5月に入り降り注ぐ太陽の光の中、青葉が清々しく萌える季節になりました。厳しい寒さから解放されて一年で一番過ごしやすい時期だと思います。 奈良市では平城遷都1300年を記念して数多くの行事が繰り広げられ、平城京の建設と国づくりにかけた人々の情熱と知恵に触れ合うこともできるでしょう。
また東大寺ではこの5月2日、大仏造顕という国を挙げての難事業をなし遂げた聖武天皇の御忌法要が午前8時から同寺の天皇殿で行われます。日ごろは公開されていない天皇殿を参拝することもできます。 聖武天皇は724(神亀元)年24歳の時、伯母の元正天皇より皇位を譲られて第四十五代天皇として即位しました。 726年には「慢性病・重病の患者に対して、全国それぞれに医師を派遣し、薬を与えて治療にあたるように、また病の軽重により、米穀等食料を下賜するように」と詔を出し、どこかの首相のように友愛精神を持って庶民に優しい政治の船出をしたのです。 727年閏9月に聖武天皇は妻の光明子との間に基(もとい)親王が生まれましたが、一年足らずで亡くなってしまいました。 そして菩提を弔うために金鍾山寺(きんしょうさんじ)を建立していますが、この寺が東大寺の前身となる寺院です。 当時政権を担当していたのは皇親を代表する長屋王(注1)だったのですが、この早すぎる死は彼の呪詛によるものだという噂も立ったことから、わが子を強く哀惜する聖武天皇にとっては長屋王への不信感が高まったのです。 |
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長屋王は藤原不比等の娘を妻としていたこともあり、不比等の生存中は親藤原氏的側面をもっていましたが、不比等の死後はその子である藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合(うまかい)、麻呂)と反目するようになり、朝廷内に対立の構図ができあがってきました。 そして729年、「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す」との密告があり、聖武天皇の不信感もあって長屋王は藤原宇合の軍勢に邸宅を取り囲まれて、ついに服毒自殺を図ったのです(長屋王の変)。 これは藤原四兄弟が不比等の時代のような藤原氏の繁栄を取り戻すため、長屋王を排斥し、兄弟である光明子を聖武天皇の皇后にするのが目的であったと言われています。はたして「長屋王の変」の直後に光明子は四兄弟の思い通り皇后となり(王族以外から立后された初例)、政権の中心は藤原氏のもとに移っていくかのように思われ ました。 730(天平2)年には天皇は医術ほか学問や技能の後継者の養成を勧め、光明皇后は貧しい病人のために薬を提供する施薬院・悲田院を造っています。 つまり天皇・皇后とも福祉には力を注いでいたのです。心根が優しかったのでしょう。 しかし、735年頃から大宰府に流行しはじめた天然痘は全国に拡がり737年には都にも猛威を振るうようになりました。そのため前述の藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが天然痘に罹り亡くなってしまいました。 朝廷では橘諸兄を大納言に、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じ、遣唐使で唐から帰国した吉備真備や僧玄ムを重用するなどして辛うじて政府の体裁を整えましたが、これにより藤原氏の勢力は弱体化していったのです。 740(天平12)年2月、「続日本紀」によれば「河内国大県郡の智識寺に坐る盧舎那仏を礼(おが)み奉りて、則ち朕も造り奉らんと思えども」とあり、このとき聖武天皇は大仏造顕を思い立ったのです。 また同年、藤原宇合の長男で大宰少弐に左遷された藤原広嗣が政治の乱れを指摘し、真備と玄ムを退けるように上奏文を出して、大宰府で反乱を起こしました。 しかし、朝廷は大野東人を大将軍として、東海・東山・山陰・山陽・南海道から一万七千の兵を集めてこれを鎮圧しました。 反乱は9月3日に始まり10月23日に広嗣が処刑され終息したのですが、このとき聖武天皇は何故か突然に伊勢に行幸するという不可解な行動をとっています。 この不可解な行動は広嗣の乱がトリガーになっていると考えられますが、広嗣の乱の終息の情報が平城京に伝わっていない10月29日の出発だけに、見方によってはまるで敵前逃亡のようでもあります。 聖武天皇は11月12日、三重県の壱志郡(伊勢自動車道一志嬉野インター辺り)で広嗣処刑の報を聞いたと言われています。 伊勢神宮に行くか、平城京に戻るかと思いきや亀山、四日市、桑名、養老、関ヶ原、大津へと進んでいき、最後はなんと恭仁京(京都府木津川市加茂町)遷都を決めて、12月15日に恭仁京に入ってしまいます。
すなわち乱の最中に参謀本部総司令官たる天皇が参謀本部を離れるという、全く意味が分からない事態となります。 遷都後の翌年には大極殿が平城京から移築され、条坊地割りも行われました。しかし、都としては完成しない724年には早くも紫香楽宮(滋賀県甲賀市)の造営が始まり、恭仁京の建設は中止されてしまいます。 恭仁京がまだ機能していた741年には「国分寺・国分尼寺建立の詔」、743年には「大仏造立の詔」が発布されています。 これらの意味するところは、天皇中心の国家体制が整ってきたものの、外交不安(新羅との関係悪化)と内乱、飢饉、災害、天然痘の流行など、不安材料も多くあった時代で、その救済を仏教に求めようとしたと考えられます。 さらに諸国に寺仏をつくり、経文を下賜することによって、朝廷の権威と支配力を全国に示そうとしたのではないでしょうか。
実際、銅を溶かす炉も発掘されています。 紫香楽での大仏鋳造が始まると、何故か紫香楽の山で火災(745年4月1日西の山、4月3日東の山、4月8日伊賀の真木山、4月11日宮の東山)が頻発し、美濃国で起きた大地震のための余震が三日三晩も相次いで発生したことなどにより、745年5月には再び平城京に還都することにしました。 地震はともかく山火事は自然発生的なものというより、平城京の反聖武天皇派の放火であるという説が出ても不思議でないでしょう。 これら一連の遷都のことを「彷徨五年」といいます。 「藤原広嗣の乱」によって聖武天皇がノイローゼになったからと言う人もいますが、滋賀大学教育学部教授だった小笠原好彦氏が「中国の唐の都の一つである洛陽は、洛水(らくすい)が都を東西に貫流しており、恭仁京も、木津川が京内を東西に貫流する地に造営されており、しかも、洛陽の竜門石窟(りゅうもんせっくつ)を模して紫香楽で大仏を造立した。 聖武天皇が彷徨を開始した740年は、前年に渤海(ぼっかい)国の使節が訪れました。 この時、天皇は渤海が東アジア世界に新たに参画したことから、新羅、渤海に対し日本の国際的な地位を高めることの必要性を痛感したように推測されます。 そこで、天皇は中国の三都制にならって、日本も平城京、難波京に加えて恭仁京を造営したものと理解される」と述べられていますが、この日本三都説に筆者も賛成するところです。 |
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聖武天皇は都を平城京に戻すと大仏も平城京に造ることにしたのです。 皇太子であった基親王の菩提を弔うために建てられた金鍾山寺は741年の「国分寺建立の詔」により金光明寺(きんこうみょうじ)と改められ、この寺が現在の東大寺となったのです。 大仏造顕に当たっては民衆の協力を得なければ実現できません。 それゆえ「大仏造立の詔」には「乾坤(けんこん:天と地)相泰(あいやす)らかに万代の福業を修め、動植ことごとく栄えん」ことを願い、国民に「一枝の草、一把の土」をもって自主的に造営に関わるよう、万民の協力を要請しているのです。
そのために天皇は現、京都府木津川市にある泉橋院で会ったことのある行基を、大仏造顕の推進役に抜擢したのです。 行基は畿内を中心に墾田開拓により貧民の救済活動、治水灌漑事業、道路整備事業、架橋事業を推し進めるなど民衆から高い評価を受け、民衆の指導者的立場にあった人物です。 その行基の協力を得ることができたことにより、民衆の協力が得られ、着実に建造は進められていったのです。 協力した僧は行基だけではありません。 金鐘山寺(金光明寺)で我国初の『華厳経』の講説を主宰した良弁(ろうべん)僧正も多大な功績を残しています。この働きによって東大寺の開山初代別当となっています。東大寺二月堂で行われる春を告げる「お水取り(修二会)」は、良弁僧正の命日である12月16日に練行衆の発表が行われ、3月5日と12日の過去帳の読み上げは「聖武天皇、皇太后(聖武天皇の母)、光明皇后・行基菩薩・孝謙天皇・藤原不比等・橘諸兄・良弁僧正・・・・」の順になっています。 |
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さて、現存の大仏は像の高さ約15メートル、頭部の高さ5.3メートル、両膝の幅12.1メートル、基壇の周囲70メートルですが、頭部は江戸時代、身体部は大部分が鎌倉時代に補修されています。 当然、当時としては世界最大の金銅仏であったことは間違いありません。 この大きな仏像をどのようにして造っていったのでしょう。 土台となる基礎部分は版築(はんちく)という方法で土を固めた台座の上に、丸太で塑像の体骨柱を建て、骨組を組み、その表面に割竹や細い竹で籠状の大仏を型取りします。 その上に厚さ1尺(30センチ)ほどの粘土を塗って乾かして固め塑像とします。この塑像の表面に薄紙を張付け、その上に高さ6尺程度、厚さ1尺以上になるよう再度粘土を塗り重ねます。それを6尺巾に切り、薄紙の上から取り外し、外側鋳型とします。 内側鋳型は薄紙の貼られている塑像を表面から2寸ばかり削り取って作ります。外側鋳型を元の位置に戻すと巾2寸の隙間ができます。 その隙間に溶けた銅を流し込みます。これを下部から8回繰り返すと頭部まで鋳造できるのです。
大仏開眼供養会は、孝謙天皇、聖武太上天皇(749年譲位のため)、光明皇太后の臨席のもと、インド僧菩提僊那(ぼだいせんな)が開眼の導師をつとめ、盧舎那大仏の前で華厳経を読経するというもので、盛大かつ荘厳なものであったと記録には残っています。 このとき大仏を覆う建物(大仏殿)はどのようなものだったのでしょう。大仏殿の建築工事も大仏鋳造と平行して行われ、開眼供養の一年前に完成していたと「東大寺要録」には伝えられています。 しかし、大仏殿は大仏造顕が終わってから着工し、竣工したのは758年のことで6年の歳月を要したとも伝わっています。この場合、聖武太上天皇が崩御したのが756年のことですから、完成した大仏殿を見ることはできなかったのでしょう。 どちらの話が真実なのかは分かりません。筆者が考えるには2〜3メートル程度の高さの仏像であれば建物と仏像は別々に作られ、建物が完成してから仏像を運び込んで据え付けるのが一般的でしょう。 ところが大仏となれば完成仏を運び込むという訳にはいきません。大仏造顕というのは高温の溶解した銅や錫を取り扱うわけです。溶解炉も大仏の近くになくてはなりません。そこからは熱気や煙や有毒ガスも出てきます。そんな工事現場のようなところが建物の中にあったのでしょうか。 考古学、歴史学に素人な筆者にとっては二説を組み合わせて考えてしまいます。 つまり、造顕中であっても大仏に関しては雨露を防がねばなりません。そうすると仮の屋根程度のものは必要となります。しかも、造顕作業の邪魔になってはいけません。 ところが屋根と言っても大仏の大きさから20メートル近く高さが必要となります。5〜6階建ての高さですから4本の柱の上に屋根が乗っているというようなものでなく何本もの柱やそれが倒れないように梁を渡さねばなりません。 そうすると仮の建物といえども簡単な構造でないことは想像に難くないものです。この仮の建物が「東大寺要録」に言う開眼供養の一年前に完成していた建物ではないでしょうか。そして大仏完成後に本格的な大仏殿に相応しい金堂形式の建物が建てられたのではないかと考えました。 その後も堂塔伽藍の建設は続き、一応の完成を見たのは780年代のことでした。 南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並び、南大門と中門の間には高さ約100メートルと推定される東西二基の七重塔が建っていたということです。 しかし、平安時代になると伽藍は木造建築の宿命で、風雨に曝されて次第に傷みが激しくなってきました。 855年には地震により大仏の頭部が墜ち、861年に修復されていますが、その後、講堂、僧房、西塔などを焼失、暴風雨による南大門や大鐘楼も倒壊しています。 東大寺は各宗派の兼学の場でしたから、寺としての統一感がなく僧坊の個別化、分散化、世俗化が進み東大寺の管理も疎かになってきたということです。 しかし東大寺の僧も現状の姿に危機感を覚え、寺の財政を一本化し、組織を改めて伽藍の改修に着手し、1110(天永元)年には大仏殿の大改修も行われました。 1180年には平清盛の命により平重衡は、12月25日に大軍を率いて南都へ向かいました。 興福寺衆徒を抑え込もうとしたのです。28日には重衡の軍勢は南都に火を放ち、興福寺、東大寺の堂塔伽藍は大半を焼失し、多数の僧侶達が焼死しました。 焼失した大仏殿を中心とする東大寺伽藍の復興造営は、俊乗房重源によって翌年から着手されました。東大寺復興という難事業は、重源上人による勧進組織づくり、最新建築技術の導入、さらに躍動感に富んだ鎌倉彫刻の創出して取り込み、25年の歳月をかけ東大寺は天平時の規模の姿を取り戻しました。 室町時代も後半、戦国時代に入ると1567年10月10日、三好松永の乱により大仏殿はじめ多くの伽藍は焼失しました。すぐに雨露を防ぐ仮堂は建てられたものの1610年の台風で倒壊してしまいます。 1660年12月9日に東大寺大喜院に入寺した少年がいました。その6日後、雨が降りました。その少年は大仏を拝して、「自分には傘があるが大仏さまは風雨に曝されたままだ」と嘆いて涙し、大仏殿再興の志を立てました。 少年は年々二月堂修二会に参籠するかたわら、学問の研鑽に努め公慶上人となり37歳になった1684年、江戸幕府に赴き、大仏殿の再興と諸国勧進を訴え、翌月寺社奉行より許可を得ました。 しかしそれは勧進は勝手次第だが、幕府が援助するものではないという内容だったのです。 その後は諸国を勧進して回り、民衆の霊験や現世利益を求める信仰心に訴え、日一日と浄財喜捨の数を増やしていきました。そして45歳の時、総費用一万両余りを要して大仏の修復を行うことができました。 翌年、公慶上人は五代将軍綱吉公と桂昌院の援助を得ることになり、大仏殿再建も行う事ができました。以後伽藍の整備再建は明治維新に到るまで続けられ、ほぼ現在のような寺観となりました。今後は七重塔までも再建されるのでしょうか。 筆者は期待しているのですが。 |
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(遠藤真治記) | |||||
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