− 六道まいりと幽霊子育て飴
             第25回 −



 「六道まいり」というものを、みなさんはご存じでしょうか?
京都のお盆は六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)の迎えの鐘で始まります。この寺が平安京の葬送地、鳥辺野(とりべの)の入口に位置していたことから、 ここが六道の辻と考えられています。毎年8月7日から10日までの間、「迎え鐘」を鳴らすことにより精霊がこの世に甦ってくると信じられています。六道というのは地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道の6つ冥界のことです。
今日でも六道については「六道銭」(死者の棺の中に入れておく六文の銭。三途の川の渡し銭)、「六道輪廻」(衆生が自分の業により、六道の間を生まれ変わり、死に変わりして迷い続けること)、「六道の巷」(六道へ通じる道の分岐点、または迷いの世界)、「六道能化」(六道の巷に現れて、衆生を教化し、救う地蔵菩薩のこと)のような言葉が使われています。
六道珍皇寺


 さて、その「六道まいり」ですが、参道に並んだ露店で「高野槙(こうやまき)」を買い求めます。これは精霊が槙の葉に乗って冥土から戻ってくると信じられているからです。次に本堂の前でお坊さんにご先祖様の戒名・俗名を水塔婆に書いてもらいます。それからご先祖様が道を間違えずに帰って来れるように迎え鐘を2回撞いて、そのあと線香の煙で水塔婆を浄めます。その水塔婆は五百体もの石仏が並ぶ前において高野槙で水をかけて回向をし、その場に納めます。これは喉が渇かぬようにとのご先祖様への心配りなのかも知れません。家へ持ち帰った高野槙は、お盆の間、蓮の花などとともに仏壇にお供えするのが習わしです。 
こうして迎えた霊を再び冥土へ送るのが、八月十六日の「大文字五山の送り火」なのです。
珍皇寺本堂


 「迎え鐘」については以下のような話しがあります。『六道珍皇寺の開基慶俊僧都が遣唐使の一員として唐の国に行く時に造らせた梵鐘で、地中に埋めて三年間は掘り出さないように命じていました。
しかし、この鐘は二年足らずで掘り出されてしまいました。その鐘の音は唐の国にいる慶俊僧都のところまで届いたといいます。慶俊僧都は「あの鐘は三年間地中に埋めておけば、その後は人手を要せずして六時(むつどき)になると独りでに鳴る霊鐘だったのに」と残念がりました。』
この鐘は遥か唐の国までも聞こえるということから、十万億土に響き渡り、その音をたよりに精霊がこの世に戻ってくると言われています。そのことからこの鐘を「迎え鐘」と呼ぶようになりました。
迎え鐘

 この六道珍皇寺には他にも奇妙な話があります。
小野篁(おののたかむら802〜852)が冥府に通った井戸(死の六道)があるということです。今昔物語、宇治拾遺物語等に伝えられているように、篁は一日に二刻ずつ冥府に行き、閻魔庁第二の冥官になります。
篁は学生の頃、罪を犯して罰せられる事になりましたが、 その時、藤原良相(よしみ)が、篁をかばい難を逃れる事が出来ました。篁はその事を知り、良相に大変感謝しました。歳月は流れ、篁は参議となり、良相は大臣(おとど)になりました。 しかし良相は重病を患い亡くなってしまいました。 そして良相は閻魔大王の前に連れていかれ、生前の罪が確定するとき、冥官の中に篁を見つけました。篁は閻魔大王に「この人は立派な人物なので、もう少し生きさせて下さい」と言いました。閻魔大王は「それは難しい事だが、篁が言うなら許そう」ということになりました。すると、良相は自分の部屋で息を吹き返していたのでした。
その後、良相は病も癒え内裏に上がり、そして篁に会うと、閻魔庁での出来事を尋ねました。篁は、「以前、私の弁護をしていただいたお礼です。この事は誰にも言わないでくださいね。」と答えました。良相はこれを聞いて篁は閻魔王宮の臣だと分り、恐れて人のために親切にせねばならん。」と、いろんな人に説いてまわりました。 しばらくするとこの事は自然に世間の知る所となり、「篁は閻魔王宮の臣として冥府に通っている人だ」と皆が恐ろしがったという事です。
篁が地獄の入口にしたのがこの写真の井戸です。冥府の仕事を終えると、 嵯峨の清涼寺横、薬師寺境内の井戸(生の六道)からこの世に戻ってきたと伝えられています。
小野篁が冥府に通った井戸
        珍皇寺の閻魔大王像










 「六道まいり」が済むと筆者はお土産にあるものを買い求めます。それは「幽霊子育飴」。
何ともおぞましい名前のお菓子ですが、麦芽と餅米が醸し出す上品で滑らかな味と琥珀のように透通っていて、大きな飴を割っただけの形が素朴さを感じさせてくれます。
珍皇寺の小野篁像


この名前の謂われを聞けば納得するのですが、かたくなにこの名前を守ってこられた姿勢には、京都人の伝統を守る心意気を感じます。
 その名前の謂われですが『時は慶長四年、夏の盛りをすぎた長月に差しかかる頃。六道の辻あたりに店をかまえる飴屋の主人惣兵衛は、夜もふけ寝床でウトウト夢心地に入ったころ、店先の方からか細い女の声がするのに気づきました。
戸をトントンと叩き「遅うにごめんやす」。惣兵衛は、ロウソクのわずかなあかりで戸口に向かいました。そこには二十代中ごろと思われる女が立っていました。
その女は蚊の鳴くようなか細い声で「夜分恐れ入りますが、飴を一文がとこ分けておくれやす」と。
惣兵衛は竹の皮に飴を包んで手渡しました。女は丁重に礼を述べ、暗闇に吸い込まれるように音もなく消えて行きました。

こんなことが何日か続きました。不審をいだいた惣兵衛は、ある日、恐る恐る女のあとをつけて行きました。
六道の辻から清水坂を通って鳥辺野の墓地にさしかかったとき、女はあたりを見回したかと思ったとたんに姿を消してしまいました。夜があけるとすぐさま寺を訪ね、住職と一緒に墓地に行ってみると、女の消えたあたりには新しい盛り土がありました。
住職は、「この墓は、6日前に江村某の若妻が亡くなり、気の毒なことに出産を控えた矢先のことじゃったらしい」。成仏させてやろうと回向していると、盛り土の中から赤子の泣き声が聞こえてくるのです。

急いで土を堀り返し、棺の蓋を取ってみると、亡き女の横には赤子が飴をしゃぶっていました。一同は驚いて赤子を取り出しました。
住職は、「亡くなった母親が墓の中で赤子を生んで、お乳が出ないので幽霊になって飴を買い求めて育てていたんじゃな」。
住職のもとで育てられたこの赤子は、やがて成長して3歳のころから仏門に入り、一心に修行に励み、亡き母の菩提を弔いました。そして、のちに高名な僧になりました。』
   (「六道の辻あたりの史跡と伝説を訪ねて」室町書房より抜粋)





 この話、落語にも創作されていて、話はこのようになります。
『六道珍皇寺の門前に一軒の飴屋があった。ある夜表の戸を叩く音で出てみると青白い女が一人。「えらい夜分にすみませんが、飴を一つ売っていただけませんか」と一文銭を出して言う。
次の日もまたその次の日も、同じように一文銭を出して買っていく。それが六日間続いた。
幽霊子育飴
幽霊子育飴の販売店
「あれは、只者ではない。明日銭持ってきたら人間やけど持って来なんだら、人間やないで」「なんでですねん」「人間、死ぬときには、三途の川の渡し銭として、銭を六文、棺桶に入れるんや。それを持ってきたんやないかと思う」。
七日目女はやはりやってくるが、「実は今日はおアシがございませんが、飴をひとつ分けておくれやす」と言う。「よろしい」とゼニなしで飴を与えてそっと後をつけてみると、二年坂、三年坂を越えて高台寺の墓地へ入って行く。そして、一つの塔婆の前で消える。
掘ってみるとお腹に子を宿したまま死んだ女の墓。中で子が生まれ、母親の一念で飴で子を育てていたのである。この子、飴屋が引き取り育て、後に高台寺の坊さんになったという。母親の一念で一文銭を持って飴を買うてきて、子どもを育てていた。それもそのはず、場所が「高台寺(=子を大事)」』。
                                    (米朝ばなし『上方落語地図』講談社文庫より抜粋)
(遠藤真治記)
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