− 紀 貫之 −

                                                                           第35回
 紀 貫之(き の つらゆき)は平安時代前期の歌人で、百人一首の
  人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける
は有名である。
その貫之、実は若い頃の記録がほとんどなく、生年すらハッキリしない。しかし、生まれたのは平安時代が始まって以降70年ほど経った頃とされている。
この時代は清和天皇の摂政となった藤原良房(ふじわらのよしふさ)をはじめ藤原氏北家の台頭と他氏の排斥が進められ、藤原氏と天皇家との結びつきが深まっていく時期だった。

 貫之と同時期に生まれた人物を見れば、ある程度の貫之の育った時代を想像できるかもしれない。その同時期に生まれた人物に宇多天皇や藤原時平がいた。
宇多天皇は、良房の子藤原基経(ふじわらの もとつね)が薨ずると過去4代にわたる摂関政治を中断し、菅原道真と藤原時平を重用して天皇親政(寛平の治 かんぴょうのち)を実現させた。
藤原時平はというと宇多天皇に参議に取り上げられ、意欲的に政治改革を進めていこうとしたが、これに異を唱えて慎重に事を運ぶ26歳年上の菅原道真と協議の上政治を進めていった。

 897年、宇多天皇は敦仁親王(醍醐天皇)が元服したのを機に譲位して自ら造営した仁和寺に出家して法皇となり、若い醍醐天皇を補佐することにしようとした。
ところが、30歳前後になった時平は道真と対立する事が多くなり、朝廷内に於いて自分の権勢を示したくなってきた。
時平は醍醐天皇に取り入り、ついには讒言(ざんげん)により道真を陥れて太宰府へ左遷させてしまった。


【仙洞御所】 仙洞御所の庭園の中に紀貫之邸があった。大文字は弘法大師が始めたという話もあり、そうであるならば貫之もこのような大きな送り火を眺めたのだろうか。
 貫之は下級貴族であったため、この二人とはほとんど面識はなかったかもしれない。しかし彼自身は若い時から和歌の才覚を現し、寛平御時后宮歌合(かんぴょうのおんとききさいのみやのうたあわせ)や是貞親王(宇多天皇兄)家歌合、宇多院歌合に出て詠んだ歌が記録に残っている。朝廷内では漢詩が文化の主流であり、和歌は本流から外れていた。

それゆえ醍醐天皇の勅命により「古今和歌集」の選者に選ばれた貫之は「日本の独自の文化」として和歌を広く根づかせようとしたように思える。というのは古今和歌集の編纂にあたって和歌に対する貫之の持論を仮名序で展開しているからだ。

 仮名序では、「和歌というものは、人の心を種にして、そこから生じる言の葉となったものです。世の中にはいろいろな出来事や仕事の中で感じたことを、心に思うことを、見るもの、聞くものにことよせて表現したものが和歌なのです。花にとまって鳴く鶯や水に住んでいるカエルの鳴き声を聞くと、人間だけでなく生きているものすべてが、歌を詠まないということがありましょうか。力も入れないで天地を動かしたり、目に見えない非情な鬼神をもしみじみと感動を与え、男女の仲も睦まじくさせたかと思うと、勇敢な武士の心をも慰めるというのも和歌であります」と和歌の本質とは何かを解き明かし、神代から人の世になって
【桜町】 京都御苑内にある、桜が多く植えられていた名庭があったという桜町の紀貫之の屋敷跡。源氏物語に描かれた末摘花(すえつむはな)の邸宅、桐壺帝の麗景殿(れいけいでん)女御とその妹花散里(はなちるさと)が暮らしていた中川邸もこの近くに想定されている。
31文字の姿になったこと。
和歌を6分類し、添え、数え、なずらえ、例え、ただごと、祝いの各分類について解説。和歌のあるべき姿として理想の歌人を柿本人麻呂と山部赤人として、次に最近の名声高い歌人の僧正遍照(真実味がない)、在原業平(言葉足らず)、文屋康秀(言葉巧みだが内容が伴ってない)、喜撰法師(歌の首尾が確かではない)、小野小町(情趣があるが、強くない)、大友黒主(通俗的で卑しい)と六歌仙の批評を展開。続いて古今和歌集を醍醐天皇が作ろうとした経緯を述べ、最後に古今集の歌は存在し続けるだろうと述べて結んでいる。
漢詩が主流の時代ではあるが故、貫之は相当な和歌に対する思い入れを込めて、序文に歌論を展開したのだろう。

 930年には土佐守(国司)に任ぜられる。土佐日記は任期が終了して、土佐から自宅のある京に帰るまでのことを日記に現わしたもので、934年12月21日から翌2月16日までの55日間を綴った紀行文でもある。
男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり
で始まることはよく知られている。

男が漢文で書くのが当然だった時代に、なにゆえ、仮名の文章にしてまで自分は女であるという擬装をしなければならなかったのか。ところが2006年には筑波大学名誉教授の小松英雄氏が入念に検証した結果、従来の定説を完全否定したという話もあり、興味が尽きない。

 しかし、貫之が土佐日記において本音で語ろうとしたのは、京で生まれて土佐に連れてきた娘を死なせてしまった悲しみと、愛娘を思う親心を永遠に残したかったのではないだろうか。日記という形態をとりながら、そこに母性としての多くの悲しみを盛り込み、和歌でそれを表現し、悲しみを織り込むがゆえに女性に仮託しなければならなかったのだろう。
これはもう男の日記ではなく、女の心を表現した文学作品に仕立て上げるのが目的だったのに違いない。

都へと思ふをものの悲しきは帰らぬ人のあればなりけり
京へ帰ろうと思うものの、何とも悲しいのは、亡くなってしまい、いっしょに帰ることができない人がいるからだ。

あるものと忘れつつなほ亡き人をいづらと問ふぞ悲しかりける
まだ生きているものと思い、死んでしまったのを忘れて、どこにいるのかと尋ねる。はっと気がつき、なお悲しみがつのる。

住の江に船さし寄せよ忘れ草しるしありやと摘みてゆくべき
住の江に船をさし寄せておくれ。恋しい思いを忘れさせてくれる効き目があるかと、忘れ草を摘んでいきたいので。(住の江は忘れ草の名所)

 そして土佐日記の終盤は淀川を上って、いよいよ京に入っていく。
ひさかたの月におひたる桂川底なる影も変らざりけり
月の中に生えているという桂を名に持つ桂川は底に映っている月影までもが以前とは変わっていないことだよ。

桂川わが心にもかよはねど同じ深さは流るべらなり
桂川は私の心に流れている訳ではないが、私の心の深さと同じく、変わらず流れているようであるよ。

これらの歌は船に乗っている人々がいろいろ詠っているにもかかわらず一貫して変わらぬ心、深い情けを強調している。
そして最終の段に入っていく。桂川の流れが変わっていないのに感動して、5年ぶりに我が家に戻ってきた。
そこに見たものは月に光に照らし出された荒れ果てた我が家だった。一つの家のようにしている隣家に管理を任せて、機会あるごとに贈り物もしていたのに、人の気持ちも荒れたのだな。とても薄情な人に見えるけれど、お礼だけはしておくつもりだと心の広いことをうかがわせる。

生まれしも帰らぬものを我がやどに小松のあるを見るがかなしさ
ここで生まれた子供が帰らないのに、出発する時にはなかった小松が生えているのは悲しい。
見し人の松の千歳(ちとせ)に見ましかば遠くかなしき別れせましや
あの娘もこの松の長寿にあやかることができていたら、遠い彼の地で別れなくてもよかったのに。

はたして紀貫之の思いは後世に読み継がれ、話し継がれて「蜻蛉日記」、「和泉式部日記」、「紫式部日記」、「更級日記」などの作品にも影響を及ぼしたと思われる。
(遠藤真治記)


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