−南禅寺−
   瑞龍山太平興国南禅禅寺
第38回                                          
 日本史の授業で習って記憶にある方もいらっしゃると思いますが、禅宗寺院には五山の制度というものがあって、鎌倉五山、京都五山というものがあります。五山の制度は中国南宋において禅宗の格式高い五つの寺を定めて統制していた制度を、鎌倉幕府が取り入れたものです。
足利義満の定めた京都五山
別格上位― 南禅寺
第一位 ― 相国寺
第二位 ― 天龍寺
第三位 ― 建仁寺
第四位 ― 東福寺
第五位 ― 万寿寺
*義満の死後、相国寺と天龍寺が
入れ替わります。
鎌倉幕府滅亡後は室町幕府により鎌倉と京都にそれぞれ五山が定められました。
五山はその時々において順位の入れ替えなどはありました。室町幕府第三代将軍足利義満は自分が創設した相国寺を京都五山の第1位としたく、南禅寺をさらにその上に別格扱いの最も高い格式をもつ寺とし、天龍寺以降をそのままにしたのです。

大徳寺は足利尊氏追討の命を出した後醍醐天皇に庇護されてきたこと、妙心寺は南朝方の大内氏に近いという理由で格下げされて五山から外されました。
このように、京都五山は鎌倉五山と違い足利氏の政治的政略的な色彩が濃い格付けとなっていました。したがって足利義満のころの京都五山の順位は上表のようになりました。

 それでは五山の上の格式をもつ南禅寺とはどういう寺だったのでしょう。現在の南禅寺の境内は、1264(文永元)年、後嵯峨天皇が造営した離宮の禅林寺殿(ぜんりんじでん)があったところです。後嵯峨天皇の第七皇子である亀山上皇の離宮となったときに持仏堂として「南禅院」が創建されました。

亀山上皇は蒙古来襲などの国難を乗り越え、また後深草天皇の血統(持明院統)とは別に、自らの血統(大覚寺統)の繁栄に力を注ぎ、皇統を分裂させました。そして交互に皇位継承を行う両統迭立を実現しましたが、やがてそれが南北朝時代へと歩み出す端緒となったのです。

1289(正応2)年、亀山上皇は皇位継承について鎌倉幕府との対立、持明院統との対立などに嫌気がさしたのか、突然、南禅院で落飾(出家)して法皇となることにしました。

1291年、亀山法王は禅林寺殿を寺に改め、当時八十歳になる東福寺の無関普門禅師(大明国師)を禅林禅寺の開山に迎えました。ただこの時点では禅寺としての伽藍配置はなく、大明国師もその年の12月に亡くなられたため、第二世の規庵祖圓禅師(南院国師)が15年の歳月をかけて禅寺としての伽藍を完成させたのでした。

そして禅宗の開祖とされる達磨大師より六代目弟子の大鑑慧能禅師によって創始さられた南宋禅を伝える寺という意味から「南禅寺」と寺名が改められました。

 亀山法王が著わした「禅林禅寺起願事」には「自分は天皇の位に就いたが、なお悟りを開こうとする気持ちを持っている。そのため南禅寺を建てた。我が子孫は私の思うところを知り、この寺を護りなさい。また南禅寺の住持は無関普門の弟子だけでなく、最も優れた者を就けよ」ということが書かれています。
この願文のためか、亀山法王の孫の後醍醐天皇は夢窓疎石に南禅寺の住持となるよう要請しています。その後醍醐天皇は足利尊氏や新田義貞らの働きで鎌倉幕府を倒した後、建武の新政を意欲的に進めました。

 しかし恩賞と性急な政策に各地の武士たちの間に不満を抱かせました。足利尊氏はこれらの武士達をまとめて後醍醐天皇に反旗を翻し、天皇を吉野(南朝)に追いやり、北朝の光厳天皇の弟の光明天皇を擁立して武家政権を作り上げました。これ以降57年間におよぶ南北朝時代が始まったのです。

 南禅寺の建物は1300年前後に建てられたのですが、応仁の乱を含めて三度の火災でことごとく焼失し、再建もままなりませんでした。南禅寺の本格的な復興は経済が安定した江戸時代で、徳川家康のブレーンで「黒衣の宰相」と呼ばれ、南禅寺住持となった以心崇伝が現れてからです。

 写真の三門は1628(寛永5)年藤堂高虎が大阪の陣に戦死した兵の菩提を弔うために寄進したものです。禅宗様式独特の圧倒的な量感と力強さを感じます。
歌舞伎の『楼門五三桐』(ろうもんごさんのきり)で石川五右衛門が「絶景かな絶景かな。春の眺めは値千金とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目からは、値万両、万々両」と煙管を持ちながら名台詞を吐いたのがこの三門です。

しかし、石川五右衛門が釜ゆでになったのが1594年10月8日(文禄3年8月24日)ですから、死後34年経ってから建てられたもので、実際には五右衛門がこの楼門に立ったことはありません。上層内部には聖観音像を中心として左右に十六羅漢像および徳川家康・藤堂高虎・以心崇伝の像を安置しています。

 この三門を潜って行くと正面の建物が法堂です。
この法堂は明治四十二年に再建されたものです。正面の須弥檀の上には本尊釈迦如来と左右に脇侍の文殊菩薩と普賢菩薩像が安置されています。
天井には近世の画家今尾景年筆の蟠龍図が描かれ、床は瓦敷でひんやりした感じがします。


 この法堂の右手奥には国宝の方丈があります。
下の写真は大方丈で、その裏側には小方丈があります。
1611(慶長16)年、京都御所にあった女院御所の御対面御殿を下賜されたものと伝えられています。

中央の仏間には重文の聖観音立像が安置され、柳の間・麝香の間・御昼の間・花鳥の間・鶴の間・鳴滝の各間には狩野派の絵師による障壁画があり、襖や壁貼付などが重要文化財に指定されています。

小方丈については伏見城の遺構であるとか寛永頃の増築であるとかいわれていますが、明確な証拠はありません。内部は三つの間があり特に三の間の「水呑みの虎図」は狩野探幽の筆と伝えられています。
大方丈前の枯山水庭園は小堀遠州の作と伝えられていますが、形式を考えれば時期的にはもっと後世の作という説もあります。
龍安寺の石庭とともに典型的な禅院式枯山水で、両庭とも「虎の子渡しの庭」と呼ばれています。
大方丈 方丈庭園「虎の子渡しの庭」
 もう一つ、南禅寺の境内で忘れてはならないのが水路閣です。
琵琶湖疏水事業は、東京遷都のため衰微していく京都の復権をかけて、第三代京都府知事の北垣国道が、工部大学(東京大学)を卒業したばかりの田辺朔郎を工事の総責任者に任命して明治18年に着工しました。

そのために増税したこともあり建設当時は疏水事業に批判も集まりました。特に南禅寺境内に疏水を通すにあたってはミスマッチな感じを与える欧風レンガ造りだったことで町衆の反応は如何ばかりだったでしょう。
それでも朔郎は反対を押し切って画期的なイメージの水路閣を造り上げました。
今日ではそれが歴史的な景観としてだけではなく、自然と一体感を持って現代人に語りかけてくるではありませんか。
 今回、京都五山に関連して南禅寺を取り上げましたが、南禅寺も、天龍寺も、相国寺も夢窓疎石が関わっている寺院で五山の上位を占めています。
足利氏にとっては夢窓疎石に帰依していますから当然だったのでしょう。しかしその中でも天龍寺は吉野で無念の死を遂げた後醍醐天皇の菩提弔うために建てた寺院です。夢窓疎石が南禅寺の住持となったのは後醍醐天皇の要請によるものです。
足利尊氏は後醍醐天皇に反発して反旗をひるがえし、天皇は足利尊氏追討の命を出しているという関係です。
南禅寺は亀山法王の威光が働いていると考えられますが、天龍寺については、足利氏が後醍醐天皇の祟りを恐れていたからではないかと考えるのは筆者だけでしょうか?

(遠藤真治記)


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