−坂本龍馬を斬ったのは誰か?−

第45回
 NHK大河ドラマ「龍馬伝」もいよいよ終盤のクライマックスに近づいてきた。坂本龍馬・福山雅治の人気、脚本の面白さから高視聴率が保たれている。今年は高知、京都、長崎、山口、鹿児島など龍馬ゆかりの地では観光客が激増したのでないだろうか。
また、龍馬に関しての評価も種々雑多、歴史好きの人の中では侃々諤々の議論が繰り返されているようだ。
中でも、「坂本龍馬を斬ったのは誰か」ということについては諸説紛々して収拾が付かないようだ。
そこでその諸説を追ってみた。

 かなり信憑性が高いものに京都見廻組説というのがある。
見廻組とは幕府が浪人対策や倒幕派公家の監視のため1864( 元治元) 年4月、旗本・御家人の次男・三男から隊員を募集した組織で、主に御所、二条城周辺の官庁街を管轄していた。
一方同様の組織である新選組は浪人や武士志願の町民・農民を集めた同様な組織であり、祇園や三条などの町人街や花街を管轄としていた。

見廻組説というのは函館五稜郭で降伏した幕府軍の一員である今井信郎が坂本龍馬・中岡慎太郎の暗殺を自供したことに始まる。

明治3年2月の刑部省(裁判や刑罰の執行)口書
「箱館降伏人 元京都見廻組 今井信郎 口上 午ノ三拾歳」
を抜粋要約すると
近江屋跡:11月15日の近江屋跡には追悼の花が飾られる。
『十月中頃、与頭の佐々木唯三郎の旅宿へ呼び出され、私と見廻組渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の六人が集まった。

唯三郎が申し聞くところ、土佐藩の坂本龍馬に不審の儀があり、前年伏見で捕縛(寺田屋騒動)された時、短筒を放ち伏見奉行所の同心二名を打ち倒し、その機に乗じて逃亡していた。

現在、河原町三条下ル土佐藩邸の向かいの町家(近江屋)に滞在しており、今回は取り逃がさず捕縛するため、万一手に余る場合は討ち取っても構わないとの御差図があり、一同は連れ立って出発した。

同日昼八ツ時(午後2時)頃、一同は龍馬の旅宿に向かったが、桂隼之助が唯三郎から申しつけられ、一足先に偽言をもって在否を探ったところ留守中とのことで、一同は東山周辺で時間を潰し、同夜五ツ時(午後八時)頃再び訪れた。

佐々木唯三郎が先に入り、松代藩と偽名を書いた手札を差し出し、「坂本先生に面会を願いたい」と申し入れた。
取次の者が二階へ上がったので、後から引き続いて、かねての手筈の通り、渡辺吉太郎、高橋安次カ、桂隼之助がつけ、佐々木唯三郎は二階の上り口、私と土肥仲蔵、桜井大三郎は台所周辺を見張っていた。

(一階の)奥の間にいた家人が騒ぎ立ったので、それを取り鎮めて階段へ戻ると、吉太郎、安次郎、隼之助が下りてきて、「龍馬の外に合宿している者がいたが、手に余ったので、龍馬を討ち取り、外二名も斬りつけ傷を負わせたが、生死の程はわからない」と報告した。

「それならば仕方無い」と、引き揚げを唯三郎が命じたので、それぞれ旅宿へと帰った。

旧幕府では、閣老などの重職者からの命令を御差図と呼んでいたが、その辺からの指示であったのか、または見廻組は京都守護職に属していたので、松平肥後守からの指示であったのかはわからない』

ということである。

尤も、明治33年には「今井信郎、渡辺吉太郎、桂隼之助の三名が二階に上がって斬った。刀の鞘は渡辺吉太郎が置き忘れた」と変化しているのであるが、具体的で信憑性があるとされている。
酢屋:坂本龍馬が近江屋に移る前に住んでいた酢屋。11月15日は祭壇が設けられる。

上記の供述により、今井信郎は、明治3年9月20日、宮崎小判事の達しによって禁錮刑を申しつけられた。

一方、同じく見廻組だった渡辺一郎(篤)の遺言「摘書(抜書き)」には
『襲撃したのは、佐々木只三郎(唯三郎)の命により、佐々木、渡辺一郎、今井信郎、世良俊郎の他二名の計六名。
龍馬と側にいた二名(慎太郎と藤吉)を斬るが給仕の少年は助ける。刀の鞘を忘れたのは世良俊郎。暗殺の報酬として毎月十五人扶持(7升5合)を拝する』

という記録が残っている。

これらから今井信郎と渡辺一郎の二人の話は矛盾するところが多いものの、京都見廻組による犯行というのが最も妥当であろう。

京都霊山護国神社:龍馬の墓がある霊山護国神社では11月15日は慰霊祭が行われる。
 第二番目の説としては、新選組説である。
土佐藩士である谷干城(たにたてき)は、事件後、逸早く近江屋に駆けつけた人物の一人だった。
前記今井信郎の話についても「お前ごとき売名の徒に坂本さんが斬られるものか」と非難した人物である。

その彼が瀕死の中岡から聞いたところによると「誠に遺憾千万であるが、併し此通りである。速くやらなければ君方もやられるぞ」。

さらに刺客が斬りつけてきたときに「こなくそ」と叫んだと言う。この言葉は伊予弁である。
また現場に残されていた鞘を調べると、新選組の原田佐之助のものだという証言があった。その原田佐之助は伊予松山藩の出身だった。

もう一つ、刺客の遺留品である下駄が瓢(ひさご)亭の下駄で、ここには新選組がよく出入りしていたという話も伝わっているが、鳥取藩慶応丁卯筆記にはこの下駄について「下駄弐足印付、右壱足ハ中村屋、今一足ハ河原町カイカイ堂」と記載されており、また尾張藩雑記には「下駄焼印有之、一足ハ二軒茶屋中村屋印、一足ハ下河原……堂印有之」となっており瓢亭の下駄というのは誤りであろう。

そして、幕府大目付永井尚志が調査を行ったところでは、新選組には全員犯行時間の居所が把握できており、近藤勇も完全否定した。

事件があったのが十五日、意見が対立して新選組から袂を分かって高台寺党(御陵衛士)を名のっていたグループがいた。
その頭が伊東甲子太郎だったが、三日後の18日に近藤勇に呼び出された帰り道、新選組の者に殺害された。
甲子太郎の遺体は七条油小路に放置されていたので、高台寺党のメンバー7名が引取りに向かった。
ところがそこに待ち伏せをしていた新選組によって全員が切り殺されると言う油小路の変が起こった。

鞘が原田佐之助のものであるとの証言は高台寺党の生き残っていた者で、この証言を額面どおりに受け取っていいものか疑問である。

 第三番目の説は紀州藩説である。
1867(慶応3)年4月23日、瀬戸内海の備中・六島沖で、坂本龍馬が率いる海援隊の「いろは丸」と、紀州藩船「明光丸」が衝突し、いろは丸が沈没した。

賠償交渉では万国公法を持ち出し、薩摩や長州などの諸藩にも働きかけ、土佐藩参政後藤象二郎を交渉者にするなど根回しして、紀州藩に非を認めさせ八万三千両の賠償金を約束させたのである。

このため、紀州藩が報復に龍馬を暗殺したと見る説である。
12月7日、紀州藩の仕業と決め込んだ海援隊の陸奥源二郎(宗光)が、同志とともに紀州藩士、三浦休太郎を油小路通花屋町の天満屋に襲撃する事件が起きた。

 第四番目は薩摩藩黒幕説である。
武力による討幕を主張していた薩摩藩にとって、平和改革路線を訴える龍馬はもはや敵であるという考え方である。
黒幕には大久保利通や西郷隆盛らとし、前述の高台寺党に指示した、あるいは見廻組に龍馬の所在を教えたというもの。
現に伊東甲子太郎は近江屋に龍馬を訪ねているが、この説はいかがなものだろう。

 第五番目であるが、土佐藩・後藤象二郎説。
「船中八策」というのは龍馬が夕顔丸の洋上で後藤象二郎に提示したものであるが、後藤はこれを上洛中の山内容堂に示し、土佐藩から幕府へ建白するように働きかけた。

この功績により150石の身分から1,500石に大出世し、土佐藩参政となったのであるが、この功績は龍馬がいなくなれば、船中八策は後藤の案となり、永くその栄誉が語り継がれると考えられる。これが動機となって暗殺を企てたとする説。

中岡慎太郎が死ぬ前に残した証言の「こなくそ」も後藤象二郎配下の者の言葉であっても不思議ではない。
土佐藩は新選組説を主張していた。
つまり、土佐藩に疑いの目が注がれないための戦術だったというのだが。

提灯行列:11月15日には龍馬を偲んで京都の街を提灯行列が繰り出す。
他にも、中岡慎太郎説、伊東甲子太郎説、岩倉具視説、千葉重太郎説、龍馬巻添え説等々、数えれば限がない。
ただ、真犯人が権力者の手で特定されなかったのがよかったのかもしれない。
というのも昨今の検察庁での騒動を見ていると、幕末や明治初期に実行犯らしき人が捕らえられていれば、手段を選ばず自白を強要されて冤罪が成立してしまったかもしれない。
そう思うのは司法制度を根底から覆すような驚くような事件が平成の時代に現実に起こっているからなのだ。
昔も今も真実を明らかにするということがどれだけ難しいことかと考えさせられる事件である。

(遠藤真治記)


トップへ戻る
   
歴史散歩メニュ−ヘ
All contents of this Web site. Copyright © 2003  Honnet Company Ltd.,All Rights Reserved
・