毎年7月25日は東山山麓の住蓮山安楽寺で「かぼちゃ供養」が行われます。このとき供養に使用されるのは鹿ヶ谷カボチャです。このカボチャは京野菜の一つとなっているもので、近畿農政局の説明によりますと「赤系晩生種で高さ20cm、重さ2〜3kg程度となります。深緑色の果実の表面には、大小の数多くの瘤があり、熟すと白い粉がふき、地色は淡い柿色に変色します。味は淡泊で、その形のおもしろさから装飾用にも用いられます」ということです。
実際、見た目は瓢箪型をしており、表面のブツブツが多いほどよいとされ、肉質は緻密で煮くずれせず、味付けがしやすく美味しいのですが、ホクホクッとした感じには炊きあがりません。 寺伝によりますと、文化年間(1804〜17)に山城国粟田村(現、粟田口あたり)に住んでいた玉屋藤四郎が、津軽より持ち帰ったカボチャの種子を鹿ヶ谷村の庄兵衛と又兵衛の二人に分け与えて栽培したのが始まりということです。それが連作しているうちに瓢箪型になったといわれていますが、これについては突然変異説もあり、どちらが真実かは不明です。 鹿ヶ谷カボチャが産まれるよりも以前の事ですが、安楽寺の真空益随(しんくうえきずい)上人が病魔で悩んでいる人々を見かねて、何とかならないだろうかと本堂で修行をされていました。ある日の事、本尊の阿弥陀如来から「夏の土用のころにカボチャを振舞えば中風にならない」というお告げがあり、カボチャを仏前に供えて供養したのが「かぼちゃ供養」の始まりと言われています。地元で鹿ヶ谷カボチャが獲れるようになると「かぼちゃ供養」には鹿ヶ谷カボチャがいつしか使われるようになり現在に至ったものと思われます。 京都の夏の風物詩の一つとなっている安楽寺の「かぼちゃ供養」ではありますが、安楽寺に関しては「京都奈良歴史散歩」の第1回目の「哲学の道」で少し触れていますが、今一度7月の「かぼちゃ供養」の話題に併せて取り上げてみたいと思います。 |
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鎌倉時代の初め、仏教は貴族の間において信じられていたのではありますが、法然(1133〜1212)は「いろいろな修行を捨てて、ただひたすらに南無阿弥陀仏と念仏を称(とな)えることで、本願の国すなわち浄土に救われる」と専修念仏を庶民に説き念仏宗を開きました。新興階級の武士を初め仏教に無縁だった農民や女性に至るまで広く受け入れられ、大勢の人に支持されました。 この新しい「うねり」に対して、比叡山の僧たちは法然がこの山で修行したこともあって、近親憎悪を伴って法然に対して強い敵対心をいだきました。また南都興福寺は「興福寺奏状」という形で専修念仏の停止(ちょうじ)を時の権力者である後鳥羽上皇に訴えたのでした。 そのような状況の中でも、法然の弟子の住蓮房と安楽房は別時念仏会(べつじねんぶつえ:日時を定めて、身体やこころを清浄にして念仏を称え続け、心をきよめる行事)を開催して、庶民の人気は高まる一方でした。両上人の六時礼讃声明(ろくじらいさんしょうみょう:1日を6つに区切り昼夜4時間ごとに勤められる誦経)に魅了され、出家して仏門に入る者さえ出てきました。 後鳥羽上皇に仕えていた女官の中に19歳の松虫姫と17歳の鈴虫姫の姉妹がいました。両姫は今出川左大臣の娘で、容姿端麗、教養も豊富であったことから、ことさら上皇の寵愛を受けていました。しかし両姫は、虚飾に充ちた御所での生活に馴染むことができません。いつしか心の安らぎを求めて出家を望むようになっていたのです。 1206(建永元)年12月のこと、上皇は熊野へ行幸しました。両姫は清水寺に参詣し、法然の説法を聞いたとき、二人の心は晴れ目覚める思いでした。今の虚飾に充ちた生活から逃れるには、阿弥陀仏の絶対他力に求めるほかないと悟り、御所に戻ってからも、法然の説法が思い出されてなりません。両姫は申し合わせて密かに夜更けの御所を抜け出し「鹿ヶ谷の草庵」を目指しました。そして住蓮房と安楽房に思いを打ち明け剃髪出家受戒の願いを伝えました。思いつめたような、そして世を儚んだような二人の強い訴えに両上人も心を動かされ、その後に起こるであろう悲劇を予感しつつ、ついに住蓮房は松虫姫を、安楽房は鈴虫姫の髪に刃を当てたのでした。 年が改まって正月16日、京に戻ってきた後鳥羽上皇は松虫姫と鈴虫姫が出家した事を知って嘆きました。この事件は市井の噂では醜聞も付け加えられ住蓮房と安楽房たちの仕業であると囁かれました。上皇も憤懣やるかたなし、このうえは法然一派に鉄槌を下さねば気が済まない。 |
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この事件を口実にして、南都北嶺の旧仏教勢力も上皇に取り入って専修念仏教団を潰すことを企てました。そして翌1207(建永2)年2月、念仏停止の院宣が下されました。 この時の様子を「歎異抄」に見ると『後鳥羽上皇が政治を執っておられたとき、法然聖人は他力本願念仏宗を興し広められました。そのとき、奈良の興福寺の僧たちが、聖人は仏の教えにそむくものとして、朝廷に訴えました。 そのうえ聖人の弟子のなかに無法な行いをする者がいると、無実のうわさをたてられました。 罪人として処罰された人々の数は次のとおりです。
法然聖人は土佐の国の番多というところへ流罪になり、罪人としての名は藤井元彦、男性、年齢七十六歳。親鸞は、越後の国に流罪となり、罪人としての名は藤井善信といいます。年齢は三十五歳。(中略) 死罪に処せられた人びとは、善綽房西意、性願房、住蓮房、安楽房でした。 これらの刑は二位法印尊長の裁定です。(以下略)』というありさまでした。 然して、住蓮房は近江国馬渕(現在の滋賀県近江八幡市千僧供町)において処刑。 極楽に 生まれむことの うれしさに 身をば佛に まかすなりけり (住蓮) 安楽房は京都六条河原において処刑されました。 今はただ 云う言の葉もなかりけり 南無阿弥陀仏の み名のほかには (安楽) 松虫姫と鈴虫姫は迫害を避け紀伊の粉河寺に身を隠していましたが、自分たちのために捕えられた住蓮房と安楽房のことが気になって仕方がありません。乞食姿に身をやつして京に戻って来ると、二人の僧はすでに処刑されたあとでした。両姫は上皇の許しを得ず出家したことが原因と考え、住蓮房と安楽房にお詫びしたいと鹿ヶ谷で自害しましたと伝わっています。
しかし、建永の法難を取り上げている歴史書や「歎異抄」「教行信証」などの仏教書には松虫姫、鈴虫姫の名は登場しません。 『一般的に広く知られ語られているこの松虫・鈴虫物語は、江戸末期発行の「安楽寺略縁起」や明治32年刊行されたという「住蓮山安楽寺鹿ヶ谷因縁談」等にその起源があるように思われます。 ただ、建永の法難といわれる歴史的事件に関し、後鳥羽上皇に仕える官女が実際に出家に及んだ官女もあったと記述する文献も存在しています。松虫姫・鈴虫姫のモデルとなった女性が実際に存在し、さらに松虫・鈴虫という美しい響きの名として物語に命を吹き込んだものではないか』(遠野市歴史家菊池氏)という見解が事実ではないでしょうか。 法然は「建永の法難」から4年後の1211年11月に許されて京へ戻ってきました。そして住蓮房と安楽房の菩提を弔うために一宇の御堂を建立し「住蓮山安楽寺」と名付けました。現在の安楽寺は1680(延宝8)年に現在地に再建されたもので、ここに住蓮房と安楽房の墓や松虫姫と鈴虫姫の供養等も立てられています。 |
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安楽寺:通常は非公開。 4月〜6月の桜、ツツジ、さつきの花の頃、 11月の紅葉の頃に特別公開されます。 (要:問い合わせ075-771-5360) また冒頭記述のように7月25日は「かぼちゃ供養」 があり鹿ヶ谷カボチャが振るまわれます。 安楽寺へは市バス「真如堂前」下車 東山方面徒歩10分 |
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参考:2009年安楽寺パンフレット |
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(遠藤真治記) | |||||
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