八日市大凧会館 八日市市東本町3-50 TEL・FAX0748(23)0081
お正月といえばまず凧揚げが頭に浮かぶ。子供の頃、叔父といっしょに扇凧(扇子を広げたような凧)を揚げに行った思い出がある。昨年末、そんなことを頭に浮かべながら八日市市の世界凧博物館 八日市大凧会館を訪ねてみた。名神高速道路八日市インターで降り、取付
道路を左折、約2q進すると不定形な交差点がある。左から2番目の道を直進すると間もなく左側にある会館に着く。中に入って驚くのが正面に展示された二百畳敷(原寸大)の大凧。そのほか数多くの大凧や小凧、それにカラフルな外国凧がにぎにぎしい。
●八日市と大凧 大凧の歴史は古く、養老4年(720)の日本書記に「鮹旗を賜った」と記され、平安時代には「紙老鴟」「紙鳶」(イカ)と呼ばれていた。江戸時代になると「源五郎凧」「武者絵」「金太郎絵」などの祝い凧が全国的に流行した。同市の農村地帯にある中野、金屋、芝原3地区では、江戸中期から男子が出生すると毎年5月の節句にお祝いの凧揚げをする風習があった。ところが凧の製法は各地区とも秘密で、それぞれが材料や組み立て法を独自に開発、そのため凧が年々大きくなっていった。やがて天保12年(1841)には、当時の大関のしこなをとった「九紋竜」という大凧(百畳敷)が完成、始めて地区の大空に舞い上がった。続いて弘化2年(1885)には「国」「鯰」(共に百畳敷)が飛揚に成功するなど大凧に夢をかけていた人達にとって喜びは大きかったと思う。
●最大は240畳敷 毎年大凧揚げに参加するのは、各地区の世話役約200人ずつの600人のほか近郊からの見物人合わせて数千人が会場の沖野ヶ原につめかけた。このため節句ごとの大凧揚げを“骨休み”とみた領主伊達藩羽田陣屋の代官が、農民が精を出さず凧揚げにうつつを抜かし、年貢を滞らせるとともに農作物を踏み荒らす恐れもあるとみて、大凧は禁止、子供凧だけを許可した。それでもこの行事は止まず、天保12年(1841)から明治45年(1922)まで70年間に20回にわたって大凧が揚げられた。このうち明治15年(1882)の「四海兄弟」は240畳敷の大凧で、現在八日市大凧保存会に残されている記録では最大といわれている。
●戦争で一時休止 大正から昭和期に入ると大東亜戦争の影響もあって昭和18年までに7回、うち大凧(百畳敷)は大正4年(1915)の「迎速大典」と昭和18年(1943)の「赤心報黒」の二度。その後は、戦争激化と戦後の再建もあって雄大な大凧揚げは八日市の空から消えてしまった。
「大凧の会場・沖野ヶ原」が陸軍の飛行場となって凧の飛揚に使われなくなったことや時代の移り変わりで凧揚げの風習が廃れていったこと。さらに大凧に変わって「鯉のぼり」が五月の節句のシンボルに変わり、大凧のつくり手が年々減っていったことなどが原因となったようだ。
●戦後の空に大凧舞う 久しく揚がらない大凧を是非復活させてほしいと願う市民の声は戦後の落ち着きとともに高まり、八日市市や八日市商工会議所は対策を練り始めていた。その頃、芝原地区の大凧技術者西沢久治さん(故人)が中野や金屋地区の古老を訪ね、三地区の一本化と大凧の復活を呼びかけた。しかし長い間の秘密主義が禍いして大げんか寸前の事態もあったが、昭和28年3月、ようやく八日市大凧保存会結成にこぎつけ、西沢さんを会長に全市一体での大凧技術保存と伝承が実践出来る体制が整った。
これを記念に戦後始めての大凧が飛揚した。この時の大凧は「公益を進む」という名称で、80畳敷。上部に二匹の「大鯉」を描き、下部に朱文字で大きく「進」の字を、さらに中央に小さく「益」の字を配した。この判じもんの意味は「戦時中の苦しみを吹き飛ばして公の利益のために進んでほしい」という国家再建への願いを込めたものだった。このような関係者の努力が認められ、昭和33年には、滋賀県無形民俗文化財に選定された。
●大凧は海外にまで 戦後西沢会長は小学校へ出かけては凧のつくり方を教えると同時に後継者の育成につとめる一方、28年4月には東京都の隅田公園まで遠征して大凧を飛揚、51年7月には西沢会長を先頭に市の青年学級の生徒や八日市山の会のメンバーらが富士山に登り、頂上で四畳半敷の大凧の飛揚に成功させた。また60年4月には中国のウェイファンで、さらに61年1月にはシンガポール、63年にはオーストラリアで飛揚に成功させるなど大凧は海外にまで進出、各国との友好親善に大きな役割を果たした。
昭和59年11月の第1回八日市大凧まつりには220畳敷の大凧「豊かに恵む八日市そして大凧」と称する大凧が飛揚、戦後最大を記録、平成5年5月には「皇太子殿下雅子様御成婚を祝う」の大凧が揚げられ、滞空時間二時間五分、戦後の最長滞空時間を記録、11月には、国の無形民俗文化財に選択された。
●大凧がどうして揚がるのか 昔から大きな凧を揚げるには海辺寄りの地方が選ばれるのが普通。ところが八日市は内陸に位置しながらも「湖陸風」という滋賀独特の風が吹いている。琵琶湖の湖水温と陸地の温度差から生まれる風で八日市の大凧にとっては何物にもかえがたい“恵の風”。これと沖野ヶ原という広大な平野。さらには周辺の日野、五個荘、近江八幡は、近江商人発祥の地だけに負けん気の強い人達が凧づくり凧揚げの中心になっていたことなどが総重量1トンともいわれる凧を飛揚させたといわれている。
●八日市の大凧の特色 八日市で大凧が揚がった理由には、前述の恵の風のほかに先人達の工夫によって長巻き法と切抜き工法、変則六角形のほか絵柄に判じもんなど全国でも例を見ない工夫がなされていたことだ。
●長巻き法 凧の縦の丸骨(背骨)を取り外し、下から巻いて収納、どこへでも運搬出来る製作技術天保年間に発明。
●切り抜き工法 弘化年間、従来一面張りの凧に改良を加え、図柄に沿って切り抜き、風に対する抵抗を少なくし、揚げ糸の強度と凧のバランスを保っていた。
●形は変則六角形 普通障子凧は、長方形のものが多いが、大凧は重量も重く、降りてくる時の衝撃で壊れないよう下方の四角の両角を切って変則六角形にした。
●判じもん 凧の上部に墨の濃淡で鳥や魚などを描き、また下部には赤文字で描き、図柄と文字の組み合わせで、意味を持たせることでその意味を見物の人達にさぐり出してもらおうというもの。例えば上部に「鯉」を二匹描き、下部「芽」の文字を描いて「恋に芽生える」と読ませている。
平成7年3月、保存会が「風の神さん風おくれ」のタイトルで出版した八日市大凧物語によると西沢会長は生前、若い会員たちに「ええもんや(大凧のこと)さかい時代を越えて残って行くのやない。ええもんやさかい残していかなあかんのや」と技術伝承の必要性を説き、実践に当たっては「大凧には製作に何百人もが参加できる楽しみや、昔から蓄積されてきた技術を学ぶ楽しみ、そしてスリルに満ちた飛揚作業をする楽しみがある。でも最大の楽しみは一度揚げた大凧は焼却してしまい、毎回、新しい大凧を作ることにある。その時のデザインを新たに考案し、それを作品化するために知恵を出し合っていく過程こそがみんなをひきつけるのだ」と夢は実践によって追い続けられることを力説しておられたようだ。
冊子のタイトルは、芝原地区の山岡かのさん(明治元年生まれ 昭和42年没)が百歳当時、つくられた大凧の歌の一節を使っている。ご主人は大凧揚げで揚げ綱にからまれてはね飛ばされ重傷を負い明治45年に亡くなった。そのかのさんがご主人への思いからつくられた歌で常に口ずさんでおられたようだ。その一節を紹介しよう。 (筆者:曽我一夫)
風のうた
風の神様風おくれ
揚がったらかえすで皆おくれ
うららのたこはよいけんど
風が吹かんとあがらんで
風の神様風おくれ
参考図書(八日市大凧保存会「八日市大凧調査報告書」および「風の神さん風おくれ」)
第7回 − 八日市の大凧 −133号−
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