-継体天皇(ヲホド王のち大王) その3- 
                                             第21回
  4月中旬(2012)北陸道・木の本ICから観音の里を南下し、伊吹山西麓の「ヲホド王」ゆかりの坂田・息長の地を訪ねた。前年には高島(三尾)、越前を訪ね、本稿第19回の「その1」で報告している。今回、湖東のこの地では気候不順により開花が遅れたため、満開の桜を各所で愛でる幸運に恵まれ、遺跡の探訪だけでなくお花見(特に京極家墓所徳源院の道誉桜)を大いに楽しむことが出来た。(参考写真 道誉桜)

●道誉桜
 さて今回の目的地は姉川の上流沿い、伊吹山の 4.5km西の長浜垣籠(かいごめ)古墳群からである。5世紀前後の古墳群だが、その中の長浜茶臼山古墳は全長95m、群中最大の前方後円墳で、4世紀から5世紀にかけて、このあたりに大きな勢力があったことがうかがえる。垣籠古墳群から10kmほど南の天野川の北方に船崎山(息長)古墳群がある。 5世紀末から、6世紀にかけての古墳群で、その中の能登瀬に全長43mの前方後円墳・山津照神社古墳があり、華麗な鏡、馬具、玉、刀子、直刀などが出土し、高島市の鴨稲荷山古墳や野洲市円山・甲山古墳と並んで、6世紀の近江の代表的首長墓とされている。(写真1、2、3、吉本吉彦氏撮影)
これら古墳の前者を坂田君、後者を息長氏のものとする考えも提唱されているが、4世紀末からこのような氏族名があったとは、ちょっと考えられない。二つの古墳に葬られた首長はもと同族であって、最初の本拠地の長浜垣籠に止まった宗家が坂田君となり、息長地区に南下した支族が息長氏となったのではないかと推測される。氏族が分家的に拡大する例は蘇我氏など畿内の有力豪族にも見られるところである。
「継体の謎」、継体新王朝論あるいは地方豪族出身説は戦後一世を風靡したが、その反論として「釈日本紀」の引く「上宮記一伝」の系譜の史料批判から、応神五世孫という王統譜の欠損部が埋まり、またその信憑性も裏付けられたとされている。その結果、息長氏出自説には根拠がありとみとめられて、王統譜母系に深く関わる息長氏は単なる地方豪族ではなく、ヲオド王には大王として認められるだけの血統の裏付けがあったという見解も出ている。地方豪族出身の英雄が風雲に望んで、新王朝を開いたとすれば、素人には誠に楽しい話題であるが、日本の古代史は記録の作為も加わって、その解釈は難しいものがある。

●写真1 茶臼山古墳
しかし、この時期は王権分裂の危機にあったことは確かである。ヲホド大王の即位後の支持勢力は越・近江・尾張などの豪族連合に畿内豪族では大伴・物部両大連、和爾氏などで、一方、大王の大和入りに反抗したのは平群、蘇我、葛城、三輪君をはじめとする大和の先住豪族であった。ヲホド大王が畿内豪族とにらみ合っているとき、北九州で勢力を伸ばしていた筑紫国造磐井が挙兵した、磐井こそはまさしく大王たらんとする大望をもって挙兵したのである。瀬戸内海から関門海峡経由で朝鮮半島と交易などの繋がりを保っていた畿内豪族にとって、磐井に瀬戸内海ルートを抑えられてしまうことは、権益上の大損失であった。各豪族の利害関係が一致した結果、智謀の蘇我稲目が和平交渉に乗りだし、ヲホド大王を磐余に入れて和平を成立させ、畿内勢力は一致団結して磐井に当たることになったとされている。大王の命令で磐井と戦ったのではなく、畿内豪族の自発的意志で団結したらしいことが大変面白いところである。この局面でリーダーシップを取った蘇我氏は、その後急速に勢力を拡張していくことになった。
●写真2 山津照神社  ●写真3 山津照神社古墳

 本年(2012)の4月から6月まで、滋賀県立安土城考古博物館において、「湖を見つめた王−継体大王と琵琶湖」と題する特別展が開催された。その目的は、東西を結ぶ交通の要衝である琵琶湖における水上交通は、継体大王の登場によって完成したことを、古墳時代の交通関係の実態から明らかにすることにあった。琵琶湖は二つの交通が交わる要衝の地である。西は政治・経済・文化の中心である畿内に接し、東に向かって東国へと結ぶ通過点となっている。そして、北は大陸文化の伝来する日本海側で、琵琶湖を通過して太平洋側を結ぶ最短の経路であり、水上交通を使用して物資を効率的に輸送することができるという大きな利点がある。

広大な琵琶湖とその琵琶湖に注ぐ諸河川は、湖西、湖北、湖東、湖南のそれぞれに豊穣な平野を発達させ、古代より豊かな生産力を保持するとともに、近江が若狭・越前・美濃・伊賀・山背の諸国と接していることから、畿内とこれら地域とを結ぶきわめて有効な交通手段を提供してきた。ヤマト王権が日本海地域や東海地域への進出、さらに朝鮮半島への進出にあたって、この琵琶湖の水運手段の掌握は極めて重要な課題であったと考えられる。そのための湖上ネットワークの実現がヤマト王権の重要な施策のひとつであったのである。

この特別展では継体大王の出現を契機に起こった古墳の変化、すなわち、それまで顕著な古墳の築かれなかった地域、また前方後円墳を築けなかった古墳群において、突然前方後円墳が築造されるという現象が六世紀前半に起こったことを取り上げている。これらの古墳は舟運の要衝あるいは港湾の位置を見下ろす位置にあり、また港湾施設の一部といっても良いような場所に築かれていることから、河川及び湖上水運を掌握して大王を支えた各地域の王墓であろうと考えられる。これら古墳の個々の詳細と出土品が相互に比較検討できるような興味深い形で展示されていた。

 古墳時代の船の資料として展示されていた新開四号墳出土船型埴輪(栗東市安養寺)は、当時琵琶湖で実際に使われていた船を端的に示す資料であるということに異論はないが、その乗船可能人数を50〜60人とすることは納得し難く、古代の船については別途改めて論考したいと考えている。
(岡野 実)
    写真は吉本吉彦氏の撮影、転載をご許可頂いたことに感謝申し上げます。


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