聖徳太子
                   第31回、第32回、第33回

 聖徳太子といえば日本人で知らない人はいないと思われるほどの有名人です。200号の記念として、今回はその有名な聖徳太子を取り上げてみました。
資料としては『日本書紀』や『上宮聖徳法王帝説』などが中心となりますが、これらの資料は作成者の作為的な部分もあり、ここでは筆者の思い入れやイメージングを中心に書かせていただきます。そのため他の解説書や歴史書とは史実において異なっている部分もありますが、フィクションとしてお読みいただければよいかと思います。


 573年、春正月のこと、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の夢の中に「救世観音菩薩」と名乗る金色の僧が現れました。「我に救世の願いあり。しばらく皇女の腹に宿りたい」と告げました。皇女が承諾すると目が覚めましたが、のどの奥に違和感が残っていました。夫の橘豊日皇子(たちばなのとよひのみこ:用明天皇)はこの夢の話を聞いて「きっと聖人を生む」と語ったということです。それから8か月が経ったときのこと、お腹の中から胎児の言葉が聞こえて周りの人達を驚かせました。ところが十月十日を過ぎても出産の兆しはありません。
        【聖徳太子誕生地】
橘寺の寺伝ではこの地に欽明天皇の別宮があり、当時の習慣では皇族の皇子は出生地の地名か、あるいは誕生後に養育を任された乳母の氏族名で呼ばれるのが一般的。厩戸という氏族名は存在しないから、橘寺付近に厩戸という地名があり、その地名にちなんで命名されたとする説もあります。
ちょうど一年後の正月元日、穴穂部間人皇女が磐余(いわれ)の池辺雙槻宮(いけのべのなみつきのみや)を歩いていたときのことです。皇女は厩(うまや)の前で急に産気づいて陣痛もなく、赤子を産み落としました。
まるで聖母マリアが天使ガブリエルの夢を見て、受胎を告げられ、馬小屋でキリストを産んだ話のようにです。この赤子は厩の前で生まれたことから厩戸皇子(うまやどのみこ:後の聖徳太子)と名付けられました。
厩戸皇子は、この年の4月には早くも言葉を発して「私は救世観音であり、阿弥陀如来でもある」と言ったとの話も残っています。
皇子は生まれつき霊能力を備えており、成長するにつれますますその能力は冴えわたっていくのでした。
       【仏教伝来地】
泊瀬川の右岸、百済の使節もこの港に上陸し、すぐ南方の磯城嶋金刺宮(しきしまかなさしのみや)に向かったとされています。

 厩戸皇子が生まれる30余年前の
538年のこと、百済の聖明王の使者が飛鳥に来朝して、欽明天皇に金銅の釈迦如来像、幡蓋(ばんがい:仏殿の飾り)、経典などを献上しました。「仏教はいろいろな教えの中で最も優れているから、倭国に伝える」ということでした。
当時、既に渡来人が仏像を安置して礼拝を行っており、仏像を「大唐神(おおからのかみ)」と呼んでいました。日本人の祀るべき神は天照大神であり、山や岩や雷といった天神地祇です。そのため、欽明天皇はその礼拝の賛否を群臣にはかりました。

蘇我稲目は東漢(やまとのあや)氏や西文(かわちのふみ)氏など渡来系氏族とのつながりがあり、朝鮮半島や大陸の事情に通じていました。そのため「西方の諸国では仏教を礼拝している。我が国だけがそれに背くべきではない」と積極的に受け入れる姿勢をみせました。
これに対して、物部尾輿や中臣鎌子は「わが国の王は常に天地社稷(あまつやしろくにやつしろ)の百八十神(ももあまりやそがみ)を、春夏秋冬にお祀りされることが仕事であります。蕃神(あたしくにのかみ)を礼拝すれば国神(くにつかみ)の怒りをまねくでしょう」と排仏の立場を取りました。これも鎮魂儀礼の祭祀に当たっている物部氏や神官の家柄である中臣氏としては当然のことでしょう。
そこで天皇は稲目に仏像を授けて試みに礼拝することを許しました。稲目は向原の自宅にこの仏像を安置して豊浦寺としました。ところが排仏派が心配したとおり、疫病が大流行し多数の死者が出たのです。物部尾輿と中臣鎌子らは「異国の神をまつるからだ」と仏像を難波の堀江に捨てるとともに、豊浦寺を焼いてしまったのです。
 時は流れて、欽明天皇は亡くなり敏達天皇の時代になりました。そして崇仏派の蘇我稲目は馬子、排仏派の物部尾輿・中臣鎌子らは守屋・勝海の世代になりました。
578年、5歳の厩戸皇子はとても優しい子供に育っていました。皇子の叔母にあたる豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ:後の推古天皇)にはよく遊んでもらっていました。「オバちゃん、甘樫丘に登ろうよ」とか「いっしょにご飯を食べよう」というふうにとても懐いていたのです。
その叔母が敏達天皇の皇后となった日に、皇子は「オバちゃんはいつか天皇になる」と予言してみせました。また翌年には皇子は「ボクは前世で漢の衡山に住んでいて、転生を繰り返して仏道を修行してきたんだよ」と言ったこともありました。
         【海石榴市付近】
この辺りは磯城嶋金刺宮、磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)をはじめ最古の交易の市・海石榴市などの史跡を残し、「しきしまの大和」と呼ばれる古代大和朝廷の中心地でした。
 さて、崇仏・排仏論争は止まることを知らず、583年に疫病が流行すれば、崇仏派は他国神(仏)をないがしろにしたための祟りと言い、排仏派は他国神を崇拝することに対する国神の怒りと言う。
蘇我馬子は翌年、有力氏族である司馬達等の娘ら三人(善信尼、禅蔵尼、恵善尼)を尼として、仏像を拝ませました。それにもかかわらず疫病は治まらず、守屋・勝海は排仏派の論理を持ち出し、「疫病の流行を阻止するには国神の怒りを沈めることである」、そのために仏法を破断するしかないと考えました。敏達天皇も仏像の破却を命じ、守屋は仏像を焼き、再び難波の堀江に捨てました。また三人の尼は衣を奪われ、海石榴市(つばいち)に監禁されました。

 しかし、疫病が終息することはありませんでした。逆に仏像を焼き、尼を罰したことが疫病を一層流行らせるという風評が立ち始めました。敏達天皇も破仏の非難の対象となったのです。
そんな折、敏達天皇と馬子が相次いで疫病に罹りました。馬子は快癒しましたが、天皇はまもなく薨じるところとなりました。

このことがあって馬子の崇敬する他国神の株はあがり、守屋の信じる国神の株は下がりました。
このことは結果的に馬子の政治的権力が増し、守屋の権力は縮小していくことを意味したのです。

 この時、聖徳太子は12歳でした。崇仏派の蘇我氏の血を引き継いでいる両親に育てられたのですから、仏教に深い理解を示し、物部守屋を排除し、いずれ日本の指導的立場になることを自ら予見していたのでした。

 585年敏達天皇が崩御し、厩戸皇子の父である橘豊日皇子(用明天皇)が即位しました。ところが僅か2年で用明天皇は病床についてしまいました。天皇といえど人の子。敏達天皇と蘇我馬子が病気に罹って馬子が助かったことが心の中に浮かび上がります。
          【用明天皇陵】
用明天皇陵は、東西65m、南北60m、高さ10mの方墳で、周囲には幅7mの空濠を巡らせており、この濠の外堤までを含めた規模は、一辺100mに達する巨大なもの。

用明天皇は「仏法に帰依して病気を祓おう」、私的にはそう考えたのでしょう。ところが、今や立場は天皇。ここで自分が仏法に帰依すれば公然に仏教受容を認めてしまったことになるのです。この問題は用明天皇の個人の問題ではなく、天皇一人で判断できる枠を超えているのです。天皇は群臣に諮る以外に術はありませんでした。

大連物部守屋らは当然、反対の意向を示しました。蘇我馬子は公的仏教受容に賛成でした。こうして、馬子と守屋の激突は避けられないものになっていったのでした。そしてこの緊張した世情の内に用明天皇は無念を残して崩じたのでした。


 群臣が対立している中、次に問題となってきたのは皇位継承問題だったのです。馬子は、泊瀬部(はつせべ)皇子を推し、守屋は泊瀬部皇子の兄の穴穂部皇子を推したのです。
〔この穴穂部皇子という人は敏達天皇の殯(もがり)宮で豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)を犯そうとする事件を起こすようなとんでもない人物だったようで、人望はなかったと思われます。〕

【大聖勝軍寺】大聖勝軍寺は、守屋の本拠があったところで、ここで馬子と守屋の激戦が行われた。境内には聖徳太子を救った椋の木がある。聖徳太子の墓がある叡福寺を「上の太子」というのに対して「下の太子」という。
 そして587年、馬子と守屋の対立は頂点に達しました。既に守屋は身の危険を感じて物部氏の本拠地である現在の東大阪市衣摺のあたりに移っていました。
7月、ついに決戦のの火蓋が切って落とされました。馬子に従った軍勢は、泊瀬部皇子を筆頭に14歳の厩戸皇子、竹田皇子、難波皇子、春日皇子らの天皇家、紀・巨勢・平群・春日・大伴・阿倍氏らの有力豪族で圧倒的多数でした。

厩戸皇子らの軍勢は大和盆地から二上山の山麓を越えて、志紀郡(藤井寺市・柏原市)の物部氏の領地を攻め、さらに旧大和川に沿って物部氏の領地であった阿都(八尾市跡部)の館、渋河(東大阪市渋川町)の館へと進攻していきました。

ところが、元来、物部氏というのは大和朝廷の軍事を任されていた豪族です。武器も豊富、戦術にも長けていました。守屋は大和川に程近い衣摺に一族を集めて稲城(いなぎ 稲を積み上げた防塁)を築き、守りを固めていました。
【神妙椋樹】太子が苦戦して身があやうくなったとき、木の幹が二つに割れ、太子はそのなかにかくれて危難をまぬがれたという。
そして日本書紀に記されているように「朴枝(えのき)の間(また)にのぼり、矢を雨のように放って」いたのです。
厩戸皇子は守屋の大軍に囲まれ、いかんともしがたい状況になりました。このとき、そばにあった椋(むく)の大木が突然真二つに割れて厩戸皇子を包んで隠してしまい、九死に一生をえたのです。

蘇我軍は退却して軍を立て直して攻めること三度。それでも物部軍を攻めきることはできませんでした。
「このままでは勝てない!」厩戸皇子は焦りを感じていました。
「ここは仏法の加護を得よう」そのために傍にあった白膠木(ぬりで)を切り取って四天王の像を彫り始めました。
「仏よ、どうか我らに勝利を与えたまえ!」祈りを込めて瞬く間に彫り上げてしまいました。
この像を頂髪(たきふさ 髪を頂に集め束ねたところ)に付けて、「今、若し我をして敵に勝たしめたまはば、必ず護世四王の奉為に、寺塔を起立てむ」と戦勝を念じ、他の豪族に守屋討伐を鼓舞したのです。
【鏑矢塚】迹見赤檮が鏑矢をもって、物部守屋を射た時に、射ぬいたその鏑矢が落ちたところ。

これをきっかけに共に戦ってきた兵士たちは奮い立って攻勢に転じたのです。
そのなかで厩戸皇子は勇猛果敢な迹見赤檮(とみのいちい)に四天王の祈願を込めた矢を与えました。赤檮は守屋のいる大木の下に忍び寄り、彼を射落とすことに成功したのです。
勢いづいた兵はさらに守屋の子弟たちを殺し、守屋の軍は四散し逃げてしまい物部氏は滅んでしまいました。
【守屋池】物部守屋を討ったあと秦河勝(はたかわかつ)が、その首をとって、この池で洗い太子に見せたという池。


物部守屋の墓

 戦後、馬子は予定通り泊瀬部皇子(崇峻天皇)を皇位につけました。しかし政治の実権は馬子が持っています。任那復興のための筑紫派兵、仏教の興隆、大陸からの渡来者の接遇、これらの国事は全て馬子が取り仕切りました。天皇は即位後、飛鳥を越え磐余よりずっと山奥の倉梯(くらはし 飛鳥から10km余り)宮に移されました。これは馬子による幽閉と同然と見る向きもあるほどです。

蘇我氏の血統を引く天皇ではありましたが、馬子の専横な態度に不満が募ってきました。しかし天皇は馬子を倒すための兵を集められませんでした。というのは馬子が任那復興という名目で筑紫に2万余の兵力を投入していて、天皇に協力できる有力豪族はいませんでした。実際、この兵が朝鮮半島に渡ったということはなく、馬子の意図的な派兵ではなかったのかともいわれています。

 592年10月4日、天皇に猪を献上する者がありました。天皇は笄刀(こうがい)を抜いてその猪の目を刺し、「いずれの時かこの猪の頸を断るがごとく、朕が嫌しと思うところの人を断らむ」という独り言を漏らしたことがありました。このことを天皇の妃が聞きとめ「寵(めぐみ)の衰えしを恨みて」馬子に密告したと日本書紀に記されています。
これを聞いた馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に天皇を暗殺させました。

その後、馬子は豊御食炊屋姫(推古天皇 敏達天皇の皇后)を擁立して皇位につけたのです。
即位したのは同年12月、日本初の女性天皇です。

我が国初の女性天皇の推古天皇磯長山田陵は、東西に長い三段築成の長方墳で、その子竹田皇子と合葬されている。
 推古天皇は自分が天皇にならなければ、馬子の力を抑えきれない。しかし、崇峻天皇の例もあり、不安でもありました。そのために、新しい権威をもつ執政官を立て、自らは政治の場から退くことを思いついたのです。

そこで登場してきたのが甥の聖徳太子だったのです。太子なら蘇我氏の血を受け継いでおり、物部氏との戦いに参加しており、仏教に関心が高く、聡明であることなど馬子に期待すらされていたのです。
天皇は太子を摂政に任じ国政を任しましたが、事実上は聖徳太子と実力者蘇我馬子の連立政権のようなものだったのでしょう。
 日本書紀によると、欽明天皇の時代のこと、新羅によって任那(金官伽耶)は滅ぼされました。562年には新羅に討伐軍を送りましたが敗れ、任那を復興することは叶わず天皇は復興の詔を残して亡くなったのです。蘇我馬子はその意志を継いで591年に任那復興を旗印に半島出兵を試みたのです。(その2で書いた崇峻天皇暗殺事件の前年)
これに対して聖徳太子は文化交流を通して大陸の進んだ技術を取り入れることが重要と考え友好政策を推し進めて行ったのです。
物部守屋討伐のときに約束した四天王寺も593年に造りました。
四天王寺縁起によると「四箇院の制」、すなわち仏法修行の場である「敬田院」、 病人に薬を施す「施薬院」、病気の者を癒す「療病院」、身寄りのない老人を収容する「悲田院」の四つの施仏教の根本精神の実践の場として四天王寺は建てられたのです。
 (後期高齢者医療制度を考えている現在の厚生労働省の方々にも研究してもらいたい話です。)

  「今、自分がすべきことは何か!」

摂政となって落ち着いてきた太子は考えました。
自問自答した結果は「推古天皇を補佐して安定した中央集権国家を作らねばならぬ」だったのです。その実践の成果は先ず外交面に出てきました。それまでの朝鮮中心の外交方針を改め、中国と直接交渉するため、遣隋使を派遣することにしました。
第1回目の遣隋使の記録は何故か日本書紀にはなく、隋書「東夷傳國傳」(は倭の誤りか)に見ることができます。この中で使者は『王を姓は「阿毎(アメ)」字は「多利思北孤(タラシヒコ 北は比の誤りか)」号は「阿輩雉彌(オオキミ)」と言い(用明天皇のことか)、高祖文帝は國の政治のあり方が納得できず、道理に反したものに思えたのか、そこで改めるよう訓令』しました。

第2回目は小野妹子が隋の皇帝煬帝に宛てた国書を携えて行きました。国書を書くに当たって太子が苦心したのは、日本が隋と対等の立場であることを主張することだったのです。
そして自ら筆を取って書き出したのです。

『日出ずる處の天子、書を日没する處の天子に致す。恙無しや、云々』

これを読んだ煬帝は激怒して「無礼な蕃夷の書は、今後私に見せるな」と外交担当官に命じたほどです。煬帝が激怒したのは「日出處、日沒處」ではなく、王が「天子」と名乗ったことにあったのです。高い文化と技術を積み重ね、広大な国土を治めた煬帝にとって自分だけが皇帝であったのです。それ故、自尊心が傷つけられたことには間違いないでしょう。これは太子が強烈な印象を与えるために意識して書いた作戦だったように思います。

 煬帝は激怒はしたものの小野妹子に返書を持たせて、家臣の裴世清と供に帰国させました。
ところがこの返書、妹子が百済で盗まれて失くしてしまったのです。この事実をどう思われますか。国の使者が、相手国の皇帝の返書を紛失してしまったということをです。
おそらく「返書を朝廷や馬子に見せれば大変なことになってしまうだろう」そう考え悩んだ末、妹子が破棄してしまったと考える方が妥当ではないでしょうか。
なお、斐世清が持ってきたとされる書は次の通りです。
『皇帝、倭王に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、徳をひろめて、全てのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したいという情に、遠い近いの区別はない。倭王は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う』
ここには「天子」という言葉はなく、「倭王」としているところに日本の王を臣下であると見ていたのです。
 次に行なった大きな政策は603年の冠位十二階を制定したことでしょう。氏や姓にとらわれることなく有能な人材を登用することを目指して『始めて冠位を行ふ。大徳、小徳、大仁、小仁、大礼、小礼、大信、小信、大議、小議、大智、小智、并せて十二階。並びに当れる色のあしぎぬを以て縫う』(日本書紀)。官位の任命が天皇によって行われることにより、天皇をピラミットの頂点にする豪族支配体制の確立を図ったのでした。前述の小野妹子は隋に派遣される前には大礼という地位でしたが、功績が認められ最終的には大徳の地位まで出世しました。

法隆寺。東院の夢殿の辺りに斑鳩宮があった。
 太子が続いて発表したのが604年の『皇太子、親ら肇めて憲法十七条作りたまふ。一つに曰く、和なるを以て貴しとし、忤(いさか)ふこと無きを宗とせよ。(以下略)』(日本書紀)の十七条憲法です。豪族たちに国家の役人としての心構えを示し、天皇の命に従い仏教を敬うことを示したものです。十七条憲法が聖徳太子の国家の理念であり、理想とする国家を作り上げようとする意思表示だったのです。

605年には太子は4年前から造営した斑鳩宮に移りました。飛鳥から離れたのは冠位十二階の制定と十七条憲法を策定し、太子の政治面の一応の成果が得られたことと、権力をほしいままにしてきた蘇我馬子とは何かと対立することが起こり、距離を置きたかったことです。この斑鳩の地は難波から飛鳥に向う交通の要衝であり、大陸の文化をいち早く取り入れることができる場所でもあります。積極的に政治に関わろうという太子の姿を見ることができるのではないでしょうか。「天皇記」「国記」などの編纂も斑鳩宮で行なわれたと思います。

 聖徳太子には刀自古郎女、菟道貝蛸皇女、橘大郎女、膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)4人の妃がいました。最も愛し信頼していたのは菩岐々美郎女で、四男四女に恵まれました。
また斑鳩の地は菩岐々美郎女の出身地で、膳氏の本拠地なのです。ある意味、妻のもとに身を寄せたということでしょうか。

         叡福寺
聖徳太子の墓所とされる磯長廟(北古墳)が境内にあることで知られる。大聖勝軍寺は「下之太子」、野中寺は「中之太子」、叡福寺は「上之太子」と呼ばれている。
そして太子の終焉もこの地となりました。法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背に刻まれた銘文によると、621年12月に母親の穴穂部間人王后が崩じ、622年1月22日、聖徳太子と膳部菩岐々美郎女が病気となりました。王后・王子と諸臣らが病気回復を祈りましたが、2月21日に膳部菩岐々美郎女が亡くなり、翌2月22日に太子も亡くなりました。
 この3人の亡骸は大阪府南河内郡太子町の叡福寺境内にある磯長廟(しながびょう、円墳)に合葬されたことになっています。
             磯長廟
「三骨一廟」と呼ばれ、穴穂部間人・膳部菩岐々美郎女・聖徳太子の三人の棺がこの御廟に納められているとされている。
(遠藤真治記)


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