-継体天皇(ヲホド王のち大王) その4- 
                                             第22回
  大阪府高槻市は今城塚古墳を「いましろ大王の杜」史跡公園として整備し、史跡発掘の成果を展示する今城塚古代歴史館と共に2011年4月にオープンした。その7月に訪れた時は、大勢の見物人で混みあっており、また真夏とあって、古墳史跡公園を一周するにはちょっと辛い暑さであったので、呼び物の埴輪祭祀場の見学にとどめて引き上げた。そんなことで二度目は秋の好日を選んで再訪し、歴史館の見所を再確認することと、前回果たせなかった古墳一周の散策をすることを目指した。
 歴史館ではまず線刻で二本柱の舟が描かれた円筒埴輪がじっくり見るべきものであり、これが今城塚のシンボルとされている。海人系氏族に推戴された継体大王らしい文様である。その横に淀川で使われていたという二枚帆の構造船(?)模型が展示されていた。線刻舟との関係や、どの時代のどういう資料に基づいて作ったのか、説明がついていないのが不満であった。もう一つのチェックの対象は、阿蘇ピンク石製の石棺である。発掘調査の際に、三種類の石棺の破片が出土し、それらはいずれも凝灰岩で奈良県、兵庫県及び熊本県産であることが判明した。そのうち熊本県産のピンクの阿蘇溶結凝灰岩の産地は、宇土半島の基部の馬門である。この石で作られた石棺は、なぜか九州では使用されず、巨大な石棺は船に乗せられて、近畿に運ばれてきた。今城塚古墳を始め、六世紀前半のヤマト王権中枢部の古墳に直接的かつ集中的に持ち込まれている。九州の首長連合がなぜか巨大石棺を、有明海から東シナ海・玄界灘・瀬戸内海を経由して送り届けていたのである。)

●写真1 今城塚 埴輪近影
 史跡公園として整備された古墳は、オープン後に四季を経て、植生などが写真1に示すように落ち着いてきている。写生をする人、散策する人などが散見され、少々風の強い日であったが、墳丘の風下はポカポカとのどかであった。発掘され再現された、国内最大規模の埴輪祭祀区は、やはりこの古墳の白眉であり、資料館で観るミニアチュアと異なる迫力であった。写真2。散策しながら遠くで聞こえる、遠足にきた幼稚園児の歓声は微笑ましいものであり、宮内庁のように御陵を厳重に管理するだけよりも、選択して発掘調査を行った上、史跡公園として整備開放する方が、国民が天皇家に理解と親近感をもつという観点から、得策なのではなかろうかと考えられる。
 継体天皇の崩年には三つの異説があるが、別の機会の論ずることとし、ここでは大王は磐余玉穂宮でなくなり、三島の藍之陵に葬ったとあることだけを取り上げる。摂津の三島には太田茶臼山古墳と今城塚古墳の二つの巨大前方後円墳が所在している。
その太田茶臼山古墳は茨木市の段丘上に立地し、前方部を南東に向ける前方後円墳である。全長226m、後円部径135m、前方部幅147m、高さ20mと測定され、墳丘は三段築成で、左右のクビレ部に造出を有している。周濠が巡り、後円部の周濠外側には円筒埴輪列が見出されている。出土埴輪は新池埴輪製作遺跡A群窯(高槻市)の制作のものである。円筒埴輪を始め、人物埴輪、馬型埴輪、須恵器器台などが出土しており、考古学的に五世紀半ばから後半のものと判定されている。この古墳は宮内庁によって、継体天皇陵に比定されているが、年代的に被葬者は継体その人ではなく、その祖父か曽祖父の世代に当たる古墳である。

●写真2 今城塚 前方部から
 今城塚古墳は太田茶臼山古墳の1.5km東の淀川北岸・高槻市郡家新町に所在する。全長186m、濠を含めた長さは350mにも及ぶ。段丘平坦面に立地し、二重の濠が巡っていて、前方部は北西方向に向けている。円筒埴輪、家形埴輪、挂甲武人埴輪など新池埴輪窯(C群窯)の製品が多数出土し、また、墳丘上からは三種類の凝灰岩製石棺の破片などが出土している。これらの年代観から、六世紀前半に築造されたことが明らかになり、考古学的には継体天皇の陵墓と見て間違いないとされた。その後の調査により、国内最大規模の埴輪祭祀区の全容が明らかになった。祭祀区遺構は古墳の北側の内堤から張り出す東西65m、南北6mのステージに、大量の人物埴輪、動物埴輪、家型埴輪などが、円筒埴輪・柵型埴輪で区画された5つのブロックに整然と配置されている。こうした埴輪祭祀場は、これまで関東を中心に発見されているが、近畿の大王級の古墳からは初めての発見であり、これも継体大王墓であることを裏付ける証拠であろう。(図 今城塚古墳)
●今城塚古墳の復元と埴輪祭祀場の位置図 
 摂津三島に継体が葬られ、少なくとも五世紀中頃と六世紀前半に作られた二基の巨大前方後円墳が所在することは、この地が大王家につながる有力な王族・氏族の本拠地であることを示している。しからば、この地に本拠を構えていていたのは誰なのであろうか?高槻市東部の桧尾川の扇状地は、弥生前期に三島地方で最初に稲作が始られた土地である。ここに弥生時代の環濠集落が存在し、集落は弥生時代を通じて3ないし5段階を経て、発展消長し存在し続けた。北九州から流入した多くの出土品が見出されているし、近江高島産の石で作られた石包丁も出土している。この集落を見下ろす山の調査で発見された三世紀半ばの古墳は、長大な木棺を収めており、安満宮山古墳と命名された。棺内には、青銅鏡5面をはじめガラス小玉を綴った装飾品、刀、斧などが副葬され、並々ならぬ重要人物が埋葬されていたことが明らかになった。最も注目されるのは、青龍三年(235)銘を持つ方格規矩四神鏡が、古いタイプの三角縁神獣鏡とともに出土したことである。これらの鏡は魏王が卑弥呼に印綬とともに与えた、100枚の鏡の一部である可能性が強い。安満と呼ばれる名前は明らかに海人族であり、継体を強力に支持していた和邇氏の前身ではないかと考えられる。和邇氏は鰐のトーテムを奉じて江南(越)から渡来した海人族であり、その後、多くの支族を派生し、日本海から琵琶湖、さらに瀬戸内海・太平洋に通ずる水運を抑えた継体を支える勢力となった。近くある淀川堤の三島鴨神社は、物部氏によって渡しの神として、最初、御島(三島)−淀川の中之島−に奉斎され、その後、現在でははるかに有名な伊予大三島の大山祇神社、伊豆の三島神社の二者はこの地より勧請された。三三島と言われるというが、大元とはちょっと釣り合いの取れない存在になってしまった。物部氏も水運に関わる海人族であり、さらに加えて摂津に縁のある鎌子の中臣氏も、また海上交通の守護神を鹿島で奉斎しているということである。
(岡野 実)
  


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