-古代史の新視点(記紀など国内文献から)- 第12回 |
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邪馬台国所在地候補の二大学説「九州説」と「近畿説」を代表する大阪府立弥生文化博物館、九州国立博物館が手を組み、朝日新聞社が加わった特別企画展「邪馬台国−九州と近畿」が22年10月から12月まで大阪で、23年1月から2月まで九州で開かれた。 三国志魏書東夷伝倭人の条、通称「魏志倭人伝」に「女王が都するところ」として出てくる「邪馬台国」については、新井白石・本居宣長にはじまる過去200年来の論争を経ても、その所在地をはじめとする様ざまな問題について、いまだに決定的なことがわかっていない。所在地論や解釈は色々あるが、九州と近畿の博物館が協力して、弥生時代前期末(BC200頃)から古墳時代(AD350頃)にかけての両地の発掘調査出土品350点を一堂に集めて、展示を行うのは画期的なことである。 この展示に関係ある遺跡や墳墓について、「展示に関わる年表」が年輪年代法による年代をも取り込んで作成され、九州と近畿を比較理解するために極めて有用な表となっている。 弥生時代前期末〜中期初頭、九州の吉武高木遺跡などで出土する青銅の武器は、細型で切っ先や刃が鋭いことから、実際に武器として用いられていたのであろう。中国大陸、朝鮮半島からもたらされた青銅の武器は、それまでの石の武器とは比べようもない強力な武器であり、これを手にした人はその力を一層大きなものとし、剣はともに墓に副葬された。 その後間もなく中期半ば頃から、剣、戈、矛の武器の多くは倭国で生産され、幅が広く長大となり、刃の鋭さも失せていく。 この変化は、実用の武器から、祭りの道具としての武器への変化とみられる。 現在は錆びて黒色や緑色になった武器も、生産された頃は金色に光り輝き、ムラの祭りで用いられたのであろう。 その後弥生時代中期後半には、青銅の武器の他に中国大陸、朝鮮半島からもたらされた漢代の鏡が、力を持つ人に好まれ、大量の鏡が北部九州に流入し、またそれを模して生産される。 数多くの甕棺の中で鏡、玉、剣が副葬された甕棺(須久岡本遺跡・奴国王)の存在は、そのころにはムラが統合し、小さなクニの王がうまれたことを示す。王の周辺では青銅器やガラス玉などの生産、そして交易が行われた。 多数の鏡が集中する弥生時代後期の桜馬場遺跡や弥生時代後期末の平原遺跡(内行花紋鏡・国宝・伊都国)は生産や交易を掌握した傑出した王の存在を示唆する。 然し、出土遺物をみる限り、九州では平原遺跡を頂点として、その後日本列島の中での優位性を近畿にゆずる。 近畿では、弥生時代後期、青銅器や鉄器の出土数は遠く九州に及ばない。鏡を割った破片である破鏡や国産の小型鏡が出土した弥生時代中期後半の加美遺跡Y1号墓は大きい墳丘をもつものの副葬品は円環状銅釧、ガラス玉と貧弱である点から明らかである。
しかし、二世紀後葉から三世紀に入ると奈良県三輪山麓に、纏向型前方後円墳と呼ばれる長さ100m前後の古墳が点在し、そして三世紀中頃から後半頃、長さ278mの巨大な前方後円墳である箸墓古墳が姿をあらわす。 そして周辺には黒塚古墳、桜井茶臼山古墳など画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡など鏡を大量に副葬する古墳がこの地に集中する。 三世紀前半のある短期間のうちに、新たな中枢の地が近畿、三輪山麓へと移るのである。その周辺に纏向遺跡が広がり、関東から九州にかけての広い地域の交流が出土土器から読み取れる。そのころ九州では、三輪山麓で出土する鏡と同じ三角縁神獣鏡が出土するものの、古墳の大きさや鏡の数は、もはや近畿の比ではない。 |
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さて「魏志倭人伝」の伝える情報に基づいて邪馬台国の所在地を確定しようという論争は、20
世紀初頭の白鳥庫吉と内藤湖南の例から数えても、100年になんなんとし、その内容については「研究史邪馬台国」と「研究史戦後の邪馬台国」などとして、まとめられている。 さらに近年では、たんなる研究史ではなく近代史学史の題材ともなって、注目すべき研究が発表されているが、いまだに定見が出たとは言い難い状況がつづいている。 2009年11月に近畿説の最有力地とされる纏向遺跡で3世紀前半と重なる大型建物など3棟分の柱穴が東西の一直線上に並んで見つかった。 これがきっかけとなり、「邪馬台国は纏向なのか」は、アマチュア歴史愛好家やマニアそしてジャーナリズムのホットな話題となった。 歴史の研究者・専門家のあいだにも、この問題に正面切って取り組むべきであるとの機運が生じ、前述の特別企画展の開催もその一例である。 そもそも、邪馬台国に関する資料が「魏志倭人伝」一つであるところに問題があり、今日、それを補うものとして注目されているのが、考古学の知見である。 それによれば、邪馬台国の所在地としては畿内・大和が有力であるという。その理由として、魏の鏡と思われる三角縁神獣鏡が畿内を中心に分布すること、纏向遺跡の発見、そして卑弥呼の墳墓が古墳だと考えられるところにあるようである。 果たして、これらは有力な物証といえるのであろうか? TV 番組NHK スペシァルは「纏向遺跡は邪馬台国なのだろうか?/やまとの謎26」を1月23日(2011)に放映した。 その画面に登場した発掘の現場責任者が「纏向遺跡が邪馬台国だったと、決定づけられるものを掘り当てたい・・・」と語っていたのは印象的であったが、また「大丈夫かな、無いものを探しているのではないか?」という危惧を感じさせることでもあった。 史学者若井敏明は著書「邪馬台国の滅亡・大和王権の征服戦争」を2010年4月(吉川弘文館)に刊行した。本書は帯封紹介によれば「「記紀」を丹念に読み解き、邪馬台国の位置が九州北部であったことを論証。 大和政権が邪馬台国を滅ぼし、どのように全国統一したのか、その真実に迫り、新たな古代史像を描き出す」とあるように、このシリーズで順次取り上げていくべき興味深い内容をふくむ著作である。 ここでは、その中から邪馬台国は北部九州であると考える根拠のポイントと纏向遺跡にかんする若井予言とも云うべき卓説とを紹介する。 もし、邪馬台国が畿内・大和にあったとすれば、三世紀には大和の勢力が九州におよんでいたとみなければならない。 つまり、問題は三世紀の九州と畿内・大和との関係であって、言い換えれば、大和政権がいつごろ九州を支配下においたかがわかればよいのである。 このことを知るには「古事記」や「日本書紀」など日本側の文献以外にたよるべき資料がない。 「記紀」を精読して年代を推測すると、北部九州が最終的に大和政権に服属したのは、四世紀の中ごろをさかのぼらない時期であった。 したがって、もし邪馬台国が大和政権であったとすれば、この時になって伊都国王が服属してきたのは不可解といわざるをえない。 このように考えれば、邪馬台国は畿内・大和でないことはもはやあきらかである。 つまり、倭国とは北部九州を中心とした一帯の、政治的まとまりをさすものだったのである。 いま、纏向遺跡という巨大遺跡が発掘されている地には、大和政権がその支配領域を格段に拡大した崇神・垂仁・景行の三代の間、王宮が営まれていたことをまず想起しなければならない。 崇神・垂仁・景行の王宮の位置については、「日本書紀」にそれぞれ磯城瑞籬宮、纏向珠城宮・纏向日代宮とみえるが、「古事記」には師木水垣宮、師木玉垣宮、纏向日代宮とあって、垂仁の王宮の所在地が師木(磯城)とも書かれている。 従って、崇神の王宮についても纏向にあった可能性が高く、結局この三代の王宮はそろって纏向にあったわけである。この場所から巨大な遺跡が出土したことの意議は重要である。 いま一つ注目すべきはこの遺跡からベニバナの花粉が発見されたことである。「日本書紀」には垂仁と景行の時代に、「赤い絹や布」の話が載せられている。 この時期には大和政権では赤の染色がおこなわれていたということであり、纏向遺跡から赤の染色に用いるベニバナ花粉が発見されたことはこれに符合する事実である。赤色と纏向という二つの共通項から、纏向遺跡は「日本書紀」の伝える崇神・垂仁・景行の王宮と推定することは論理的に有効と考える。 この遺跡からは、東海地方をはじめ、瀬戸内東部や山陰地方から搬入された土器が多く出土している。 この範囲は、まさに崇神・垂仁・景行三代の時代に大和政権に服属した地域に符合するのである。 若井予言はさらに詳細である、「ちなみに、文献から予想すれば、今後この遺跡からは、重複するか離れているかは別にして、しっかりした柵で囲われた三代の王宮が確認出来るであろう。 そして、それらのうちのすくなくともひとつでは建物の配置は太陽の運行に沿う形、おそらくは東西方向に主軸を設定した配列であろう」。 西洋考古学ではシュリーマンがホメロスの「イーリアス」を精読して、トロイア実在説をとなえ、その場所をヒサクルクの丘に比定、発見・発掘へとつながっていった。 さて、纏向遺跡と「若井予言」は今後どのように展開するであろうか、興味は尽きない。 |
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(岡野 実) | |||||
文献 1) 邪馬台国 九州と近畿 大阪府立弥生文化博物館図録44(2010,10) 2) 邪馬台国の滅亡 若井敏明著 吉川弘文館(2010,4) |
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