奈良市の中にあっても「ならまち」は中世、近世の町並みを残している数少ない歴史的生活文化保存地区だ。
正式な行政地名に「奈良町」という名称はない。それでも奈良公園猿沢池の南側一帯を人々は「ならまち」と呼び、古い町家が暮らしの中に根付いた貴重な文化財として現存している。
 710年の平城京遷都とともに東地区の外京に元興寺(がんごうじ)、興福寺など多くの寺院が配置されていった。
平城京は長岡京遷都後衰退していったが、この外京は元興寺、興福寺、東大寺などの大寺院や春日大社とともに活況を呈していた。
その元興寺は、蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最古の本格的仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)が平城京遷都に伴って飛鳥から平城京へ移転してきた寺院である。
寺域は南北四町、東西二町というからには南北に細長く、現在の「ならまち」地区をすっぽり覆うぐらいの広さだった。
 奈良時代、東大寺は天皇の勅願寺という性格をもつ国立の寺院であることから大いに栄え、興福寺は中臣鎌足とその子孫である藤原不比等ゆかりの寺院で、平安時代まで強大な勢力を誇った寺院である。

 人口増加とともに土地政策に窮していた朝廷は「三世一身法」、「墾田永世私有令」などの開墾政策を打ち出してい

たが、749(天平勝宝元)年、東大寺の大仏の完成を機に大寺院の墾田を認めた。
これによると東大寺の4千町歩に対し、元興寺は2千町歩、興福寺・大安寺・薬師寺は1千町歩、法隆寺・四天王寺は5百町歩であったことから、元興寺の勢力は興福寺を凌いでいたことが分る。
(1町歩=3000坪)

平安時代の中期以降になると、中央政権の力が衰えて経済基盤である荘園制も変化して、政府も大寺院も荘園からの収入が激減することになった。
元興寺は貴族との密接な関係を持たなかったこと、新しい天台・真言系の寺院の隆盛などにより、元興寺は衰退していったのである。
「堂舎損色検録帳」(11世紀前半)によるとと、元興寺の伽藍は荒れ果てて見る影もなかったという。

鎌倉時代後半になると荒れ果てた元興寺の域内に市が開設され、寺社文化を背景に職人や商人の店や住居が建ち並ぶようになった。
そして室町、桃山、江戸、明治と変遷していく過程で様々な産業(筆、墨、蚊帳、晒、酒、醤油等)が発展し、小さいながらも商工業都市の性格を持つ町が形成された。
これが現在に残る「ならまち」の成り立ちである。
 さて、「ならまち」で筆者お気に入りの建物は「格子の家」だ。現在、(社)奈良まちづくりセンターが管理を行っており、内部まで自由に見学ができる。
正面は写真のようにしっかりとした格子がはまっており、伝統的な町家造りが再現されている。
標準的な町屋は母家(三室一列型)、通り庭、中庭、離れ、蔵からなっている。
以前(2005年12月METRO156号で)紹介した京都の町家とほぼ同形になっている。
構造が縦方(奥行)に長いのも、江戸時代の課税基準が三間の間口をもって一軒税とされたための節税対策であったためだろう。
格子は様々な長所があり、風通しがよいこと、家の中から外はよく見えるが、外からは家の中が見えにくくプライバシーが守られること、家の中と外の人との会話ができ近所付合いのコミュニケーションが図られることなどが挙げられる。
階段の下は引き出しや収納スペースに利用されたり、通り庭には明かり採りの窓があり生活の知恵がいたるところに見られる。
他にも今西家書院(国重文)、細川家(県文化財)、藤岡家(国重文)などが見所だろう。








 古い町並みの家々の軒先には猿をかたどった魔よけが吊るされている。大きいのが大人、小さいのが子どもとされ、家族構成に合わせて吊るされている。
「身代わり猿」と呼ばれ災いを代わりに受けるとの願いからだ。また「願い猿」とも呼ばれ背中に願い事を書いて吊るせば願いが叶うとされている。

町なかには小さな祠がある。人々からは「庚申堂」と呼ばれ、庚申信仰の奈良の拠点と言ってよいだろう。
庚申信仰とは人間の身体のなかに三尸(さんし)という虫がいて、60日ごとに回ってくる庚申の夜に、人間が眠っている隙に抜け出して天帝に悪口をいう。天帝はそれを聞いて人の寿命を決めるのだが、この日、身を慎んで徹夜すれば三尸は上天することができず、したがって長生きできるという中国の教えと日本固有の神々が混交した信仰で青面(しょうめん)金剛像を祭祀する。
「ならまち」の庚申堂の伝えには、『文武天皇の代に疫病が流行した。このとき元興寺の護命(ごみょう)僧正がその加護を祈っていると、1月7日になって青面金剛が現われ、「汝の至誠に感じ、悪病を払ってやる」と言って消え去った。その後、間もなく疫病がおさまったという。その感得の日が「庚申の年」の「庚申の月」の「庚申の日」であったことから、この地に青面金剛を祀った』と伝えられている。
ここで気が付くのは前述の「身代わり猿」が多数吊るされていることだ。
町内から転出された家族の猿も吊るされている。こうして転出しても町との精神的な繋がりを保っているという。
事実は違うかもしれないが、こういった言伝えが残っているだけでも心なごむ話だと感じる。
 しかし、昭和の高度経済成長期には空き地ができ、駐車場やマンションが建設されたり、老朽化した家屋が新建材を使ったモダンな家屋に建て替えられ、江戸時代の町並みは随分壊されてきたのは残念だ。
そんな中で「奈良地域社会研究会」などが住民の手により発足し、歴史的町並みを活かした「町づくり」に立ち上がったのは嬉しいかぎりだ。今後の活動に期待したい。
(遠藤真治記)
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