義経の父は源義朝、母は常盤御前。その義朝の別邸が京都市北区紫竹牛若町にあり、ここで義経は生まれました。この地名は義経の幼少名の「牛若」からできた地名である
ことは容易に想像できます。したがって、この辺りは牛若丸に関する伝説が多いところです。
牛若町バス停の近くに「牛若丸誕生井」と刻まれた石碑を見つけることができました。
その裏側には確かに井戸があります。この井戸の水を産湯に使ったということなのでしょう。ただし、ここから東南に数分歩いたところにも「源義経産湯井ノ遺址」と掘られた石碑もありました。
「牛若丸誕生井」は畑地の中にあり、同一地内に「胞衣塚」なるものがあります。
胞衣(えな)とは胎盤や卵膜のことですが、この塚は牛若丸の胞衣と臍の緒が埋められて いるといわれています。この胞衣塚の北東側には常徳寺という寺があって、常盤が牛若丸の安産を祈願して寄進したと伝えられる「常盤地蔵」が祀られていますし、南西側の 光念寺には常盤の守り本尊「腹帯地蔵」が祀られています。 |
牛若丸が生まれた年に平治の乱(1159)がありました。この乱で父の源義朝は平清盛に敗れ、東国に逃れる途中、尾張で臣下の永田忠致に殺されています。清盛は源氏の残
党狩りを家来に命じ、次々と粛清を行っていきました。これを知った常盤は今若丸、乙若丸、牛若丸の三人の子供を連れて奈良に逃げ延びるのです。しかし、母の関屋が平氏
に捕まっていることを知り、悩んだあげく京都に引き返して母と子供を助けるように嘆願したのです。結局、清盛は美しい常盤を愛妾にすることで常盤の願いを受け入れまし
た。この結果、兄の今若丸と乙若丸は寺に預けられ、乳飲み子の牛若丸は常盤と暮らし、七歳になって鞍馬山の東光坊に預けられました。
成長した牛若丸に義朝の元家来の正門坊(鎌田三郎正近)が現れ、父、源義朝が清盛に敗れたこと、兄の源頼朝が伊豆に流されていることなどを教えたのでした。この時か
ら牛若丸は平氏打倒の炎を燃やしたのです。神業ともおもえる武芸を身に着けたのもこの後のことです。 |
さて、この牛若丸、五条の橋で弁慶と戦う話は有名です。現在、鴨川に架かる五条大橋の西側には可愛くデフォルメされた石像が建っています。
ところが、「義経記」には 五条の橋ということは書かれていません。そこに書かれているのは次のような内容です。
『弁慶は京の町で太刀の千本取りを願って五條天神に詣でた夜、この天神の森で笛を吹く義経と初めて出会います。弁慶は義経が持つ立派な太刀を奪おうと戦いに挑んだの
ですが、義経の技に目的を果たせず引き上げます。翌日、清水寺で再会した二人は互いに激しく戦ったのですが、またも弁慶は敗れ主従を誓って生涯義経を守りました』。
現在の地名で言うと五條天神は西洞院通松原にあり、当時、神社の東側には西洞院川が流れていました。松原通については豊臣秀吉が京都の大改造をするまではこの通りが
五条大路だったのです。しかもこの松原通りを東に進むと清水寺に至るのです。したがって、義経と弁慶が戦った五条の橋というのは西洞院松原にあったのではないかと推測
できます。
牛若丸の武芸が秀でたものである事が人々の口に上るようになってくると、平家も安穏としてはいられません。牛若丸を討たざるを得なくなってきました。 |
そんな折、牛若丸のもとに吉次信高と名乗る者が現れました。
そして「藤原秀衡が鞍馬山に預けられた義朝の子に会いたい。平家打倒の戦いがあれば秀衡の兵が源氏に味方
する」と言い、牛若丸に奥州に行く事を勧めたのでした。
この人物は「義経記」に「三条に大福長者あり。その名を吉次信高とぞ申しける。毎年奥州に下る金商人なり」と表わされています。この人物は金の買い付けのために奥州
と京を往き来する黄金商人で、商売がら奥州藤原氏と親交が深かったのです。雍州府志(江戸時代作)には『西陣五辻南桜井辻子(上京区智恵光院通今出川上ル)に橘次(吉
次)が在り。このところ、売金商橘次末春の宅地なり。(中略)源義経は橘次の東行に従ってここより首途(門出)す』とあります。
1174(承安4)年3月3日、吉次信高の屋敷があったと伝えられている地から、奥州平泉の藤原秀衡のところへ向けて出発するとき、旅の安全を祈願したとされているのが西陣にある
「首途(かどで)八幡宮」だというのです。
ところが、平家物語では「金売り吉次こと橘次郎末春の宿所は、京の五条に所在した」となっています。そうしますと、義経は吉次とともに五条あたりから出発したことに
なります。それを手掛かりに調べてみました。 |
あまり知られていないのですが新町通松原下ルにある「松原道祖神社」、別名を「首途の社」という神社がありました。道祖神社とはまさしく旅の安全を祈願する神社、し
かも別名が「首途の社」ですから、こちらの神社の方が義経が旅立ちのときに祈願したのではないかと考えるのは果たして私だけでしょうか。
人気者の義経であるからこそ、 多くの話が作られていくのでしょうね。
|
(遠藤真治記) |
|
|
|
|