-倭人とその王朝の出自(日本=百済説)- 第14回 |
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さて、前回「倭と倭人」をまた第7回で「渡来人とはなんだろうか?」を論考しているが、今回は角度を変えて同様の問題を論ずることにする。 実際、この問題は古代史の骨格を成す部分であるので遊ぼうとすれば種は無数にあり、「日本人はどこから来たか?」などについて行きつ戻りつ何度も触れて楽しむことは当然と思う。 日本海が現在の形になったのは、一万二千年ほど前に、朝鮮半島と北九州を結ぶ陸橋が水没して、対馬海峡となって以来で、対馬や壱岐などの諸島が水面上に残った。 これは長くつづいたウルム氷河期が終わり、現在われわれが生活している第四間氷期が始まったからで、地球はより温暖となり、長く閉ざされていた海域や川口や湖の氷結が解けた。 海進現象によって海が広がり、沿岸部が縮小して、汀線の大移動が進んだ。対馬海峡からは黒潮の分流が入ってきて津軽海峡へと流れ、列島全土に青い緑が戻ってきた。 半島と北九州を結ぶ陸橋が存在していたころ、大鹿を追って北京原人の子孫が、中国大陸の突起部分である朝鮮半島から、あるいは樺太まわりで、陸橋を渡ってきた。列島の各地でそんな日本原人と称される人骨がみつかっている。 仙台の秋保温泉、北関東の岩宿遺跡、浜名湖の三ヶ日遺跡、豊橋市の牛川遺跡、大分県の丹生遺跡などである。 温暖化とともに、南方系の動植物が北上を始めた。縄文海進によって、日本列島の各地で黒潮に乗ってやってきた南方系の人たちも住みつくようになった。 照葉樹林帯に棲み、栗やドングリを拾って水にさらして食料としたり、芋を掘ったり、果実酒を醸したりまた狩りをしたりしていた縄文人が、次に大きな変革を経験するのは、南方、長江流域、朝鮮半島を経由する稲作の渡来によって、コメづくりが始まったことである。 中国の春秋・戦国時代の戦乱により、中華から多くの人・物・技術が東方をはじめ、各地域に伝播し、列島でも弥生時代が始まった。 倭地への稲作農民の渡来は長期に亘る波状的なものであり、徐々に高度の水田耕作技術を持つ集団が朝鮮半島から、また半島を通って渡来してきた。 弥生時代前期末には青銅器が到来し、中期以降には鉄器がもたらされ、より大規模な農耕の時代へと進んだ。稲作には地域の共同作業が必要であるが、収穫の吉凶を占う卜者や実務の命令者を核とする支配体制がまず九州に現れた。 半島から舟で潮流に乗れば、北九州、山陰海岸から北陸地方へ漂着することはそれほど困難なことではない。様々な理由で数え切れないほどの小集団が新天地を求めて、列島に漂着し新生活をはじめた。 そして代を重ねつつ先住者と混血し、部族の規模の国が作られていった。 中に炉を切った半地下式の住居群と、高床式の高殿をもつ宮室をぐるりと囲んで守る環濠集落、そのまわりには船の着く川があったり、倉庫群や墳墓地も設けられ、集落の要所に楼閣が建って、見張りと防衛の役目を担っている。これが国の原型で吉野ヶ里遺跡はその典型である。 2世紀の後半から3世紀の前半が、邪馬台国と卑弥呼の時代とすると、4世紀は三輪山の南西麓に起こった勢力、崇神王朝という通称で呼ばれている大王や、名前は伝わっていないが、前期の前方後円墳を残した人たちの繁栄が奈良盆地の南部に見られた。 それにすこし遅れて興ったのが、神功皇后と応神天皇の母子にはじまり、仁徳天皇につながる河内王朝である。 巨大古墳と「記紀」の記載以外には、仁徳以下の諸大王の存在した記録は乏しく、空白の5世紀とも云われている。 ただし中国の史書に「倭の五王」の記載があって、倭人の國に五人の連続する王がいて、中国南朝に朝貢外交をつづけていたという事実の記載がある。 6世紀には河内王朝の継承者とされる継体天皇から、その子欽明天皇へとつながる飛鳥王朝が始まる。 この飛鳥王朝が日本の統治者、主権者となったのに引き替え、繁栄を誇った出雲・吉備などの他の地方王朝は、やがて中央(飛鳥)王朝に吸収・征服され消滅していった。 継体天皇(男大迹王)は、二つの王朝を自らの体で継いだ、ブリッジの役割を史上で担わされているが、しかし、その実態は今一つよく分からない。 九州王朝の王であった磐井との戦いを経て、王朝らしい姿になるのは、欽明天皇以後と云うことになる。 2011年4月1日に「日本=百済」説という本が発刊された。著者の金容雲氏は1927年東京生れの韓国を代表する数学者で、文化比較論の大御所、その「日本=百済」説は倭王朝画期の大王の出自についてユニークであるのでまずそれを中心とし紹介しよう。 数万年前、古モンゴロイドが半島に流入し、その一部が日本列島に渡った。中国東北部から北回りして樺太あたりから南下した者もいたと思われる。 明らかに彼らは、現日韓人の共通の祖先の一部と見なすことが出来る。 朝鮮半島への民族移動は日本列島へよりも多彩である。紀元前10世紀ころから、長江の河口付近に棲んでいた稲作民は、呉と越に分かれ戦い続け、呉が敗れた結果、追放された民の多くは大陸沿岸地域を北上し、山東半島付近を経て朝鮮半島へ渡った。 その一部が海を渡り、九州北部にも進出し、弥生時代を開くことになる。彼らは半島の西南海岸一帯と北九州の一部地域に支石墓遺跡が残した。 それとは別に、大陸からアルタイ語を使う群が、遼河付近から半島の西海岸に沿って南下した。 一方、中央ユーラシアのスキタイ地区からの人々が、シベリア付近を経て半島東部に入ってきた。 さらに中国の春秋・戦国時代の戦乱は民族移動を加速させ、その一部が半島経由日本列島へも流入した。また、現在の吉林省に本拠を置いた扶余系の騎馬遊牧民族の南下もあった。 このように朝鮮半島は、ユーラシア大陸諸民族を融合させる場所となっていた。 |
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弥生時代の幕開けは半島からの稲作民の移住に始まったが、その後、弥生後期や古墳時代となると、組織的な騎馬民族の列島への渡来は征服的な性格に変わっていった。 騎馬民族は情報に敏感で、良い土地を求めて征服し続ける本能的習性をもっている。紀元前3,4世紀ころ、中国大陸の戦乱のため多くの人が朝鮮半島に入り込み、トコロテン式に半島にいた稲作民の多くが、列島に渡り新天地を開拓していった。 その後を追うように騎馬に長けた集団が列島に渡り農耕社会を支配した。このような移動と征服形式はすでに朝鮮半島でも体験されていたことである。 古代南韓つまり、漢江以南の記録をした中国史書には、三韓(馬韓・弁韓・辰韓)以前に南韓一体を支配した辰国の民を「流移の人」と表現し、移動する騎馬民族の性格を示している。 遊牧には不適当な韓半島に流れ込んだ騎馬遊牧民は、先着農民の上に乗り国作りをするうまさを味わった結果、ゆるい組織の部族国家をいくつも束ねる古代国家が形成されることとなった。 農民にとって騎馬民族の支配者は、ちょうど用心棒の様な存在でもあった。このようにして国づくりされた三韓において、王となることは誰でも出来ることではなく、武力とそれなりの出自を持っている必要があった。 さて朝鮮半島から日本列島への経路は、地理的条件により大きく三つに分けられる。 即ち西側の九州西南部では馬韓・百済から、東側の九州の北東部では辰韓・加耶から、さらに東の出雲では日本海を渡海してくる辰韓・新羅が勢力圏を形成していた。 さて、列島に渡った集団が新天地に進出しているうちに、加耶は本拠地勢力が新羅と百済の侵略を受けて、連合体から国家を形成することが出来なかった。 その代わり日本列島に最も近いという特性を生かして、かなり早い時期から日本列島に分国を樹立していった。 加耶のなかの大加耶は鉄の生産地であり、倭人も大いに交易に加わっていた。 加耶の建国神話はイザナギ・イザナミと通ずる点があり、大加耶一体の地名も九州の地名と共通の物がある。 また、加耶諸国で出土した遺物と日本の古墳の発掘物には多くの同系統の物が含まれている。 第一期の大王家の始祖・崇神は加耶系と考えられる証拠が多々あり、畿内に定着して間もなく、騎馬民族の習性どおり四道将軍を派遣し征服事業を進めたのがその一つ。 第二期王朝を開くことになる応神の出自に関しては、複雑なので簡略化して述べるが、扶余族系の百済を構成する分国(兄弟国)百残と利残のなかの、利残が高句麗の広開土大王碑の碑文にあるように高句麗水軍に撃破されてのち(AD391)、列島に渡りその九州における分国である狗奴と合流して畿内に進出、応神王朝が樹立された。 そのあと、弓月の君が120県の百姓を、阿知使主とその息子が17県の百姓を率いて列島に渡る民族大移動が起きている。次の王朝の代変わりとされる継体には以前から、韓半島から渡ってきたという説があった。 継体は形式的な即位以前から実質的な倭王としての行動、即ち親百済政策をとり、百済系豪族の強い支持を受けていた。継体は新羅攻撃のため6万の大軍を九州に送り、それを妨害した新羅の分国磐井と戦い、継体の後継者もすべて親百済路線であった。 結論として、継体は日本書紀に書かれている百済王子昆支と同一人物であると金氏は述べている。 金学説は全てが、これまでの日本史学の定説と異なり、画期の大王の出自をすべて半島としている点で戸惑いを感ずるが、一方古代史の文献資料としては最古の「記紀」の記事を大いに引用して論じている点は注目に値するところである。 金氏は日本では一時大いに注目されたが、考古学的に否定された騎馬民族国家説(江上波夫)を重要視している。 江上説を気に入っている私としてはそれは大変結構と思う。紹介したことの他にも、日本書紀のタブー、倭の五王、脱百済、原型史観などおもしろい論点が提示されているので、いずれ改めて論評したいと考えている。 |
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(岡野 実) | |||||
文献 金 容雲 「日本=百済」説 (原型史観でみる日本亊始め) 三五館(2011) |
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