坂上田村麻呂と
       将軍塚


                                                           第34回


                                                      ▲将軍塚からの眺望
▲将軍塚:青蓮院の飛地境内の大日堂境内にあり、直径約20m、高さ約2mの塚。
 京都の東山に将軍塚というところがある。東山ドライブウェイの山頂で、無料駐車場と展望台があり、夜景も楽しめるお勧め観光スポットの一つである。
この将軍塚、案内板によると、
「桓武天皇が平安遷都の折、この地に和気清麿呂の案内で登られ、下界をご覧になって都を定める決心をされたと伝えられ、その後天皇が都の安泰を祈念されて将軍の像(征夷大将軍の坂上田村麻呂)に甲冑を着けて埋めたと伝えられる。

このことは、平安時代初期の鳥羽僧正絵巻の『将軍塚絵巻』に塚の造営の様子が画かれていることから、資料により極めて明瞭に裏付けられている。

鎌倉時代には、その初期に著された『源平盛衰記』の中に『世の中に大きな変動があるときにはこの塚が鳴動する』旨が記されていて、この塚が古来から都に住む人々に大変関心が深かったことが知れる」
とあり、
また別の案内板には「王城鎮護のため、高さ8尺土人形に甲冑を着せ、弓矢を持たせ、京都の方を向けて埋めた」ともある。

この案内板によると、将軍というのは坂上田村麻呂のことらしい。そして都の方向を向いているらしい。
▲京都市山科区の坂上田村麻呂公園内にある田村麻呂の墓。
 そうするともう一つ思い浮かぶところがある。それは山科区勧修寺東栗栖野町の「坂上田村麻呂の墓」である。

しつこいようだが、ここの案内文も載せておこう。
「この墓には、平安前期の武将坂上田村麻呂を葬っている。田村麻呂は、奈良時代の武将坂上苅田麻呂の子。

延暦二十年(801)、当時の日本では大きな問題となっていた蝦夷地を平定するため征夷大将軍に任命され、遠く陸奥に出兵し、これを治めて大変な功績をあげた。

京都にあっても弘仁元年(810)の薬子の乱などに活躍し、官職は右近衛大将にいたった。 弘仁二年五月二十三日死去、五十四才。
この地で葬儀が営まれ、嵯峨天皇の勅によって甲冑・剣や弓矢を具した姿で棺に収められ、平安京にむかって立ったまま葬られた。

田村麻呂はまた仏教の信仰も深く、清水寺を創建したことでも有名である。
なお、この墓地は、明治28年平安遷都千百年祭にさいし整備されたものである」

こちらも甲冑を着て弓矢を持って都に向って埋められている。
それでは坂上田村麻呂とはどういった人物だったのだろうか。

 780年の事、妻の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めて音羽山に入り込んできた若者がいた。そこで清水寺の開基となった延鎮に出会って、殺生の罪を説かれ、鹿を弔って下山した。彼は延鎮の教えに従って観音に帰依し、観音像を祀るために自邸を本堂として寄進した。この若者こそが坂上田村麻呂である。

8世紀末は大和朝廷の東国征討政策がより強行に進められていた。793年のこと、陸奥国の蝦夷に対する戦争で、大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を補佐する副将軍達の中に顕著な功績を上げる田村麻呂の姿があった。彼は後に征夷大将軍となって蝦夷を征討の総指揮を執った。
801年、桓武朝の蝦夷征伐が実施され、44才になった征夷大将軍坂上田村麻呂は平安京を出発した。4万の兵を引き連れ胆沢(いざわ)を越えて東北奥部まで優位に進撃した。

802年に胆沢城を築くと、それまで頑強に抵抗を続けていた蝦夷の首領阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)は、これ以上の死傷者を出す訳にはいかないと五百人余りの部下を引き連れて投降した。


 田村麻呂は阿弖流為と母礼と共に京都に戻ってきた。長い間、敵対関係ではあったが、武勇とその人柄から、今はもう友情すら芽生えてきていた。
京都の多くの貴族達は祝いの文書を奉って、蝦夷を平定したことを祝った。田村麻呂も阿弖流為らに恩賞を与えて故郷に還そうと考えていた。

▲河内国で処刑された阿弖流為と母禮の首塚。枚方市片埜神社横の牧野公園に残る。
 ところが彼らの処遇を決める朝議では、二人の罪を許さず処刑するというものであった。
田村麻呂は二人を連れて帰ったことを後悔した。そして悲しみの内に802年、河内国で手に掛け、屍を手厚く葬ったのである。

田村麻呂については高橋崇氏が著書「坂上田村麻呂」(吉川弘文館)に「怒れば猛獣もたちまち倒れ、笑えば幼児もなつく」と表現している。人柄は優しく、熱き血潮の持ち主だったのだろうか。

清水寺の境内に阿弖流為と母礼の武勇と田村麻呂の人柄を称えて「北天の雄、阿弖流為、母禮之碑」と彫られた顕彰碑が建てられている。
▲平成6年に建てられたアテルイ・モレ顕彰碑。
清水寺の舞台下から西に行ったところにある。

建てたのは「関西アテルイ・モレの会」「アテルイを顕彰する会」はじめ関西在住の同郷会や岩手県人会の方々である。

古代東北の英雄が残忍な悪路王として不当な評価を受けてきたことからの復権を願われてのことだろう。

 さて、将軍塚から南に直線で3kmほど行ったところに西野山古墓(こぼ)というのがある。平安時代にこの辺りは平安京の東の玄関口であったところである。
古墓は永らく平安時代初期の貴族の墓とされてきた。大正8年に地元の住民が竹林に土入れ作業をしていたところ、偶然に木炭で覆われた木棺墓を発見した。発掘調査の結果、金銀平脱双鳳文鏡、金装大刀、鉄鏃、鉄刀子、鉄釘、鉄板、硯、石帯破片、漆箱、桐箱などの副葬品が発見されている。
▲平成19年、京都大学吉川准教授により、田村麻呂の墓がこの辺りにあったとされた。

 平成19年6月に京都大大学院文学研究科の吉川真司准教授の研究成果として西野山古墓が坂上田村麻呂の墓である可能性が高いと発表された。

吉川准教授は清水寺に残る文献「清水寺縁起」を調査し、811年10月に「(田村麻呂の墓に)山城国宇治郡七条咋田里西栗栖村の水田、陸田、山を与える」という記述があることに注目された。

この場所を東大史料編纂所が保管する当時の条里図(地図)と照合したところ、8世紀後半から9世紀前半の築造とみられる西野山古墓の場所と一致することが確認されたという。

桓武天皇が将軍塚に都の安泰を願い将軍の像に甲冑を着けて埋めたとされているが、西野山古墓が平安京の東の入口に位置するのであれば、田村麻呂は死んだ後も平安京を守らされているように思えるのは筆者の気のせいだろうか。

(遠藤真治記)


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