種の忠誠心表明の“場”でもあった。祝いのあと信長は新築成った建物の内部を一同に見せた。本朝、唐、天竺三国の名所を狩野永徳に描かせた華麗な濃絵(だみえ)(障壁など大きい画面に金銀極彩を用い、強い印象を与える絵画様式)珍宝名器が数多く集められているのに一同目を奪われて言葉もなく、信長の威光の大きさに感嘆したという。 信長は安土などで馬揃え(観兵式)もよくやった。中でも最大のものは天正9年(1581)2月28日、京都で正親町天皇を迎えておこなった大馬揃え。あらかじめ朱印状を支配下の国々に触れまわし、できるだけ立派に装うようにと告げていただけに当日集まった二万騎の華やかさはまた格別で、見物人は13万人といわれた。 大馬揃えが終わって1年半後、本能寺の変が起こり、日ごろ「人間50年、下天(げてん)のうさを…」と愛唱していた敦盛の舞いの一節の通り信長は天下取り一歩手前で切腹、火中の灰となった。49歳だった。その翌日、備中高松城(広島)で水攻めをしていた秀吉はこの変を知り急遽、毛利輝元と講話を結び、城主清水宗治の切腹を見届けたうえ7日に姫路に帰城した。9日姫路を出発した秀吉は13日、大山崎で光秀の軍勢と衝突、敗走した光秀は坂本へ帰る途中、山城の小栗栖(おぐるす)で土民の襲撃を受け、あっけなく果てた。そして世は秀吉の天下へとつながっていった。 |
「群雄割拠」に明け暮れた15、6世紀の日本は、織田信長の出現によって、ようやく統一のきざしが見え始めた。天正七年(1579)信長が築いた安土城は、まさに“天下布武”を象徴した名城といわれていた。 ところが築城3年後、信長は京都の本能寺で、重臣・明智光秀の夜襲を受けて自刃したあと、半月も経たない間になぞの火災で城が焼失し、以来約400年余 “まぼろしの名城” と呼ばれ続けてきた。 それが平成4年4月、コロンブスの「アメリカ大陸発見から五百年目」を記念してスペイン・セビリア市で開かれた万国博覧会で、日本から出品された安土城天守閣(5、6階部分の原寸大)が、ヨーロッパの人々の目にとまった。 特に日本人の持つ“木の文化”が生んだ巨大で華麗な木造建築は、石造建築の多いヨーロッパの人達の目には“王冠の中の宝石”と映り、連日メディアを通じて会場の模様が全世界の家庭に放映された。 |
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閉館の10月、ジェトロは、期間中の日本館の入場者は530万人、全参加国のトップを占め、開幕からジャパンウィーク、そして閉幕に至るまで一貫して現地マスコミの大きな関心を呼び、最後まで人気館として高い評価を受けたと発表した。 万博終了後、安土町の「天主を譲り受けたい」との申し入れが快く了承され、解体して輸送、翌年安土に着き、大和ハウス工業株式会社の手で組み立て、天主部分の屋根を復元、平成6年5月、同町桑実寺の「文芸の郷」(4.6f)の一角に「信長の館」を建築、その中に古の天守閣を蘇らせた。 |