新年おめでとうございます。 新春を迎えると、頭の中に思い浮かぶのは宮城道雄の「春の海」の琴の音と、特に正月とは直接関係がないのですが、何故か枕草子の一節「春はあけぼの」です。 「春はあけぼの、やうやう白くなりゆく山際、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」。筆者の子供の頃は、知恩院の除夜の鐘を聞き、八坂神社にお参りをして「おけら火」をもらって帰ります。東の空が白んでくる頃、その火で竈の薪に火を点けて雑煮を作りました。 それ故、新年がいよいよ始まるのだと感慨深い思いを抱いたことと、枕草子の「春はあけぼの」とが重なり合うのです。 |
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枕草子はご存じの通り、平安時代の女流作家で歌人でもある清少納言の作品です。彼女の繊細な感受性は作品の随所に現れています。 「春は、あけぼのの頃がよい。だんだんに白くなっていく山際が、少し明るくなり、紫がかった雲が細くたなびいているのがよい。 夏は、夜がよい。満月の時期はなおさらだ。闇夜もなおよい。蛍が多く飛びかっているのがよい。ただひとつふたつなどと、かすかに光ながら蛍が飛んでいくのも面白い。雨など降るのも趣がある。 秋は、夕暮れの時刻がよい。夕日が差して、山の端がとても近く見えているところに、からすが寝どころへ帰ろうとして、三羽四羽、二羽三羽などと、飛び急ぐ様子さえしみじみとものを感じさせる。ましてや雁などが連なって飛んでいるのが小さく見えている様は、とても趣深い。日が沈みきって、風の音、虫の音など、聞こえてくるさまは、またいいようがない。 冬は、朝早い頃がよい。雪の降ったのはいうまでもない。霜のとても白いのも、またそうでなくても、とても寒いのに、火を急いでつけて、炭をもって通っていくのも、とても似つかわしい。昼になって、寒いのがゆるくなってくる頃には、火桶の火も、白く灰が多くなってしまい、よい感じがしない」 |
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しかし彼女の感じたところはこれだけではありません。(以下の段の番号は角川文庫による) ●第25段の「にくきもの」では、 こっそり忍んで来る恋人を見つけて吠える犬。皆が寝静まるまで隠していた男が寝てしまってイビキをかいていること。 面白いところに目を付けていますね。 ●第60段の「暁に帰らむ人は」では、 明け方に女の所から帰ろうとする男は、甘い恋の話をしながら、名残惜しさを振り切るようにそっと出て行く。それを女が見送り、別れを名残惜しむのがいい。ところが、他の女を思い出したように飛び起きて袴をはき、腰紐をごそごそ締め、昨晩枕元に置いたはずの扇を「どこだどこだ」と一面に叩きまわって、やっと探し出して、扇をばたばたと使って、懐紙を懐につっこんで、「じゃあ帰るよ」とだけ言うような男。こういうのは最低の男。 確かにその通りです。昭和時代の歌謡曲にもこんなイメージの歌があったのでは。 ●第123段の「はしたなきもの」では、 他の人を呼んでいるのに、自分のことだと思って出しゃばった時。それが何か物をプレゼントしてくれるっていう時だったらなおさら間が悪い。人が可哀想な話をして泣き出した時、私も、可哀想な話だなと思うのだけど、いくら泣き顔を作っても涙が一滴も流れないのは決まりが悪い。 現在でも同じです。 ●第146段の「うつくしき(かわいらしい)もの」では、 瓜にかいた幼子の顔。人がねずみの鳴き声を真似してみせると、雀の子が踊るようにしてやって来る。幼子が、急いで這ってくる途中で、とても小さい塵を目ざとく見つけて、指につまんで、大人に見せた姿は実にかわいらしい。人形遊びの道具。何もかも小さいものは皆かわいらしい。 筆者にも孫がいまして、この光景が目に浮かぶようです。 ●第147段の「人ばへするもの」では、 親が甘え癖をつけてしまった子。あちこちに住む女房の子の4、5歳のわんぱくで、物を散らかして、壊す。親子で遊びに来て、いい気になって、「あれを見せろ。おい、お母さん」などと言って、揺するけれども、大人たちが、話をするということで、すぐにも耳を貸さないので、部屋の物を勝手に出して、見て騒ぐのは、とても気に入らない。(親もそれを取り上げようともせず、「そんなことしちゃだめよ」ぐらいしか言わずほったらかしにしているのは実に憎たらしい。) 現在でも新幹線の中で騒いで走り回っている子供を、怒ることもしない親がいます。1000年前に書かれたことが現在でも何も変わっていないということなのでしょう。 |
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清少納言がこのようにユーモアがあり、人の姿を浮き彫りにできるのは何故でしょう。 そのために、先ずの彼女の生い立ちを見てみます。
この年に生まれたとして以下は年齢で話を進めていきます。 父は「契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波越さじとは」を詠った三十六歌仙の一人である清原元輔。 曽祖父(祖父とする説もある)に 「夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを 雲のいづくに月宿るらむ」を詠った「古今和歌集」の代表歌人である清原深養父(ふかやぶ)を持つ和歌の名家で育ちました。 ですから幼いときから季節の移り変わりや些細な出来事にも気がつく感受性が自ずと芽生えていったことでしょう。 15歳のとき橘則光と結婚し、16歳で第1子の則長を産んでいますが、この時代というと一夫多妻制の通い婚であったために、男が通ってこなくなれば離婚ということになります。結婚生活といっても10年程で則光が来なくなり、どうやら清少納言は離婚されたということになったようです。 993年、清少納言27歳のとき、時の権力者である関白・藤原道隆から一条天皇の中宮(のちに皇后)で道隆の長女の藤原定子(ていし、当時17歳)の女房として出仕することを依頼されました。それは取りも直さず清少納言の漢詩や和歌の教養の高さが知れわたっていたからでしょう。 宮中に出仕すると清少納言はますます才覚を発揮し、自然と人物の特徴をうまく捉え、表現するその才能に定子も清少納言をたより切っていました。 宮中の生活にも慣れてきた29歳のとき突然転機が訪れます。 それは藤原道隆が逝去したことに始まります。かれの弟である藤原道長は権力に執着していました。 そのため道長は996年、策略により定子の兄の伊周(これちか)を大宰権帥(だざいのごんのそち、大宰府の副司令官)、弟の隆家を出雲権守(ごんのかみ、国司の長官)に左遷させてしまい、自らは左大臣として政権を掌握します。 この事件のため気落ちした定子は5月1日、宮中を退出し二条宮に戻りました。30歳の清少納言も政争に巻き込まれ一時宮中を離れます。 しかし、同年夏に二条宮が全焼し、10月には母・貴子も没するなどの不幸が続きました。 懐妊中だった定子は12月16日、第一子・脩子内親王を出産し、翌年一条天皇は誕生した脩子内親王に逢いたくて周囲の反対を退け、6月に再び定子を宮中に迎え入れました。 ユーモラスで聡明な清少納言が側にいるだけで心が和んだ定子は、早く宮中に戻って欲しかったのでしょう。 清少納言が「上等な紙や敷物を見ると気持がウキウキする」と言っていたのを思い出して、貴重な紙と敷物を贈りました。 清少納言は以前にも定子から紙を贈られており、その紙に宮中生活の様子を日記のように書いていました。それが枕草子の書き始めとなったのです。 |
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道長の権力が増大する999年、定子24歳の11月7日。
定子に待望の男の子(敦康親王)が生まれて、皇后の地位は安泰するかのように思われたのです。 ところが道長はそれでも諦めなかったのです。道長は11月1日に一条天皇より8歳年下で12歳の彰子を入内させ、なんと敦康親王誕生と同日に女御宣下を受けています。このあたり道長の策謀を感じずにはいられません。 そして翌1000年2月に彰子を一条天皇の中宮となし史上初の「一帝二后」ということも成し遂げたのです。 ところが同年12月、定子は三人目の子の出産が難産で24歳の若さでこの世を去ったのでした。34歳になった清少納言も年下ながら主人である定子を失ったことで悲嘆に暮れ再び宮中を去りました。 その後の彼女の消息は不明ですが、「異本清少納言集」に藤原棟世と再婚し、彼の任国の摂津に行ったように記録があるのみです。 |
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さて、平安時代の女流作家として清少納言のほかに源氏物語を書いた紫式部がいます。2006年12月METROに書いたのですが、「紫式部日記」には 『清少納言は実に得意顔をして偉そうにしていた人です。あれほど利口ぶって漢字を書き散らしていますが、その知識の程度もよく見ればまだひどく足らない点が沢山あります。 このように人より格別に勝れていると思い、またそう振る舞いたがる人は、必ず後には見劣りし、将来は悪くなるばかりです。いつも風流気取りが身についてしまった人は、本当に寂しくつまらないときでも、しみじみと感動しているように振る舞い、興あることも見逃さないようにしているうちに、自然とよくない不誠実な態度になってしまうでしょう。そういう不誠実になってしまった人の最後は、どうしてよいことがありましょう』と痛烈な批判をしています。 この二人は相当仲が悪くいがみ合っていたのでしょうか。 清少納言は定子、紫式部は彰子に仕えていました。 定子が亡くなったのは1000年12月16日のこと、清少納言が宮中を去ったのはその直後と考えられます。 一方、紫式部が出仕したのは1005年12月29日です。 つまり宮中にいる時期には5年の差があり、おそらく二人は顔すら会わせていないでしょう。 ただ、枕草子には第九十九段で紫式部の従兄弟・藤原信経は字が下手で、彼の書いた漢字や仮名は読めたものではないことや第百十五段で紫式部の夫・藤原宣孝が熊野の御獄詣でをする際に息子と共にわざと派手な衣装で参詣して顰蹙を買った話が書かれており、これを読んだ紫式部が反感を抱いていたのではないかと考えられるのではないでしょうか。 |
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清少納言は晩年、亡き父元輔の山荘があった東山月の輪の辺りに住んでいたのではないかとされていますが、この地こそが定子の墓のすぐ近くなのです。 ここで墓の守りをしながら枕草子を完成させたのでしょうか。 枕草子には定子の不幸や政争のことは一切書かれていません。 清貧で愚痴らない。 ましてや紫式部がいうような高慢ちきな女性であったとは思えません。 だからこそ私には清少納言が偉大に見えてくるのです。 親交のあった赤染衛門はこの地を訪れた時のことを 「元輔が昔住みける家のかたわらに、清少納言住みし頃、雪のいみじゅう降りて、隔ての垣もなくたおれてみわたせしに『あてもなく 雪降る里の 荒れたるを いずれ昔の 垣根とかみる』」と記しています。 鎌倉時代には清少納言の悲惨な晩年を描いた話がいくつもつくられました。 徳島県鳴門市里浦町坂田に「あま塚」という供養塔があります。この地の伝承には、清少納言は尼となってこの地へたどり着いたのですが、辱めをうけんとし自らの陰部をえぐり投げつけ、入水して死んだということです。とてもこの話が真実とは思いませんが、清少納言の最期が不幸だったのか、幸せだったのか気がかりなところです。 それを知る術はないですが、彼女が幸せに人生を全うしたと願って止まないところです。 |
(遠藤真治記) | |||||
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