21年3月21日の新聞に『卑弥呼宮殿の一角か 特異な張り出し柵や建物跡出土 奈良・纒向遺跡』という見出しの記事が載っていた。
記事には『邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、3世紀前半の建物跡(柱穴)や凸字形の柵が見つかり、市教育委員会が20日発表した。過去に見つかった建物跡とあわせ、3棟が東西に整然と並ぶことも確認。 当時、方位に合わせて計画的に建てられた例は極めて珍しい。 女王・卑弥呼が活躍した時期とほぼ一致しており、卑弥呼がまつりごとを行った宮殿の一角との見方が浮上、邪馬台国畿内説に弾みをつけそうだ』と続く。 さらに他社の纒向遺跡発掘の記事は『勢いづく畿内説 纏向遺跡「卑弥呼の宮殿」』 『卑弥呼が中国・魏に使者を送ったのは239年。今回見つかった建物群跡は、まさにこの時期にあたる。纒向遺跡が邪馬台国の中心とみる石野博信・兵庫県立考古博物館長は「方位を合わせた構造は、中国の宮殿と共通している。 卑弥呼は、魏の使者を迎えるにあたって外交交渉上、国の威容を整えようとしたのかもしれない」と推測する。 辰巳和弘・同志社大教授(古代学)も「魏志倭人伝は“卑弥呼は鬼道(呪術)につかえ、よく衆を惑わす”と記す。まさに女王が祭祀や政治を行った場所の一部だろう」。 今回の発掘現場を昭和53年に調査した寺沢薫・奈良県立橿原考古学研究所総務企画部長は、西側に張り出した柵と、方位を合わせた建物群の計画性に注目し、「儀式を行う特別な建物だったことは間違いない。中心施設はさらに東に埋まっているのだろう」と今後の調査に期待をよせた』と載せられていた。 |
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そもそも邪馬台国とは『魏志倭人伝』などに出てくる国名で、「邪馬台」を「やまたい」と読んだのは江戸時代の国学者、本居宣長である。 新井白石は「やまと」と読んでいた。それは邪馬台国の場所を大和国や山門郡と説いていることからもわかる。 1967年に発表された宮崎康平氏の著書『まぼろしの邪馬台国』によって邪馬台国論争に火が点き、私のような一般人の間にも俄か学者が輩出され、邪馬台国は何処だと自説を繰り広げることもブームになった。 邪馬台国論争については、古くは『日本書紀』の編者により邪馬台国と大和朝廷、卑弥呼と神功皇后は同一であるとされ、南北朝時代の北畠親房らも同様の主張をしてきた。「魏志倭人伝」に書かれている方角表記や距離表記では邪馬台国の位置は日本列島のはるか南方の海中になるため、学者の間では様々な解釈がなされ、多くの説が提唱されてきた。 現在、邪馬台国の所在地については日本国内どころか世界各地までにもその地を求める論者がいるが、学界の主流は「畿内説」と「九州説」の二説に大きく分かれている。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』) 実に1300年にも及ぶ何とも永い歴史問題なのである。前述の新聞記事は邪馬台国の畿内説を裏付けようとするものである。
確かに考古学見地から(特に年輪年代法によって)、大和地方での初期国家の成立は2世紀頃で、それから発展してきたと考えれば邪馬台国と同時期であるといえる。 この頃から、前方後円墳が大和を中心に作られはじめ、やがて時代が下るにつれて全国に広がっていくことになったこと。 畿内の古墳から出土する鏡に記されている年代は中国の年号が記されており、その時期は235〜244年の間の10年に集中し、『魏志倭人伝』に記されている時期と一致していること。 纒向遺跡から出土する土器は、実に南関東から南九州地方で使用されていたものであることから、ここが当時の国の物流の中心であり、それは取りも直さず国の統治の中心であった。 桜井市の巻向地区に突如として出現した巨大前方後円墳の築造時期も3世紀半ばのものもあり、日本各地から持ち込まれたであろう剣・鏡・玉の副葬品、竪穴式の石室、北九州地方の器台や壷、出雲地方の葺石など当時の技術を総合して成立したものである。 したがって纒向遺跡の地が邪馬台国であると考えるのも不自然な話ではない。 |
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さらに、この巻向地区には箸墓古墳、纒向石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳・ホケノ山古墳などの前方後円墳や、実質的に初代天皇とも考えられている崇神天皇陵(行燈山古墳)や景行天皇陵(渋谷向山古墳)もある。まさに大和朝廷発祥の地と言ってもいいような地区である。 箸墓古墳については「日本書紀」の崇神紀十年の条には、次のように記されている。
『倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)命は大物主命の妻となったが、夫は夜に通ってくるだけで、その顔を見ることができなかった。そのことに日々不満を募らせた倭迹迹日百襲姫神が、ある夜、「できれば、しばらくお留まりください。朝の光のなかで、麗しいお姿を、仰ぎ見たいと思います」と強引に迫った。 そこで大物主命は、「朝になったら櫛箱に入っているが、私の姿をみて、驚かないでほしい」と告げた。 翌朝、櫛箱を開けた倭迹迹日百襲姫神が中にいた小さな蛇を見て驚き叫ぶと、夫の神はたちまち若者の姿となり、恥をかかされたことを激怒して、大空に飛び上がって御諸山(三輪山)へと翔けのぼって行った。 それを見て自分の行為を後悔した倭迹迹日百襲姫神は、箸で陰部を突き刺して死んでしまう。箸は丹塗矢と同様に、来訪する神が宿る依り代と考えられ、箸で陰部をついて亡くなってしまった話は、妻となる巫女と神の交わりを象徴するという。 のちに倭迹迹日百襲姫神が葬られた墓は、昼は人間が、夜は神が作ったといい、それを当時の人々は箸墓と呼んだという。 |
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さて、前述の新聞記事につられて3月22日の説明会に出かけてきた。
検出された遺構は左の写真のような柱跡で黄色部分が建物、白色部分が柵を表している。これが新聞記事でいう「卑弥呼がまつりごとを行った宮殿の一角」と「特異な張り出し柵」である。建物跡は一辺が5m×6mとして18畳程度の広さである。 卑弥呼がまつりごとを行ったとするにはあまりにも規模が小さすぎる。 いや、今の段階で邪馬台国とか卑弥呼を想定すべきではない。何の物的証拠にもないからである。 新聞記事はロマンであり、願望でもあるのだろう。当日の説明会の資料にも『古墳時代前期初頭においてはこのように複雑かつ整然とした規格に基づいて構築された建物群の存在は全国的にも珍しいもので、これらの遺構群が纒向遺跡の中でも何らかの特別な施設の一部となる可能性がでてきたことは特筆すべきことと言えるでしょう』と結んで、一切邪馬台国とか卑弥呼の文字が見出されないのは当然のことである。 |
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(遠藤真治記) | |||||
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