781(天応元)年4月15日、光仁天皇の後を継いで桓武天皇が即位した。天皇は平城京における貴族や奈良仏教寺院の影響力を厭い、784(延暦3)年に長岡京に遷都することにした。ところが、造都の長官である藤原種継が暗殺され、この事件に関して大伴継人らが捕えられた。さらに天皇の弟で皇太子の早良(さわら)親王も事件に連座して乙訓寺に幽閉した。早良親王は潔白を訴え、10日余りも飲食を断って死去してしまった。それでも桓武天皇は亡骸を淡路島に流すという挙に出たという。
それからである。天皇の生母である高野新笠(にいがさ)、皇后の乙牟漏(おとむろ)が相次いで死去。洪水や大雨、疫病の流行と凶事が続くという事態が起こったのだった。これは親王の恨みによる怨霊の仕業であると信じられた。長岡京は祟られたのである。だから長岡京を離れ、平安京へ遷都せざるを得なくなったのだ。
794(延暦13)年10月、平安京遷都が行われた。「扶桑略記」には796年、平安京の表玄関である羅城門の東西に、東寺と西寺を草創するとある。これは新都に怨霊を寄せ付けないよう桓武天皇が組み立てた都市計画だったのではないだろうか。
しかし、左右(東西)両京均整のとれた平安京は一世紀を過ぎると右京(西京)の衰退が著しくなり、十世紀中頃になると「西京は人家いよいよ稀にして、幽墟にちかし」とまでいわれるようになっていた。それにつれて西寺も早い時期に衰退し、現在は京都市南区唐橋の児童公園内に「史跡西寺跡」の碑が残っているのみである。
これに対して東寺は何度かの火災や天変地異を経て現在もその姿を残している。平安時代の建物は残っていないが、南大門、金堂、講堂、食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置を形成している。創建当初は金堂のみを有する寺院で、その金堂も1486(文明18)年の土一揆による戦火で焼失してしまった。現存する金堂は豊臣秀頼の発願で、1603(慶長8)年に完成した建物で、天竺様の威風堂々とした桃山時代の代表的建築物である。
|
|