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第19回  
METRO No.1
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 比叡山の琵琶湖側山麓に広がる大津市坂本の延暦寺里坊一帯は、梅雨シーズンに入り、数多いお寺の白亜の土塀と、それを支える自然石を積み上げた古い石垣と深い緑が ``坂本ならでは’’の歴史的風情をかき立てる。これらの石垣は、昭和47年(1972)同市教育委員会が、歴史的景観保全を目的に市指定史跡とした「穴太(あのう)積の石垣」である。
大相撲行事の祖・志賀清林
 穴太積は、地元の石工達が穴太衆を結成。集団で独自の技術を生みだし、天正4年(1516)織田信長が築いた安土城の石垣構築に参加して、その実力が認められた。以後豊臣秀吉にもその技術を買われ、さらには徳川幕府になってからは「穴太頭」の地位まで与えられ、現存する全国各地の名城といわれる江戸、駿府、名古屋、伊賀上野、篠山、大阪、二條、広島、高知、熊本、金沢、彦根の十二城と日光東照宮などの石垣にも一族の技術を伝えた。

 現在は、粟田純司氏(64)が十四代穴太衆の頭として、地元里坊をはじめ全国各地の城郭の修理に当たる一方、近代土木建築の中に穴太積を生かそうと、滋賀県立大学(彦根市)のキャンパス内に、また県の複合庁舍「ピアザ淡海(おうみ)」の玄関に豪華な穴太積を取り入れたほか、第二名神高速道路滋賀県甲賀郡信楽町の工区内(国道307号沿線)の護岸壁に歴史的美感を巡らし、``平成の穴太衆’’の意地を見せている。
・坂本里坊のメインストリート「日吉馬場」の両側に軒を連ねる里坊
・第二名神高速道路信楽工区に完成した穴太積による護岸壁(国道307号線沿い)
穴太積の起源 
 粟田氏などの調べによると、比叡山系と琵琶湖にはさまれた大津市北部には、南北約4.5キロメートル、東西約1キロメートル平方の細長い地帯に約2千を超す古墳がある。そのほとんどが6世紀から7世紀にかけて、朝鮮からの渡来人により築かれた古墳時代後期の群集墳といわれている。これらの古墳は、横穴式古墳で石室が用材として主に花崗岩を使い、野面(のづら)石(山から切り出したままで、加工していない石の自然の肌)の乱積みという構築法が用いられているところに穴太衆の技法の祖形を見出すことが出来るという。したがって穴太衆は、これら横穴式古墳の石室づくりに習熟していた渡来人の子孫であり、長い間、石積みの技法を温存していたとみている。

 延暦25年(806)天台宗総本山の比叡山延暦寺は、伝教大師最澄によって開創、平安時代には3千の坊舎を持つ日本仏教のメッカともなった。山の斜面を削って平地とし、そこに寺院、坊舍を建てていったこの大普請に、山麓に住んでいた石室づくりの技法を持つ穴太の石工達が動員されたことは至極当然のことだったといえる。


穴太積の特徴 
 日本ではただ一人の古式穴太流の伝承者で、昭和50年、大津市の無形文化財技術者に認定された粟田万亀三氏(平成元年9月死去、純司氏の父親)が、純司氏や純司氏の弟子達に語り聞かせた「芸談」の中からその特徴を拾ってみた。

 「穴太積は、割り石を使わず天然の石をそのまま使って、外観より堅固ということに重点を置いて積み上げる。建物の土台に使うか、石垣だけにするかによって積み方も違う。石垣の場合は、壁面を大きく見せるように石を配置し、内部に栗石をぜいたくに使い、圧力を食い止め、排水が容易になるよう目に見えないところに力を入れる。従って栗石を入れるのは、大石を配置する二倍の時間をかける。石を配置するときは、石の大きな面が外に出るよう工夫しながら一分のすき間もないように組み合わせる。こうすると敵が石垣をよじ登るとき、手がかかっても足までかけることが出来ないようになる。勾配を作るにも、余り石をねさせない。勾配をつけた方がくずれ方が少なく、要塞にもなるので、近世の城はみんな勾配がつけられている。勾配のことを我々は『照り』というが、これを作るのが、ここ一番という大切なところだ」(以下略)
といっておられ、純司さんは「石積みは理屈ではなく、常に一つ一つの石と語り合いその心を知りながら目と勘を積み重ねて行く修業が大切だと教えてくれましたね」と語っていた。


安土城の築城で陽の目を見た穴太衆 
 信長は、元亀3年(1571)仏教のメッカ・比叡山に攻め上り、根本中堂、山王二十一社、東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、無動寺を焼き打ちしたほか、僧はもちろん山中の俗人、女、子どもに至るまで約1600人の首をはねた。この戦いで信長は心に痛い目を負ったが一方、堅固な穴太積の存在を知った。
 それから五年後の天正4年(1576)信長は安土城を築き、穴太衆を動員して構築した穴太積の石垣が天下に知れ渡った。そして天正11年の大阪城、同14年聚楽第、同15年の方広寺大仏殿、文禄3年(1594)の伏見城などと広げていった。
特に関ヶ原合戦の後 諸国で穴太積を用いた近世的な城普請がいっせいに始まると、穴太衆は諸大名から引っ張りダコになった。

 山内一豊が土佐へ入国と決まったとき、穴太衆の一人・北川豊後を百石で召し抱えることになっていたのを、他の大名にとられはしないかと心配して百五十石に引き上げたという話がある。その他にも熊本城の百間石垣を築き上げた穴太役の原田茂兵衛が加藤清正の勘気を受けて浪人しているのを細川忠興が探し出して召し抱えたというエピソードなどが生まれている。

 やがて近江坂本の穴太に、どの大名にも属さない師匠筋の家柄の者が、家元のようになって幹部級の石垣師の育成や石垣づくりを伝授する養成所のような役割をつとめるようになった。このため各大名に仕える穴太衆は、代替わりのときには、穴太へ里帰りして、九人の穴太頭のうち一人から免許状をもらわないと大名家への仕官はできないような仕組みが出来るまでになったようだ。

里坊の石垣は十八世紀ごろに築かれる 
 昔から門前町として栄えた坂本には、門跡寺院の滋賀院をはじめ、日吉大社の参道を中心に延暦寺の里坊寺院が並んでいる。その数は坊跡を含めると60を超える。いずれも古めかしい見事な石垣を備えている。この石垣は、比叡山の地主神である日吉山王社の社殿群や社外末社群、それに一般民家にも見ることが出来、まさに穴太衆の技法を示す見本展示場の観を呈している。

 では、里坊にある穴太積はいつごろつくられたのだろうか。滋賀院から東に至る御殿の馬場にある叡山文庫は、かつての護心院の跡地にあたる。この叡山文庫の庭が発掘されたとき、ここでは江戸時代の遺物を含む層や遺構を取り去ると、すぐに鎌倉時代の川の跡になり、その間の室町時代の遺構が見つからない。つまり御殿の馬場付近は、中世には里坊の中心でなく、川が埋まってできた荒地であることが明らかになった。

 したがって護心院の石垣の起源は、どう見ても戦国時代や安土桃山時代にはさかのぼらない。石垣の築かれた土管や出土遺物から考えるとどう古くみても里坊の穴太積の石垣は18世紀以降に築かれたようだ。
・里坊・滋賀院門跡前の石垣
・伝教大師の教えに従って慈覚大師内仁が開いた横川中堂の石垣(粟田さんが修復)
・琵琶湖岸「ピアザ淡海」の玄関に築かれた‘平成の穴太積’
・滋賀県立大学の管理棟を巡る環濠に構築された穴太積の石垣
参考資料:
「築城の先駆者 穴太衆 徳永真一郎著」 
「考古学推理帖 幻の穴太積石垣 兼本保明著」 
「石垣を積む 自然石による穴太積 佐藤武著」 
「石垣普請 穴太石工の誕生 北垣聴一郎著」