-継体天皇(ヲホド王のち大王) その3- 第21回 |
||||||
4月中旬(2012)北陸道・木の本ICから観音の里を南下し、伊吹山西麓の「ヲホド王」ゆかりの坂田・息長の地を訪ねた。前年には高島(三尾)、越前を訪ね、本稿第19回の「その1」で報告している。今回、湖東のこの地では気候不順により開花が遅れたため、満開の桜を各所で愛でる幸運に恵まれ、遺跡の探訪だけでなくお花見(特に京極家墓所徳源院の道誉桜)を大いに楽しむことが出来た。(参考写真 道誉桜)
これら古墳の前者を坂田君、後者を息長氏のものとする考えも提唱されているが、4世紀末からこのような氏族名があったとは、ちょっと考えられない。二つの古墳に葬られた首長はもと同族であって、最初の本拠地の長浜垣籠に止まった宗家が坂田君となり、息長地区に南下した支族が息長氏となったのではないかと推測される。氏族が分家的に拡大する例は蘇我氏など畿内の有力豪族にも見られるところである。 「継体の謎」、継体新王朝論あるいは地方豪族出身説は戦後一世を風靡したが、その反論として「釈日本紀」の引く「上宮記一伝」の系譜の史料批判から、応神五世孫という王統譜の欠損部が埋まり、またその信憑性も裏付けられたとされている。その結果、息長氏出自説には根拠がありとみとめられて、王統譜母系に深く関わる息長氏は単なる地方豪族ではなく、ヲオド王には大王として認められるだけの血統の裏付けがあったという見解も出ている。地方豪族出身の英雄が風雲に望んで、新王朝を開いたとすれば、素人には誠に楽しい話題であるが、日本の古代史は記録の作為も加わって、その解釈は難しいものがある。
|
||||||
広大な琵琶湖とその琵琶湖に注ぐ諸河川は、湖西、湖北、湖東、湖南のそれぞれに豊穣な平野を発達させ、古代より豊かな生産力を保持するとともに、近江が若狭・越前・美濃・伊賀・山背の諸国と接していることから、畿内とこれら地域とを結ぶきわめて有効な交通手段を提供してきた。ヤマト王権が日本海地域や東海地域への進出、さらに朝鮮半島への進出にあたって、この琵琶湖の水運手段の掌握は極めて重要な課題であったと考えられる。そのための湖上ネットワークの実現がヤマト王権の重要な施策のひとつであったのである。 この特別展では継体大王の出現を契機に起こった古墳の変化、すなわち、それまで顕著な古墳の築かれなかった地域、また前方後円墳を築けなかった古墳群において、突然前方後円墳が築造されるという現象が六世紀前半に起こったことを取り上げている。これらの古墳は舟運の要衝あるいは港湾の位置を見下ろす位置にあり、また港湾施設の一部といっても良いような場所に築かれていることから、河川及び湖上水運を掌握して大王を支えた各地域の王墓であろうと考えられる。これら古墳の個々の詳細と出土品が相互に比較検討できるような興味深い形で展示されていた。 古墳時代の船の資料として展示されていた新開四号墳出土船型埴輪(栗東市安養寺)は、当時琵琶湖で実際に使われていた船を端的に示す資料であるということに異論はないが、その乗船可能人数を50〜60人とすることは納得し難く、古代の船については別途改めて論考したいと考えている。 |
||||||
(岡野 実) | |||||
写真は吉本吉彦氏の撮影、転載をご許可頂いたことに感謝申し上げます。 | |||||
|
|||||
トップへ戻る |
古代史に遊ぼうメニュ−ヘ |
||||
All contents of this Web site. Copyright © 2003 Honnet Company Ltd.,All
Rights Reserved ・ |