遊歩路に相撲48手の絵を焼いた陶板をはめ込んだり、駐車場に番付表を入れたり、やぐら太鼓の代わりにやぐら時計や子ども達の遊具を集めた「どすこい広場」など会場全体が相撲に関する事柄やイメージでまとめている。お天気のよい日は、家族連れでドライブする人達が数多く来園、琵琶湖を眺めながら蓬莱山麓の傾斜地につくられた雄大な遊園地を楽しんでいる。
参考図書:
志賀町史、京都滋賀の相撲 竹森章著、
相撲の歴史 新田一郎著、
滋賀県の歴史散歩 滋賀県高等学校歴史散歩研究会著
・公園内の散策路にはめ込まれた
相撲48手を見たてた陶板
・やぐら太鼓ならぬやぐら時計(後ろの山が蓬莱山)
・番付駐車場
・清林の胡坐像を掘り込
んだ石碑
・清林胡坐像の左側にある板垣退助碑文の
志賀清林埋骨々碑
・志賀清林の墓
相撲48手もつくる
また清林は、そのとき新たに相撲公認の作法をつくったことから国技相撲行司の始祖とも伝えられている。それまでは明確な法も土俵もなく、勝負が決めにくかったのを「突く」「蹴る」「殴る」の三技を禁止とし、手を使う「投げ」、足を使う「かけ」、腰を使う「ひねり」、頭を使う「そり」、の四手を基本に、それぞれ12手の決まり手を設定して相撲48手の基礎をつくった。
その後、志賀家は行司の家として代々つとめたが、平安末期に相撲が中断されたときに断絶し、相撲司は吉田家に移りその後、吉田家から木村、式守両家が出て現在に継承されているという。
清林の埋骨地
志賀町内の国道161号線を北行、蓬莱山スキー場への交差点から更に800bほど北行すると左手に清林パークがある。これを左折すると広い駐車場に着く。目の前に広い北湖が広がり、後ろを向くと蓬莱山(1174b)が頭上に迫ってくる。そのままの姿勢で右側が遊園地、左側のすぐそばの林の中に花崗岩の玉垣をめぐらした墓域に、清林の墓碑(自然石)とその左側に板垣退助の標石がある。
清林の墓碑発見のいきさつ
明治25年6月2日の「日出新聞」(京都新聞の前身)発行の記事によると「天平時代の人というから墓がどこにあるのか判らなかったが、相撲道にくわしいしい行司の木村瀬平さんが、10数年前から各地を巡業するかたわら土地の行司、古老を訪ねて清林の墓を探していたが判らなかった。ところが一昨年の大津興行の折、旧東京力士で12代目・玉垣額之助の弟子となった加藤山こと赤木宗之助が引退して大津にいることが判り、捜索方を頼んでいたところ志賀町木戸に何人か判らないが、とにかく古い力士の墓があることが判った。
この墓は、数10年前、墓石を他に移したところ疫病が流行、力士のたたりだと村人が騒ぎ出し、再び元の地に戻したということも判った。そこで加藤山が土地の郵便局長や素封家といっしょに苔むす墓を洗うと、表にあぐらをかいた力士像が彫り付けられていた。この知らせを受けた瀬平は、本年5月9日、大津興行の際、木戸村に立ち寄り、木戸に住んでいた年寄鏡岩らと清林の墓に参った。
墓は琵琶湖に近い、大津市から長浜に至る街道筋(現在の161号線)の竹やぶの中にあり、花崗岩で力士が昔風の回しを着け、大あぐらをかいた姿をキリまたはノミで極めて粗末に彫り付けてある。もちらん後代のものが彫ったものではあろうが、その面影といい体格は、瀬平が先々代の根岸治左右衛門よりもらい受け、秘蔵している清林の画像そのままであったので、この場所を清林の墳墓とし、瀬平墓参の5月9日を清林の命日と仮定し、明年大相撲一行が東海道道筋を巡業する時、建碑相撲を興行したい旨を瀬平の許へ申し込んだ」と報じている。
建碑を実現
清林の名は、昔話しとして町民に親しまれているが、その名を広く世に売り出したのは、先ほどの木村瀬平といま1人は吉井千代吉である。吉井は明治3年(1868)大津生まれ、土木建設業を営む一方で旅館や料亭を経営、明治40年には現在の近江舞子(当時は雄松浜)でも万翠園という料亭を経営し、近江舞子の地名は吉井がつけたといわれている。
大正7年(1918)1月、吉井は相撲協会の後援を得て、志賀清林会を結成、その発起人となって趣意書や会則をつくった。それによると志賀清林の遺徳を顕彰するため埋骨地の木戸村の墓碑に記念碑を建設、建碑後に記念大相撲を開催するとしている。総裁には板垣退助、会長は司家第23世吉田追風、委員長には吉井が就任した。板垣は明治維新後内相(現在の総務大臣)となり「自由の神」とも呼ばれていたが、晩年は好角家で知られ、国技館の名付親でもある。
墓碑は、3月6日の地鎮祭のあと、7日に基礎工事に着手、工費4130余円をかけて4月18日に竣工した。記念碑落成奉告祭および除幕式は4月22日、板垣総裁をはじめ関係者200人が参列した。碑の高さは3.75b、幅1.4b、厚さ21aで、清林墓石の右側に建てられ、刻銘は板垣総裁のてん額、撰文は今屋友次郎陸軍少将の書による。今屋は大津に駐屯していた歩兵第九連隊の大隊長などを勤め、この年の九月には第九代大津市長に就任した。
24、25両日、大津市紺屋ヶ関埋立地で開かれた記念大相撲は大盛況、6組に組んだ4千人収容の会場は6千人の見物人で埋まったという。
清林の顕彰運動
吉井の清林顕彰活動は以上で終わらなかった。大正9年には「清林相撲協会」を設立、年1回県下の素人相撲大会を計画、第1回は11月13、14両日、東京相撲協会の後援を得て、大津市紺屋埋立地で東京大相撲を開いた。このほか第2回は県下青年角力大会で最優秀者に懐中時計を、また5、6回は銀製カップを寄贈するなどの活動をしたが大東亜戦の激化は、滋賀から大相撲の場を奪い去った。
戦後、永田志賀町長は、新時代に清林の偉業を埋もらせておくのは惜しいと、昭和36年(1961)顕彰会を結成、日本相撲協会にも顕彰行事への代表の参列を要請、木戸観音堂前で、県相撲連盟後援の青年相撲大会、青少年への相撲指導を催した。39年には土俵や観覧席を設けた清林相撲公園を建設、10月3日、横綱栃ノ海、大関豊山、立行司式守伊之助らのほか200人が参列、清林をしのんで慰霊祭が行われた。立行司の先導で横綱栃ノ海が露払い若鳴門、太刀持北ノ富士を従え、栃ノ海が力のこもった土俵入りをしたあと関取たちが相撲儀式や花相撲を披露、午後県下の中学、一般など30チームが参加して相撲大会が開かれた。その後、この土俵も自然に災害で無くなってしまった。
清林パークに衣替え
平成に入った町では、町の歴史的人物を広く知ってもらうとともに、町民にも親しまれるレクリェーションの拠点であり、コミュニティーの場にしようと、平成11年3月、従来の清林相撲公園をリニューアルして名称も「清林パーク」と改めてお目見えした。
志賀清林(せいりん)とは
古文献には見えないが、18世紀末から行司目付・相撲年寄・横綱に免許を与えるようになった吉田家の由緒書きに出てくる。寛政3年(1791)に江戸城吹上庭で、将軍(徳川家斉)の上覧相撲が行われた際、それにむけて谷風梶之助と小野川喜三郎を横綱とし、当日両横綱の取り組みを裁く行司として、いくつかの行司家から吉田善左衛門(追風)を起用することになった。その善左衛門が幕府に同家の由緒書きを提出した。その中にあらまし次のような内容が書かれていた。
聖武天皇の神亀年間(724―729)宮中での相撲節会(すまいのせちえ)を開くに際し、天皇は近江国の志賀清林を召して行司を勤めさせた。志賀家はその後絶えたが、後鳥羽天皇の文治年間(1185-1190)に相撲節会が再興されたとき、越前の吉田家(吉田家の始祖)が、志賀家の故実を伝えていると判り、五位の位を授け、朝廷の相撲司行司家となった、と書かれている。
湖北の伊吹山をはじめ、湖西・比良山系の残雪はすっかり消え去り、湖国は春から一挙に若葉の候を迎えた。湖面を渡る東風も日増しに爽やかさを増し、行き交う漁船の数にも元気さが戻ってきたようだ。
今回は、滋賀郡志賀町木戸にある国技相撲の始祖と伝えられる志賀清林(8世紀の人)の墓碑とそのそばに大正7年3月(1918)に建てられた板垣退助碑文の志賀清林埋骨の碑や平成11年3月、墓碑の北側に町が建設した清林パークを訪ねてみた。たまたま取材時期が今年の春場所終盤と重なり、ここしばらく低迷気味だった大関陣が奮起。千秋楽まで優勝力士が決まらないという好取組続きにわき返っていた時だけに、1300年前の清林が遠い彼方から大相撲の将来に向けて何かを訴えているように思えてならなかった。
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第18回
METRO No.149