-倭と倭人(中国の文献から見た)- 
                                             第13回
 「倭とは日本の古代の呼び方であり、倭人は日本列島に住む古代の日本人である。倭と倭人に関して中国の古籍に豊富な記載があり、これらの記載は、古代の日本歴史と中国関係史の貴重な資料である。

しかし最近、日本の学界に、中国の古籍の中の倭、あるいは倭人について、拡大解釈の傾向が現れてきた。

日本の著名な学者である江上波夫、井上秀雄、国分直一、角林文雄、井伊章各氏などは、従来の定説に対して、広義の倭人論とも云うべき新説を提起した。
彼等の主張によれば、倭人は日本列島に住んでいただけでなく、朝鮮半島の南部、中国の東北、内蒙古、江南地方及び台湾から日本の南方の島々に至る地域にも倭人が存在していたとする。但し、これらの日本の学者の見解は一致していない。

彼らの主張をまとめると、渤海、東シナ海を中心にして、そのまわりに一つの倭人の世界が存在したようである」。

 北京大学歴史学部沈仁安教授は著書「中国から見た日本の古代−新しい古代像を探る」の中で上に引用したように述べ、広義の倭人論の主な根拠は、中国の古籍「山海経」、王充の「論衡(ろんこう)」と班固の「漢書」の倭と倭人に関する記述の中にあるとし、広義の倭人論の史料に対する理解にはなお検討の余地があるので、見解を述べるとしている。

 この著書は教授が北京大学を定年退職するにあたり、38編の代表的論文を一つに収録・編纂した「日本史研究史序説」の日本古代史部分の日本語の翻訳書であるとともに、補充として「近年の中国における日本古代史研究の動き」が追加されている。

したがって「中国から見た日本の古代」は、本の発刊された2003年までの中国における日本古代史研究の最も完全なまとめであると云って良いであろう。

 さて、倭と倭人に関する上に引用された三史料の関係箇所の要点は次のとおりである。

(A)蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す。 「山海経」
(B)成王の時、越常雉を献じ、倭人暢を貢す。 「論衡」
(C)海中、倭人有り。分れて百余国を為す。歳事を以て来り献見す、という。「漢書」

これらの史料中に出現する「倭」や「倭人」の解釈について、日本側の学者から、冒頭で述べたような「広義の倭人論」ともいうべき説がだされている。
しかし、沈教授はこのような「広義の倭人論」に対して、文献批判の立場から次のような否定論を述べている。

 まず、史料A の山海経は山川地貌・珍宝異物などを記述する古代の地理書である。著者ははっきりしないが、伝えられるところによれば、前漢の劉?が「山海経」を校訂し、18編を集めて広く世に伝えたという。

「山海経」第13「海内東経」には次のように述べられている。「海内の東北隅より以南のもの。鉅燕は東北隅にあり。蓋国は・・(A)前出」。

この史料が北方倭人説の根拠となっているのは「鉅燕」は中国東北地方の東北隅であり、それは主として現在の河北省に位置する燕ではないとしているところから始まる。

しかし、沈教授は文の前後から見れば、「鉅燕在東北隅」は、明らかに鉅燕は「海内東北隅」にあることを指し、東北の東北隅を指すわけではないと指摘する。
また、「鉅燕」とは燕国と関係のない別個の「鉅燕国」が存在していたのではない。
戦国・秦漢時代の古籍にしばしばあるように、秦、斉、趙、韓、魏、燕などの国名に「強」「弱」「大」などの修飾語を付してその時の国の強弱を形容しているのであり、「鉅」は「大」「強」と解釈すべきである(許慎:説文解字)。

燕の昭王の時代に燕国は強盛であって、領域は幽と遼とに広がっており、朝鮮をも服属させた。「史記」は「全燕」という語を用いているが「鉅燕」と同じ意味と思われる。
調べた限りでは中国の史籍には「鉅燕国」という名称およびそれにかかわる事項の記載は見られない。
このことから中国の東北、内蒙古に倭人がいたという北方説は否定される。

 次に、「蓋国」はどこか、漢の武帝によって置かれた四郡の考証より、玄兎郡西蓋馬県は朝鮮の域内にあったはずである。
蓋国は蓋馬大山を東に望む平壌城の付近、すなわち現在のピョンヤンのあたりである。

山海経は北から南へと、鉅燕(燕)、蓋国、倭という順序で記載している。
「倭属燕」の「属」は、その本来の意味として、「帰属」または「服属・隷属」と解釈すべきと思われる。

この属するは、直接統治または間接統治と理解する必要は無かろう。
古代人の目から見れば、往来や交通があったことも、王を仰ぎ慕って来朝する(王化)のであってやはり服属といえるのであろう。「倭属燕」はこのようなことと
解釈するべきであり、日本で燕国の明刀銭が出土していることによっても立証される。

 この本の巻末に解説を書いている古田武彦氏の分析によれば、「蓋国」の南(南方ではない)に当る「倭」は、現在の朝鮮半島の南半部(韓国)の称とみられる。

そこに住む住民は「倭人」であり、北部九州の倭人と同種。すなわち、海洋民族としての「倭人」は、朝鮮海峡の両岸に分布していたのであるとしている。
ということは広義の倭人論の一部を肯定していると云うことであり、この点において古田氏は沈教授と異なる見解を持っている。

 史料B「論衡」の著者、王充(紀元27〜97年ころ)は後漢の哲学者で、班固の父である班彪に師事した。

[論衡]は彼が精魂を傾けて、漢代の儒者の復古主義と宗教的神秘主義を批判した論著である。彼は、この著作の中で大量の歴史的事実を列挙し、その論
拠としているが、倭人に言及しているところが3ヵ所ある。

史料(B)を再掲すれば、「成王(周)の時、越常は雉を献じ、倭人は暢(ちょう)を貢いだ」。その他の2ヵ所では、暢を鬯草(ちょうそう)、秬鬯(きょちょう)とそれぞれ記載している。
暢は鬯草ともいい、厄を払うために飲む薬草、秬鬯は薬草を入れて醸造した酒である。

江上波夫はこの史料を南方倭人説の主な根拠として、鬯草が南方に産するから、そこにいる倭人が中国江南地方の倭人だと考えている。

中国内外の大多数の学者は「周成王の時、倭人鬯を貢ぐ」とは、史実とは信じ難いと見ているが、沈教授は王充の弁論の方法は実証を重視しているので、列挙した史料は確かな根拠のある歴史的事実であるとしている。

古代中国人の考え方において、四方来朝あるいは四夷来朝は王朝興隆のシンボルであった。
越常は中国南方の種族の一つで、倭人も南方というのでは四夷来朝という思想に合わない。

それ故、王充が云う倭人は東方の種族、即ち日本列島にいる倭人であったはずである。鬯草は九州の一部でも自生することは日本の学者により指摘されているので、この倭人は九州の人であったかも知れない。

ただし、周の時代には「倭」という名称はありえなかったので、「倭」は王充によって加えられたたと解釈すべきである。王充の時代に、日本列島に住む人
を指す呼称として「倭」が広く一般に認められた。

王充は日本列島にいる人が周の王に鬯草を貢献したという事実の上に、[倭]という習慣的呼称を付け加えたにすぎない。

 これで「江南倭人説」を否定したわけだがたが、もう一つの倭と江南の関係を示す史料である、弥生時代の渡来者集団が「その旧語を聞き、自ら太白の
後と謂う」(魏略)としていることについては、沈教授は南方の民が日本に移住した事実を反映しているのであろうとし、科学的考証が必要としつつもその
伝承は認めている。

 炭素14年代測定法の結果による弥生の開始年代の遡及、すなわち北部九州の一角で水田稲作が始まった夜臼I 式の年代は、BC1000年ころまで遡る可能性が出てきたことを踏まえ、古田武彦氏は問題の「倭人による鬯草貢献」の件は、同じく「周初」(BC1000年前後)のことであるから、この倭人が北部九
州の住民であった可能性が高まったと考え、その時代に「周〜倭」の交流があったとみる、沈教授の文献分析は的確であるとしている。
中公文庫『日本の古代1・倭人の登場』によると、中国の文献『論衡』による、次の文章を紹介している。「@周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草(ちょうそう)を献ず (異虚篇第18) 。A成王の時、越常雉を献じ、倭人暢を貢ず (恢国篇第58) 。B周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草(ちょうそう)を貢ず (儒増篇第26)」 。
さらに、「鬯草というのは異虚篇の先の文章につづいて熾醸し、芬香暢達す可き者、将に祭らんとして、灌暢して神を降す*割を果たすもので、山田勝美氏はその部分を、鬱鬯酒をかもし、よい香りをぷんぷん遠くまでにおわせるもので、お祭りのときに注いで神降ろしをするものである≠ニ通釈している。」と引用・説明している。そして鬯草については、「要するに酒に関した、それも宮廷での必需の品であった点にかわりない。」と結論づけている。

 史料C は朝鮮半島南部倭人説の主な根拠である。
「楽浪海中に倭人有り」は朝鮮半島南部倭人説の主な根拠である。しかし、「海中」とは「海にある」という意味そのものである。

C の前文で、孔子は道が行われないと嘆いて、海を渡って九夷に行こうとし、これに続く後文に「楽浪海中に倭人有り」とでてくる。

これは孔子の行こうとした九夷が楽浪海中にある倭人のところであったことを暗示しているように思われる。

沈教授は倭人が百余国に分かれて、朝鮮半島南部の小島にいるはずはないので、日本列島にいる倭人を指す筈であるとし、朝鮮半島南部の倭人の存在を否定している。
しかし、解説の古田氏は「倭人」を日本列島に限局することは適当でないとし、その根拠として別の史料を取り上げ、
@魏志韓伝に「東西、海を以て限りと為し、」とあり、南は倭地であるため南岸部を限りと述べていない。

A高句麗好太王婢に「倭人その国境に満ち」と述べている国境は新羅と倭の「国境」であると述べ、3〜5世紀の間に朝鮮半島南半部の中に「倭地」の存在したことは明らかであるとの意見を本書の末尾解説欄で開陳している。

 中国の学者の古籍の用語(漢字)の概念分析はさすがに綿密で、問題用語・記述の文献分析も的確であるように思う。
あまりに綿密で「古代史に遊ぶ」ということからいえば、遊びのない点に難がある。
「遊び」としては魅力的な広義の倭人論を真っ向から否定しているが、それを古田氏が文献批判の同じ手法で巻き返しているのは救いである。

更に付言すれば、倭への渡来は中国江南地方から九州西北部への直接ルートのあった可能性は高く、渡来ということなら中国東北、内蒙古、また南の島々もありうるのではないだろうか?
(岡野 実)
    文献 中国から見た日本の古代−新しい古代史像を探る 沈仁安著、藤田友治・美代子訳    ミネルヴァ書房 (2003)


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