・現存する藤樹書院
・藤樹神社
参考図書:
読売新聞発行「日本の歴史」 安曇川町教育委員会発行「藤樹先生」 
近江聖人中江藤樹記念館編集発行「中江藤樹入門」
・藤樹書院裏の木 中江藤樹といわれたのは、与右衛門が伊予から帰郷した当時、村人が書院裏にあった藤の大樹にちなんで藤樹先生と呼んでいたのが始まりで、現在の藤はその名残という
京都で追手を待つ 
 小川に着いたのは約半月後。この時与右衛門は27歳、母の市は57歳になっていた。小川村へ帰った与右衛門は、息つぐ間もなく、その足で京都の友人宅を訪ね、ここでしばらく泊めてもらうことにした。許しを得ずに大洲を去ったことについて追っ手が来るかどうかみるためと、母の目の前で縄を打たれたくないというのが理由。早速、佃家老に、許可を得ず帰郷したおわびと、どのようなおとがめにも従う覚悟であるという手紙を出して待っていた。
 殿は、与右衛門の学徳を心から惜しみ事情がよく分っていたので、とがめず、追っ手も差し向けようとはしなかった。与右衛門は大手を振って小川村に帰ることが出来た。

七助との別れ 
 大洲を脱藩した与右衛門をしたってはるばる小川村までお供をしてきた男がいた。この人は祖父の代から長年、奉公をしてきた七助という人。京都から帰ってきた与右衛門を迎えた七助は、引き続いてここで働かせてほしいと懇願した。与右衛門は、財布に入っていた全財産三百文の中から二百文を取り出し、「祖父の代からお世話になった。今度は近江までお供をしてもらって何とお礼を申してよいやら。わたしはこれから母とともに貧しい暮らしをして行かなくてはならないからお前にいつまでも働いてもらうわけにはいかない。これはほんの餞別のしるしだ。大洲へ帰って商いでもする時の元手のたしにしておくれ」と心からの礼をいった。

 しかし七助は「三百文のうち二百文もくださるお気持ちはありがたく思います。でも一文もほしくはありません。わたしは先生のおそばにいてお世話をさせていただきたく思います。これがわたし一生の幸せです。どうかここにおいて下さい。どんなしんぼうでもできます。一生のお願いです」 といって泣きくずれた。与右衛門は、七助の真心に打たれたが、なにしろ浪人の身。いろいろと説き聞かせ、七助は涙にむせびながら金を押しいただき、しかたなく伊予へ帰っていった。(その一おわり)

・中江藤樹の画像 中江藤樹は晩年、中国明代の儒学者・王陽明のとなえた「致良知」の説を最高の教学として示したことから「日本陽明学の祖」とされている。また数多くの徳行によって藤樹先生と親しまれ、没後には「近江聖人」とたたえられた。
 大津市から湖西道路を北へ、滋賀郡志賀町で161号線バイパスに乗り替える。高島郡安曇川町の交差点まで来ると、右手に藤樹書院などと書いた標識が目に入る。ここを右折して突き当たりを左折すると、この辺り一帯に約370年前、同町が生んだ江戸時代初期の儒学者(陽明学)で、近江聖人といわれた中江藤樹を偲ぶ藤樹書院をはじめ、墓所、藤樹神社、藤樹記念館、陽明院などが広範囲に軒を連らねている。

 徳川家康が、豊臣秀吉のあと征夷大将軍となり、江戸幕府を開いたのが慶長8年(1603)それから4年後、家康は当時の儒学者(朱子学)の林羅山を、続いて天和5年(1619)秀忠が藤原惺窩を幕府お抱えの儒学者として採用した。こうした動きは、諸大名の中にも芽生えはじめたが、地方では中央学界の行き方を非難して、朱子学の実践問題と真正面から取り組み、自分の生き方を見定めようと志すものが現われた。そのもっとも早いのが中江藤樹(陽明学)であり、やや遅れて山崎闇斎が現われるなど儒学界は、朱子学と陽明学に分かれて大きくゆれ出した。
大相撲行事の祖・志賀清林

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第20回  
METRO No.1
53
    
※その二は11月初旬に掲載予定です。 お楽しみに!
藤樹の生い立ち 
 藤樹は慶長13年(1608)琵琶湖西岸の小川村(現在の滋賀県高島郡安曇川町上小川)に生まれた。名は原、字は惟命(これなか)号は、もっ軒通称は与右衛門。父は農業をしていたが、祖父は武士で伯耆国(島根県)米子の加藤家に仕えていた。藤樹は九歳のときから祖父の養子となり、伯耆に行って始めて学問を学んだ。まもなく加藤家が伊予(愛媛県)の大洲(おおず)に転封され、祖父が風早の郡奉行となったので与右衛門もその地におもむいた。その頃から武士としての修業のかたわら、朱子学に関心をいだき、独学でこれを研究した。十五歳のとき祖父を失なったが、なお大洲にとどまっていた。

11歳で「大学」を読了 
 大洲藩では武をたっとんで、文をいやしむ風があった。与右衛門は昼は武事にはげみ、夜は祖父に買ってもらった「庭訓往来」や「貞永式目」などを読み、5、6回も読めば暗記するというすばらしさ。11歳の時には、中国の孔子の教えを説いた「大学」を読み、その中に書かれていた「朱子ヨリ庶民ニ至ルマデ、皆身ヲ修ムルヲ以テ本トナス」にいたく感動、これが後に近江聖人と呼ばれる出発点ともなった。

本格的な学問の場にふれる 
 独学の与右衛門が17歳のとき、京都から1人の僧が論語を教えに大洲藩にやってきた。論語は孔子とその弟子たちの話をまとめたもので、当時は学者が大切にした書物。ところが藩士たちは学問には見向きもせず武道に集中、講義に集まったのは僧侶と医師などで、武士は与右衛門がたった1人という有様。それも日が経つにつれて受講者は減り、論語30編のうち前半が終わったところで打ち切りとなった。与右衛門は、がっかりしたが京都へ帰る僧に「四書大全」を買い求めてほしいと頼んだ。「四書」というのは「大学」「中庸」「論語」「孟子」の四つの本で、大全というのは参考書という意味。
 頼んだ本がやっと届いた与右衛門は大喜びで、その夜から36六巻あるうち「大学大全」から読み始めた。厳しい仕事と激しい武芸の稽古、そして毎晩の読書が続く中で「大学大全」を読み終えると、また初めから読み返す、それを百回ほど繰り返すとようやく書いてあることがはっきりと判ってきた。「大学大全」で力をつけた与右衛門は「論語大全」「孟子大全」と読み進めたが、前ほどの苦労もなく読破することが出来た。


故郷の母にあかぎれの薬を 
 四国の山々のもみじが散り始めたころ、小川村の母から久し振りに便りが届いた。「家族は元気で暮らしている。与右衛門は学問にはげんでほしい」と書かれ、終わりに「冬になるとあかぎれで困るんだ」と書いてあった。薬を届けたいと思いついた与右衛門は、早速薬を手に入れると、漁師に小川村への道を聞いた。今治から大阪行きの船に乗り、そこから伏見まで船で行くと、伏見から歩いて小川村まで行けることが判った。翌朝早く祖父の家を抜け出して小川村へと旅立った。
 小川村へ着いた頃はもうすっかり冬、雪が野山を埋めていた。井戸端にいた母をみつけ、思わず走り寄り「あかぎれの薬を持参しました」と差し出した。母はしばらくじっとしていたが「与右衛門、お前は大切な勉強をしに行っているんですよ。それなのに途中で家に戻るなんて。そんなひまがあったらしっかり勉強してほしい」といましめた。
 やっとの思いで薬を手渡した与右衛門はいま来た道を大洲へと引き返した。

思いつめたあげく脱藩 
 大洲で両親以上の厳しさと愛で育てられた祖父、祖母を失い、その後、小川村の父の死を知った18歳の与右衛門は、1人ぼっちで家を守る母が心配でたまらなくなった。22、25歳のとき、殿の許可をもらって帰郷、母親に大洲で暮らしてほしいと懇願した。しかし母親は、今まで一度も小川村を出たことがなく、よその地で暮らすのは不安、それに船に乗ることが大きらいを理由に承知しなかった。
 大洲へ帰った与右衛門は、この上は自分が小川村へ帰るよりほかに道はないと思いを定めた。翌朝、家老の佃小左衛門を訪ね、自分の思いをくわしく説明する一方、辞職願を提出、藩主へのとりなしをお願いした。
 それから2年半、殿からは何の返事もなくいたずらに日が経っていった。しかし最悪の場合、脱藩を決意していた与右衛門は、その年、殿からいただいた米には一粒も手をつけず全部を倉の中に積んで堅く封印して、返上できるようにする一方、友から借りた米の代わりに家具を残した。そして寛永11年(1634)11月1日の早朝、大洲を逃がれ伊予長浜港から思い出の多い四国をあとにした。