− 宇治十帖(その2) −




  前回に引き続き宇治十帖の話です。光源氏のあとの美男子といえば性格のおとなしい薫君(かおるのきみ)と積極的な匂宮(におうのみや)ということになります。薫という名前の由来ですが、薫君の体からは、生まれつき香ばしい香りが漂っていました。遠く離れたところまでも香りが漂い、物陰にいてもはっきりわかります。庭の木に触れても香りが移り、触れ合った女性にもその香りを残すのです。
匂宮は、この薫君の体の匂いをうらやましく思い、それに負けまいといい薫香を集めてはふんだんに使っていました。春の梅、秋の萩や女郎花よりも匂いのある菊や藤袴や吾木香(われもっこう)などを大切にしていました。世間では、この二人を「匂う兵部卿、薫る中将」と呼び、誰もがこの二人のことに注目をして、年頃の姫君を持っている親なら二人のどちらかに嫁がせたいものだと思っているのでした。



左の図で赤線が現在では非倫理的な関係です。
 東屋(あずまや)【五十帖】



鎌倉時代後半の東屋観音と呼ばれる石像が東屋の古跡とされています。本文に書いているように東屋は京都市内三条大橋東詰めがその場所です。

 さいとむる むぐらやしげき 東屋の
     あまり程ふる 雨あそそぎかな

 浮舟の母は昔、八の宮家に仕えていた女房でしたが、身分が低いために浮舟を娘だと認めてもらえず、常陸介という受領の後添えになったのでした。
薫君は浮舟を自分の元に迎えたいと申し出ていたのですが、浮舟の母は自分が身分の違いで辛い思いをしたこともあってためらっていました。

以前、浮舟に求婚してくる男がいました。その男は常陸介の財力が目的でした。
婚儀の準備が進められていたのですが、浮舟が常陸介の実の娘でないことを知るとさっさと他の常陸介の実の娘と結婚してしまいました。
その縁談が破れ、浮舟を不憫に思った母は、二条院に中の君を頼って行ったのです。

 中の君の優雅で幸せな暮らしを見た浮舟の母は、同じ八の宮の娘である浮舟も高貴な身分の男性と一緒になってほしいと考えを改めためました。
 二条院に来た浮舟はすぐに匂宮に見つかり、途端に言い寄られました。その時、内裏からの急な使者がやって来たため、匂宮は浮舟が誰なのかわからないまま立去っていきます。
そのことを聞いた母は驚き、浮舟を三条大橋東の小家に隠してしまいました。

 一方、薫君は以前、宇治の山荘で浮舟を垣間見てから憧れが募っていきました。浮舟を探し出すため山荘の女房から浮舟の消息を聞きだし、薫君は三条の小家で浮舟とその夜を共に過ごしたのでした。
次の日、薫君は浮舟を隠すため、連れ立って早朝の三条を後にし、再び宇治に向かいました。草深い木幡の山を越え、川霧に煙る宇治へと向かう途中、薫君は浮舟の中に亡き大君の面影を見ていたのです。


浮舟(うきふね)【五十一帖】

   たちばなの小島は色もかはらじを
        この浮舟ぞゆくへ知られぬ

 匂宮は二条院で出会った浮舟のことが忘れられず、ずっと行方を捜していました。
宇治から届いた若宮のお祝いの品に添えられていた文を見て、その送り主が浮舟だと確信します。
その後、薫君が匿っていることをつきとめた匂宮は、薫君を装って浮舟の部屋に入り闇に乗じて浮舟と強引に契りを結びます。
浮舟は思いもよらぬことに、ただ泣くばかりでしたが、浮舟も情熱的な匂宮に次第に惹かれていきました。それから一月ほど経ったある日、宇治を訪れた匂宮は、山荘の対岸の小家に浮舟を誘います。二人は小舟で宇治川へ漕ぎ出し、途中の橘の小島に立寄り歌を詠んだりしました。

 浮舟と匂宮との関係を知った薫君は、浮舟を京に引き取ろうとします。
薫君は浮舟を見捨てることもなく優しかった。匂宮は行動的で情熱的です。
浮舟の心は二人の間で揺れに揺れ、もがき悩み続けました。
身の置き場所がなくなった浮舟は、ついに入水を覚悟して山荘を出たのです。





平安時代は奈良街道沿いに浮舟神社があったということですが現在は三室戸寺境内に置かれています。

蜻蛉(かげろう)【五十二帖】
蜻蛉石は高さ2メートルほどの自然石で、それぞれの面には阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩と阿弥陀如来を拝む十二単を着た女性が彫られていて、平安後期の作と伝えられています。







 ありと見て手には取られず見ればまた
        ゆくへも知らず消えし蜻蛉



 浮舟の姿が見えなくなって、山荘の人々は慌て戸惑います。
都にいた浮舟の母は、知らせを聞いて急いで宇治にやってきます。
浮舟が薫君と匂宮のことで悩んでいたこと。それ故、入水したかもしれないことを女房達から聞いた母は、浮舟のうわさが広がらないうちにと、泣く泣く葬儀を済ませました。

匂宮は事態を知り、悲嘆のあまり病に臥してしまいます。

薫君は、都で華やかな日々を送りながらも、愛しながらも死別した大君。
匂宮のものにしてしまった中の君。
行方も知れずに死んでしまった浮舟。
この姫君たちのことを思い、物悲しい思い歌を詠むのでした。
手習(てならい)【五十三帖】

  身を投げし涙の川の早き瀬を
    しがらみかけて誰かとどめし


 浮舟は死ぬつもりで宇治の川べりをさまよったあげく倒れてしまいました。そこに比叡山横川の僧都(そうず)が通りかかりました。
僧都は六十歳あまり、八十歳の母が初瀬詣の帰りに急病で倒れたとの知らせをうけて宇治にやってきていたのでした。

 その夜、僧都は宇治院の森の大木の下で倒れていた浮舟を見つけたのです。
僧都の五十歳ばかりの妹尼は自分の亡くなった娘の代わりに、浮舟を観音様が授けてくださったものかと手厚く介抱しました。
しばらくして僧都の母も元気になり、僧都一行は浮舟を連れて洛北の小野の草庵へと帰りました。
 浮舟は死に切れなかったことが悲しくて、決して素性を語ろうとはせず、わが身を憂う歌などを手習に綴るばかりです。
ある日、妹尼の亡くなった娘の婿だった中将が草庵を訪れました。浮舟の姿を垣間見たこの中将はすぐに結婚を申し込んできましたが、浮舟は男女のことから離れたく思っていましたから、出家を決意したのでした。
結婚を勧める妹尼が留守をしていたある日のこと、浮舟は僧都に懇願し出家してしまいました。
次の年の春、草庵を訪れていた客から、薫君が浮舟のための法要を行うこと知ります。浮舟はこのまま誰にも知られずにいたかったのです。ところが僧都は宮中での話しの中で浮舟のことを明石中宮に語っており、それはおのずと薫君の耳にも届くのでした。





府道京都宇治線沿いにある手習いの筆の穂先のような形をして昭和になって建てられた石碑。

夢浮橋(ゆめのうきはし)【五十四帖】


夢浮橋は現実には存在しない橋のことですが、 橋ではじまり橋で終る宇治十帖をしめくくる古跡として、ひっそりといたたずんでいます。



 法の師とたづぬる道をしるべにて
      思わぬ山に踏み惑うかな


 薫君は根本中堂で女一宮の病気平癒の供養を済ませた後、横川の僧都を訪ねました。
浮舟の詳しいいきさつを聞きたかったのです。
死んだと思っていたのに実は生きていたと知って夢のような心地でした。薫君の呆然とした様子に僧都は浮舟を出家させたことを後悔するのでした。

 次の日、薫君は思いを込めて手紙を書き、それに還俗を勧める僧都の手紙を添えて、今は従者として召し使っている浮舟の弟小君に託して浮舟の元に遣わしました。
浮舟が外に目をやると弟の姿がそこにありましたが、今更、この世に生きていることを知られたくないとの気持から対面を拒みます。小君は思い余ってせめてお手紙をと差し出し、尼君がそれを開いて浮舟に見せました。
 しかし、浮舟は手紙を押しやって「心乱れて昔のことは思い出されません。今日はこの手紙を持って帰ってください」と手紙を返したのでした。薫君は帰ってきた小君を見て、期待したことが破れた味気なさを感じるのでした。そして誰かが浮舟をかくまっているのではないかとも考えてみるのです。

 さて、源氏物語はこれで終ります。この後薫君と浮舟がどのように生きたかについては読者に残された課題なのでしょうか。 

       
                       参考:村山リウ著 「源氏物語」 創元社        (財)宇治市文化財愛護協会 現地説明文

(遠藤真治記)
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