参考図書:株式会社世界文化社発行「日本歴史シリーズ」
       滋賀県教育委員会発行「湖国と文化73号」
集斯の墓碑を納めた神社本殿裏の石洞
写真は鬼室集斯を祀る神社
鬼室集斯の墓(蒲生郡日野町) 
 天智天皇の時代、百済から渡来した700人の武官、文人、技術者などのうちの高官で、近江朝で学識頭(当時の文部大臣)を努めた鬼室集斯を祀る。今も学問の神として信仰されている。平成2年5月には集斯の父・福信(当時百済の将軍)が韓国の忠清南道扶餘郡恩山面の恩山別神堂にまつられていることが判り、以来姉妹都市としての交流が行われている。
写真は山部赤人神社、右隣に寺がある
山部神社と赤人寺(同町下麻生) 
神社と寺院は隣り合わせ。本尊の如意輪観音は、歌人の山部赤人が安置、赤人は一生をこの地で過ごしてたといわれる。
写真は日本で最大最古の三重石塔←

何万という仏石、五輪塔で埋まる石塔寺の墓苑
妹背の郷に立つ額田王と大海人皇子のブロンズ像
妹背の郷(蒲生郡竜王町川守)
 雪野山ふもとに開発、額田王、大海人のブロンズ像のある万葉ロマンムードたっぷりのアウトドアスポット。
石塔寺(蒲生町石塔)
 158段の石段を登りつめるとエキゾチックな三重の石塔と、何万とも知れない五輪塔や石仏に埋まった墓苑、石塔はインドの阿育王(あしゅくおう)が世界にばらまいたうちの一つだという説と近江朝の頃、朝鮮半島から渡来した人達が建てたとも伝えられる。
万葉公園にある巨大なレリーフ
 蒲生野といえば、万葉集巻一に収められた額田王の「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや君が袖ふる」(紫草の生えているご料地の野を行ったり来たりしながら、貴方が袖振っているのを野守がみるではありませんか)とたしなめているのに対し、大海人は 「紫のにほえる妹を憎くあらば 人妻ゆえにわれ恋めやも」(紫草が匂うように美しい君が憎かったら、すでに貴女は人妻なのに、どうして私が恋しようか。君が好きでたまらないのだよ)と自分の気持ちをおおらかに伝えている。

写真は船岡山頂にある万葉歌碑
 この歌は、天智7年(668)5月5日、近江蒲生野で催された宮中の遊猟の折、額田王、大海人が日ごろ胸の内に抱いていた道ならぬ恋の激しさを表現した相聞歌で、1300年を経た今日、その舞台と思われる八日市市の船岡山(141b)の頂上にある自然石の歌碑や、山すその万葉の森・船岡公園に建設された巨大な陶板レリーフ、紫草などを植栽した万葉植物園などが万葉のロマンを伝え、またこのロマンが引き金ともなって壬申の乱に発展、近江朝をゆるがしたが、これが大化の改新をより強固なものにしたともいえる歌であった。
−蒲生野−
中大兄皇子と大海人 
 中大兄皇子は斉明天皇(母君)の崩御とともに称制(即位の式をあげずに皇太子のままで政治をとる)し、その6年(667)に都を近江の志賀に遷し、翌年即位した。天智天皇である。この翌年、藤原鎌足が死んだ。即位4年(671)正月、天智は大友皇子を太政大臣に任命、国政にたずさわらせながら帝王学を学ばせた。

 大友の母は、伊賀の小豪族の娘で釆女(うねめ 上代から中古にかけて、郡の小領以上の姉妹や美女を選んで天皇の御膳の事に奉仕させた女官)になっていた宅子の娘。しかし大友は美男子で博学でもあったので唐の国使は「日本ではもったいない人物だ」とほめちぎっていた。

 しかし天智が、大友を次代の天皇にするのを最もはばかったのは、大海人であった。大海人は当時大皇弟(書紀)または皇太弟(大織宮伝)といわれ、それにふさわしい重要な政務をまかせられていた。称制2年(663)の朝鮮・白村江の戦いの折、天智が九州の大本営で軍事を統括していた間は、天智の命で大和を守り、京畿の政務を見ていた。また翌年には天智の命で冠位26階を制定した。このあと白村江の戦で日本軍が大敗して以来、豪族らの新政府に対する批判や不満が高まり、これ以降天智の心は大海人から大友へと傾いていった。


天智 大海人 額田王の関係 
 額田王は「書紀集解」によれば舒明天皇の曽孫といわれ、また近江鏡山付近を拠点にしていた鏡王の娘ともいわれ、才色兼備の歌人であったようだ。額田王ははじめ大海人の恋人となり、十市皇女(大友皇子の妃)を生んだが、その後天智に思われてその恋人となった。だが大海人との関係は続いていた。遊猟の折、交わされた相聞歌は、単に天智と大海人の三角関係のうっぷんをはき出したものではなく、当時の時代背景(東アジア情勢、近江朝の政治状況など)を考えると天智への対立宣告ではなかったかとみる人も多い。

天智と大海人の対立 
 遊猟の夜、天智は湖に面した高殿で、群臣を集めて酒宴を開いた。宴たけなわの頃、突然、大海人が酔いにまかせ、長槍で敷板を差しつらぬいた。天智は怒り、大海人を捕えて殺させようとしたが鎌足が天智をいさめ、やっとことなきを得、これ以降の天智と大海人の間は、鎌足の調停によってやっと平和が保たれていた。

 ところがその年の9月、天智は病気になり、10月には重態に陥り、大海人を呼んだ。案内した蘇我安麻呂は、小声で「気をつけてものを申されるように」と伝えた。天智は寝室で「まろは長くはない。そなに天つ日嗣を授ける」といった。大海人はここが安麻呂が注意してくれた点だと思い「私は病身で、とても天下の政など出来る身ではありません。願くは天つ日嗣は皇后におゆずりになり、大友皇子を皇太子となさいますように。私は今日から出家して、みかどのご冥福のために功徳を修めます」と、ことのきわをきれいにかわした。

 この時から3日目の12月3日、天智崩御、5日に大友が即位した。弘文天皇である。この翌年(672)の6月、大海人の舎人(とねり、部下)が「美濃、尾張の両国に、先帝(天智)の山陵をつくるので人数を用意し、全員に武器を持たせるように」との朝命が下ったと知らせてきた。また大友の妃となっている十市皇女が、近江方の陰謀を書いた紙片を、包み焼きした鮒の腹につめ込んで大海人に送り届けた。(扶桑略記、水鏡、宇治拾遺)

壬申の乱へと突入 
 大海人は、以上の報告を調べてみるとすべてが事実とわかり、弘文2年6月22日、鵜野妃(天智の娘)をはじめ皇子高市、大津、草壁をともない、伊賀から伊勢に出て、諸豪族の兵を集め、さらに本貫地の安八(岐阜)で軍団を整え、高市が全軍を指揮して不破の関を押えた。7月2日には早くも近江に入り、ここからは敵、味方を識別するため、全員赤い布をつけさせた。後年、柿本人麻呂が枯野を焼く火のようだと歌っている。

 22日には瀬田にせまり翌日、粟津に追いつめ、捕えた近江方の将らを粟津で斬った。大友は今の三井寺付近まで逃げ、首をくくって死んだ。年25、在位わずか8か月。大友の首は斬られたあと大海人の陣営まで運ばれた。日本の天皇で斬首されるのは弘文天皇だけだという。
 大海人は乱のあと翌年(673)3月27日、皇位についた天武天皇である。天武は皇位についたが豪族の期待に反し、旧制度にかえさず、大化の改新政策を忠実に続行、天皇制の強化につとめ、ついにはこれを最も力強いものに仕上げた。こうした時代の大きなうねりは、この限りなく広い蒲生野で育ったともいえる。

 蒲生野という地名は、昭和48年、八日市郷土文化研究会が調べた結果では、北は秦荘町から南は日野町、西は近江八幡市にまたがって点在しているため相聞歌の交わされた地点を特定することは出来ないが、各市町とも狭義、広義の解釈で、それぞれが万葉ロマンを伝える施設をつくったり、七世紀ごろの史跡地をパンフレットなどで紹介している。

相聞歌の歌碑(八日市市野口、糠塚町) 
 昭和42年3月、八日市郷土史会長の出目弘さんらが1年がかりで歴史、地理的調査を行ない、その成果にもとづいて昭和43年、船岡山に歌碑を建立、平成5年には山すそに万葉の森船岡公園と万葉植物園を造成した。


All contents of this Web site. Copyright © 2003  Honnet Company Ltd., All Rights Reserved
・ 
第15回  
METRO No.14
3