写真は藤樹書院の表門
写真は近江聖人中江藤樹記念館 中江藤樹に関する真蹟や遺品類の保存展示。藤樹学および陽明学を中心とした図書の収蔵・観覧など中江藤樹研究のメッカ。館では現代の藤樹書院とも呼んでいる。
集う学問の同志と門人たち 
 村へ帰ってから3年後の寛永14年(1636)30歳になった頃からぼつぼつ学問の同志が集まってきた。まず最初にやってきたのは大洲藩で、弟の仙と共に学問を習っていた小川覚。殿のお供で江戸屋敷まで行っての帰り、大津で先生に会いたくてたまらずやってきた。
 これを契機に大洲から多くの門人が訪れ、数日または数十日、中には何年も藤樹宅や近くの農家などに泊まって勉学に励んだ。

大野了佐を教える 
 藤樹が大洲藩の奉行をしていた頃、大野了佐という青年がやってきた。同藩の二百石取りの長男だが、父から武士の勤めは無理だといわれ、医師になりたいので医学書の読み方を教えてほしいという。最初は「医方大成論」という医書を教えたが理解出来ないところが多く、たまたま藤樹の脱藩と重なって独学自習に悩んでいた。小川覚から先生の健在を聞き、父の許しを得て、小川村へやってきた。了佐は藤樹の袖にすがりつくようにして教えを乞うた。
 藤樹は、了佐のために読み易い医学書を作ろうと、国内はもちろん中国の医学書も買い求め、了佐一人のために「捷径医筌」(しょけいいせん)を書きながら教えた。四百字詰めの原稿用紙にして約千枚、3年余りの年月をかけてようやく了佐は「捷径医筌」を学びおえ、大洲へ帰っていった。
 大洲に帰った了佐は、心温かな医者として76歳で亡くなるまで村人にしたわれながら仕事に励む一方、自分のおいを立派な医者に育てあげた。

益友・中川貞良、謙叔兄弟
 藤樹先生年譜によると、藤樹20歳の頃「四書大全」をテキストに、独学自習している藤樹の姿を見た大洲藩の同僚から儒学(孔孟の学)を学びたいという仲間がようやく現れ始めた。その中の二人が中川善兵衛貞良兄弟だった。貞良は藤樹より4歳上で、しかも家禄は藤樹が百石に対して三百石、当然藤樹より身分の高い藩士だった。藤樹はこれを機に儒学の普及が自分の使命と考え、21歳の時、処女作「大学啓蒙」を著した。
 藤樹は脱藩後、屋敷に残しておいた刀、脇差などの償却処分を貞良に依頼していることから2人は、ことのほか親密な間柄であったようだ。貞良は、藩の特別休暇をもらって小川村で勉強、さらに藤樹31歳、39歳の3度訪れている。

熊沢 蕃山
 近江の西江州の地で生涯を終えた藤樹が没後、古代中国の孔子と同じ「人倫の至り」「百世の師」としての(聖人)とあおがれ、日本の歴史にその名をとどめるようになったのは蕃山の事蹟に負うところが大きい。
 蕃山は元和5年(1619)京都・稲荷に生まれ、16歳のとき板倉重村らの推薦を受けて備前岡山藩に仕官、しかし20歳のとき藩を辞して父母弟妹とともに母方の祖母の里・蒲生郡小森村(現在の近江八幡市)の伊庭氏宅に寄寓。27歳のとき再び岡山藩に仕えるまでの7年間、家族ともども極貧の浪人生活を送り、その中で修学の道を歩んだ。
 23歳のとき「四書集註」の独学自修を始めたが、難解なことから師を探していたところ京都で藤樹のうわさを聞き、寛永18年(1641)小川村を訪ねたが入門を許されず、2ヶ月後に許された。それから翌年4月まで約8ヶ月「孝経」「大学」「中庸」の講義を受け、一介の浪人に過ぎなかった蕃山が、江戸幕府さえも無視できないほどの経世思家(儒学の大学者)にまで成長していった。
 だが、藤樹は慶安元年(1648)8月25日、大洲時代から患っていたぜん息が悪化して死去、蕃山が三度、小川村を訪れるのはそれから六年後、岡山藩主池田光政の名代として遺族に祭祀料をおくり、藤樹の死を弔ったときだった。藤樹を深く尊敬していた光政は、その遺徳をしのんで岡山城西の丸に藤樹の神主(しんしゅ)「位牌」を祀ることにした。
 藤樹没後、蕃山は藤樹の3人の遺児、門人を岡山藩の藩士として召し抱える一方、藤樹書院の維持管理費、藤樹の母の生活費を支給するなど、岡山の地にいても蕃山は藤樹から受けた学思に報いることを忘れなかった。
 このほか藤樹37歳の正保元年(1644)の冬、仙台の伊達家の家臣・淵源兵衛岡山(淵岡山)寛永20年(1643)の冬、伊勢神宮の権禰宜・中西孫右衛門常慶(中西常慶)が入門している。

写真は脱藩して5年後、屋敷内に簡素な一舎を建て、14年後の慶安元年、わら葺の新講堂が完成したが半年後に藤樹は死去、明治13年(1880)の小川村大火で焼失、2年後県内外の募金で現在の建物が建てられた。
参考図書:
読売新聞発行「日本の歴史」 安曇川町教育委員会発行「藤樹先生」 
近江聖人中江藤樹記念館編集発行「中江藤樹入門」
中江藤樹の画像 中江藤樹は晩年、中国明代の儒学者・王陽明のとなえた「致良知」の説を最高の教学として示したことから「日本陽明学の祖」とされている。また数多くの徳行によって藤樹先生と親しまれ、没後には「近江聖人」とたたえられた。
大相撲行事の祖・志賀清林

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第21回  
METRO No.1
55
    
※その三は1月初旬に掲載予定です。 お楽しみに!
酒の小売りで暮らしを立てる 
 長年の望みがかない、18年振りにわが家に帰りついた与右衛門は、脱藩した殿様への気兼ねもなく、専ら母親への孝養に勉めた。だが無禄になった与右衛門は、とにかく残った銀百文で酒を買い、これを自分の家で売ることにした。商売を始めてみると、丁寧なお客のもてなしが評判になり、店は日ごとに繁昌していった。
 夕暮れ時、田畑の仕事を終えた村人が酒を買いにくると「今日はどんな仕事をされたのか」と尋ねるなど、その仕事ぶりによって「それなら晩酌はこれぐらいがよろしかろ」と、売る酒の量を加減した。また先生が講義中に客があると、店番がいないので「かめにある酒を自由にはかって代金はめいめい、そこの竹筒に入れておいて下さい」と書いて店に張り紙をした。

ただ酒三升が戻る 
 門人達がびっくりして「わたし達が交替で店番をいたします」といったが先生は「人間はみんなが善人です。悪いことをするはずはない」といって平然と講義をしていた。そんな矢先、その日は隣り村の春祭りの日だった。この辺りでは見かけない人がやってきて、一升どっくり三本に酒を詰め、金を払わず、名も告げずに立ち去った。
 先生は、落ちついた様子で売り上げ帳を取り出して「ごんずわろじ(普通のわらじと違い、ひも通しを作らずひもをわらじ底に一つに作り込んだもの)に、がまはばき(がまの葉で作ったすね巻き)、知らぬお方に酒三升、しかもその日はかも(隣り村の名前)祭り」と筆を走らせた。
 酒を一度に三升も買う客などめったにない。しかも見知らぬ人が金も払わず、酒だけを持ち帰ったのだから門人達が心配するのは当然。だが先生の歌は、門人達の心に温かく響き、先生の心の広さをつくづくと味わった。4・5日後、その人は再び店を訪れ、財布から銭を取り出して竹筒に入れ、一礼して静かに立ち去った。その日の先生の顏はことのほか明るく、おだやかだった。
 先生は、酒屋だけでは暮らしがたちかねたので、持っていた刀や脇差しを売り、それで米を買い、安い利息で農家に貸した。当時の農家は、年貢を差し出すのが精いっぱいで、夏ごろになると飯米がなくなる家庭が多かった。村人は喜んで借り受け、期限がくるときっちり返しに来た。先生はその都度、心から温かくもてなした。

村人が藤樹先生と呼ぶ 
 帰村してからの先生は、門人や村人たちへの講義と酒の商いに忙しい毎日だったが、心安らかで豊かな気持ちになっていた。朝起きると家の中や外回りの掃除をすませ、月に、3回は隣り村へ酒を仕込みに出かけた。
 8月の終わりに近いある日のこと。農作業を終えた村人が泥まみれのままやって来た。茶碗酒を一口のどに流し込んだ村人が「万木(ゆるぎ・地名)にある田んぼの川淵の石垣がいくら積みなおしても、大雨が降るとすぐに崩れてしまう。何かよい知恵はありませんか。」と問いかけてきた。先生は「それはやっかいなこと。石垣の下に松の杭を五、六本打ち込んでみたら。」と教えた。それから間もなく先生に教えられた通りに石垣を積み直してみると秋の台風や大雨にもびくともしないようになった。
 こんなことがきっかけで、村人は酒を買いにくるだけではなく、村の行事や家の中のもめごと、家族の病気のことまで相談に来るようになった。ことに病気については、先生は専門的な知識を持っていたので、多くの村人が相談にきた。いつしか村人達は、誰いうこともなく先生を「藤樹先生」と呼ぶようになった。先生の家の庭に大きな藤の木があり、先生がその木を大切にしていたからだった。