『祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり、沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。』
 「平家物語」ほど日本人の感情に訴える古典はないだろう。「平家物語」は歴史の大きなうねりの中で、水に流される落ち葉のように、運命という流れに翻弄され、全盛期から滅亡に至った平家一門の壮絶な軍記ドラマである。にもかかわらずこの物語は軍記の体裁をとりながら、和漢混交文で切々と歌い上げられる哀愁に満ちた女性の物語でもある。
 高倉天皇の寵愛を受け、やがて退けられた葵の前の悲劇。清盛の憎しみを恐れて身を隠した小督局(こごうのつぼね)の悲恋。滝口入道と横笛の悲恋。壇ノ浦で入水したが助けられ、安徳天皇の面影を抱き寂光院に隠棲した建礼門院。男の壮絶な悲劇の数だけ、女の痛々しい悲劇がある。いずれも滅び行く武士の哀れを象徴しているかのようである。中でも巻一に早々と登場する「祇王」の章に筆者は女の無常を感じるのである。

 時は平家全盛の時代。祇王は近江野洲江辺庄の白拍子(※1)であった。
 父は近江の庄司(荘官)だったが罪を被り北陸に流されていた。その為一家は母子家庭となり、祇王は妹の祇女(ぎにょ)、母の刀自(とじ)とともに京都に出てきた。祇王の美しさは評判となり、やがて清盛の寵愛を一身に集めることとなり、親子は安穏に暮らすことができた。
 ある時、加賀の国は小松市原町出身の仏(ほとけ)御前と称する白拍子が、自分を売り込みに清盛の下を訪れた。しかし、時の権力者、清盛は仏御前を門前払いにする。これを見かねた祇王が取りなし、仏御前は得意の今様を披露することができた。

 君を初めて 見る折りは 千代も経ぬべし 姫小松 
  御前の池なる 亀岡に 鶴こそ群れゐて 遊ぶめれ
 (※A)

 三度繰り返し歌い終わると、見聞きしていた人々はその巧さに驚いた。次に舞を舞わせるとこれもまた思いもよらぬほど素晴らしい舞であった。清盛はたいそう仏御前を気に入り、仏御前に心を移してしまった。
祇王の座を奪うという意図のない仏御前は辞退するが、清盛は「祇王があるを憚(かばか)るか。その儀ならば祇王をこそ出(いだ)さめ」と祇王を追放してしまう。

 萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草
  いづれか秋に あはではつべき
 (※B)

 祇王は我が家に帰り、障子の内に倒れ伏してはただ泣き暮れるばかりであった。さらに翌春、清盛は「仏御前が退屈そうに見えるから、こちらへ参って今様を歌い、舞を舞って仏御前を慰めろ」と祇王に言ってきた。
 祇王は落つる涙を抑えつつ・・・

 仏も昔は凡夫なり われらも終(つい)には仏なり
  いずれも仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ
 (※C)

と舞い踊り、居並ぶ諸臣の涙を誘った。祇王はあまりの屈辱に死を決意するが、妹も母も一緒に死ぬという。これは五逆罪(仏教で言う五種の重い罪、母殺しはその一つ)に当たるため自害はとどまった。

 翌年の秋風が吹く頃、親子三人で念仏を唱えているところに、竹の編戸を叩く音がした。仏御前である。祇王の運命を自分に重ねて世の無常を思い、「娑婆の栄華は夢の夢、楽しみ栄えて何になりましょう。人の身に生まれる事は容易ではなく、その上、仏門に入ることもますます困難です。老少不定のさかいであれば、年の若きを頼りにもできません。蜻蛉や稲妻よりも更にはかなく、一時の楽しみに誇り、後生を知らぬことの悲しさに、今朝、邸を忍び出てこのようになりました」と言って、かぶっていた衣を払いのけるのを見ると、仏御前は尼になって来ていたのだった。
 この後、祇王一家と仏御前は、余念無く仏道に励み、「四人一所にこもりゐて、朝夕仏前に花香を供へ、余念なく願ひければ、遅速こそありけれ、四人尼ども、皆往生の素懐をとげけるとぞ聞こえし。されば後白河の法皇の長講堂の過去帳にも、祇王・祇女・仏・刀自らが尊霊と、四人一所に入れられけり。あはれなりし事どもなり。みな往生の本懐を遂げた」のだった。

 この嵯峨の山里こそ往生院の尼寺(後の祇王寺)なのだ。旧祇王寺は明治の廃仏毀釈により廃寺となったが、第三代京都府知事北垣国道氏(琵琶湖疎水を完成させ、水力発電を初め京都復興に画期的な施策を実行した)が嵯峨にあった別荘の一棟を寄進し、これが現在の祇王寺となった。したがって、本堂といえど寺院建築ではない。それがまた、平家物語にピッタリの雰囲気を醸し出している。
 さて、祇王寺の裏庭には祇王達の墓があり、説明板には「右清盛公供養塔 左祇王祇女母刀自の墓」とある。平家物語の記述では仏御前もこの墓に入っているはずなのだが?
 実は、仏御前は祇王寺にきたとき、既に清盛の子を宿していた。ここで産めば祇王達に面目が立たない、清盛の心理的呪縛から解き放されない。そんな思いから翌春、身重の体でありながら生まれ故郷に向った。しかし、途中白山麓の吉野谷村の木滑というところで陣痛が始まり出産したとされる。赤子は無理がたたったのか数日後には死亡した。故郷原町に着いた仏御前は茶屋を開いて生計を立てていたが、歌舞が巧く美人であったためこの茶屋は大繁盛となった。ところが、村の風紀が乱れるということで、村の女性の反発を買い阿稜山中に仏御前は呼び出され刺殺されたという。享年22歳のことだった。

 祇王寺を訪れると「愛別離苦」、「会者定離」、「盛者必衰」を納得しつつも、嵯峨野の静寂の中に一時のやすらぎを覚えるのである。









※@:白拍子(しらびょうし):平安末期から鎌倉時代にかけて流行した歌舞のことで、それを歌い舞う女性芸能者のことも指す。囃子として笛や鼓などが用いられ、多くは今様を歌いながら白の水干に立烏帽子(たてえぼし)、白鞘巻(しろさやまき)姿という男装で舞った。
※A:清盛様を初めて見る折は(その立派さに)姫小松(私)は千年も命が延びそうな気がします。清盛様の御前にある亀岡の池に鶴が群がって楽しそうに遊んでいるようです。
※B:春になって草木が芽吹く(仏御前)のも、霜にうたれて枯るる(祇王)のも、所詮は同じ野辺の草 いづれの秋(いずれ清盛に飽きられ)には、果てずに終わることがありましょうか。
※C:仏も昔は凡人でありました。我等も終には仏になりましょう。いづれも仏になれる性質を持つ身であるのに分け隔てることは悲しいことです。
(遠藤真治記)
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