参考:奈良県立橿原考古学研究所および明日香村教育委員会による現地説明会資料
勿論、当日配布された資料にもそんな結論は書かれていない。この発掘地点が「飛鳥河の傍の家」や「嶋宮」であることが証明されない限り断定はできない。従って、島庄遺跡に関してはマスコミの早とちりだろうというのが私の結論である。

                                             (遠藤真治記)

 本題に戻ろう。今回の発掘地点は蘇我馬子の墓であろうと言われている石舞台古墳の西側150bの地点である。写真は同一建物の柱跡にカラーの線を付けてみた。今回の発掘だけでなく周辺地区の調査結果を踏まえてであるが、黄色は南北線から30度振れており7世紀前半の遺構、緑色は50度振れて7世紀中頃、水色は振れがなく7世紀後半、赤色は15度振れていて、現在のところ時期を特定するに到っていない。
 マスコミで騒がれた蘇我馬子の邸宅というのは7世紀前半のことであり、黄色の線ということになるが、これは時期が一致しているだけで直ちに大発見という訳には行かないだろう。草壁皇子についても水色の線ということになるがこれも同様の事である。
蘇我馬子の邸宅跡
 続いて蘇我馬子(538頃〜626)の邸宅跡ではないかとマスコミで取り上げられた島庄遺跡に向った。
 蘇我馬子は乙巳の変(645)で中大兄皇子に殺された蘇我入鹿の祖父で、敏達〜推古朝の大臣を務め仏教を取り入れた超大物政治家といっていい人物である。
 島庄には日本書紀や万葉集の記述から「飛鳥河の傍の家(馬子の邸宅)」や「嶋宮(しまのみや)」が存在したとされている。
 天武天皇と持統天皇の間には草壁皇子(662〜689)という子供がいた。ややこしいが、天武天皇には持統天皇の姉である太田皇女との間に大津皇子がいる。次期天皇を自分の子、草壁皇子にしたい持統天皇は大津皇子を謀反の動きありということで処刑したと言われている。しかしこの事件の後、草壁皇子は天皇になる事なく病死してしまったのだ。その結果、皇后が即位して持統天皇となった経緯があるが、その草壁皇子が住んでいたのが嶋宮なのだ。
 石敷きの南端には東西に三条の塀が並んでいた柱跡があり、壬申の乱を経験してきた天皇の宮であるから、これは防備を考えていたのではないかと私は推測した。
 この発掘のニュースはマスコミでも大きく取り上げられ、説明会に詰めかけた参加者は一万人(写真左)を遥かに超えていたそうである。

●飛鳥浄御原宮石敷広場と建物跡
檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)
 陵墓は明日香村野口にあり、その解説には・・・
『壬申の乱(672年)に勝利し、律令制の基礎を築いた天武天皇と、その皇后で次に即位し、天皇としては初めて火葬された持統天皇が合葬されている陵墓である。墳丘は現在東西58b、南北径約45b、高さ約9bの円墳状をなしている。鎌倉時代(1235年)に盗掘され、その際の記録である「阿不幾乃山稜記」に墳丘、前室、墓室内の様子の記載がある。(中略)前室と玄室の間には両開き金銅製の仕切扉が設けられている。玄室内には、天武天皇の葬られている。玄室内には、天武天皇の葬られている布張り朱塗りの棺と、持統天皇の火葬骨を納める金銅製骨蔵器がそれぞれ金銅製の棺台の上に置かれている』 と書かれていた。

飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)
 次に、「飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)」(672〜694)の発掘現場に向った。ここは飛鳥時代に四つの宮が置かれ飛鳥京跡と呼ばれている場所で明日香村役場の北側に位置し、4 5年前から発掘調査が行われている。
飛鳥京跡は大まかに三時期の遺構が重なって存在しており、下層は舒明天皇の飛鳥岡本宮期(630〜)、中層は皇極天皇の飛鳥板蓋宮期(643〜)、上層は斉明・天智天皇の後(のちの)飛鳥岡本宮期(656〜)と天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮期(672〜694)である。
今回の発掘調査は上層部の飛鳥浄御原宮の中枢部だった。本来は下層まで発掘の予定であったが、上層部の石敷きがあまりにも良好な為これを壊してまで下層の調査が出来なかったという。

 発掘現場を見ればそのことがよく分かるが、なんと素晴らしい石敷きであろう(写真↓)。手前の土が見えている部分が建物跡で、柱跡も土の色の違いで確認できる。南側の広い石敷きと、建物への階段の痕跡と庇(ひさし)も確認できており、以前この南で発見されている前殿よりも大きく正殿である事は間違いないとされている。写真奥の石敷きの石は人頭大でほぼ完璧な形で出土している。朝日新聞に国際日本文化センター教授千田稔氏の話として載っていたが、まさに宮にかかる枕詞の「百敷(ももしき)の」を連想させるものであった。

第5回 − 明日香の遺跡見学 −
 3月9日、新聞の第一面の見出しに「天武天皇の正殿跡出土」と書かれていた。3日後の12日、今度は「蘇我馬子の邸宅跡か」の見出し。
 何か新事実が発見されたのだろうか?歴史の常識を覆すようなことはないのだろうか?
発掘のニュースほど歴史へのロマンを膨らませるものはない。現地での説明会は二ヶ所とも3月13日、しかも場所は奈良県明日香村だ。もう行かねばなるまい。
 当日は朝9時前に明日香村に到着。説明会は10時からなので、それまでに駅から歩いていける天武天皇のお墓、檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)にお参りする事にした。

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