-継体天皇(ヲホド王のち大王) その5- 第23回 |
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継体天皇の崩年には三つの異説がある。まず、古事記は「527年(丁未)、43歳でなくなり、御陵は三島の藍之御陵である」とし、日本書紀には「531年(辛亥)、磐余玉穂宮でなくなった。年82。藍之陵に葬った。」とあり、さらに書記の分注には、「ある本に‘天皇は甲寅年(534)になくなった’という。だが本文に辛亥年(531)崩御とした理由は、次の百済本記の説を取ったためである。その文に曰く‘辛亥年(531)3月、軍は安羅に進んで乞屯城に営した。この月に高麗はその王の安を殺した。また聞くところによれば、日本天皇、太子、皇子はともになくなった’」と記載がある。 この問題については、明治以来いろいろな説が唱えられているが、井上光貞氏は次のように整理している。百済本記の「日本天皇」は継体、「太子、皇子」は継体とともに越前から大和にきた安閑とその同母弟、宣化のことである。また、三人が「ともになくなった」というのは、継体の死と同時に、安閑が皇位からはずされ、おそらく宣化も政治的に葬られた事実が、三人の死亡と百済がわに誤伝され、記録されたものであろう。継体天皇の死後、安閑・宣化を追った勢力が、母が皇統につながる欽明の即位をはかったことは事実であり、後世、この時に欽明が即位したという所伝もおこなわれている。だが、日本書紀がはっきりと空位としているように、安閑・宣化を推す大伴金村の一派と欽明を推す他の一派とが争い、両派が対立して三年間空位の状態にあり、やがて妥協がなって、534年以降六年にわたり安閑・宣化二帝が在位し、老人の二人が相ついで世を去ったので、欽明の即位が実現したのであると解される。すなわち、一つの朝廷の中で二派の勢力が皇位継承にからんで争ったのであり、中世の南北朝時代のように二つの朝廷が戦ったという証拠はひとつも残っていない。この皇位継承の争いの裏には、朝鮮半島との外交・経営(任那)の失敗がある。強硬な軍事的外交を主導していた大伴金村と、新興勢力の蘇我稲目が争い、その結果大伴氏はこのあと大和朝廷の政権の座から没落してしまうのである。 さて、もとに戻って継体天皇の登場は「記紀」のいうように、武烈の死後、王統断絶の緊急事態の中で、初めてヲホドの存在が明らかになったということではなく、それ以前から、ヲホドは近江・美濃・尾張など各地の有力豪族との提携を進めるとともに、大和政権内部の有力豪族とも連携していたと考える説もある。
この人物画象鏡の銘文の釈読・解釈については長い研究史があるが、ここでは、次の読み方・解釈を紹介する。すなわち、銘文は「癸未の年(503)8月、日十大王の年、は男弟王(ヲホド王)が意柴沙加宮(オシサカ)にいます時、斯麻(武寧王)は男弟王の長寿を念じ、開中の費直と穢人今州利の二人に上質の白銅二百旱を使って、この鏡を作らせた」と書かれている。日十大王をヲシ大王と訓じ、「書記」がその名を「大石」(オオイシ)、「大脚」(オオシ)とする仁賢天皇のこととする。斯麻については、武寧王の陵墓出土の墓誌に「斯麻王」とあったことから、武寧王としている。日本でこの同型鏡は12面も出土している。このことから、大和政権の有力豪族和邇氏のバックアップにより、ヲホドは畿内中枢へ意外に早く進出していたのではないかという、「記紀」の記述とは異なる隠された史実が浮かび上がってくる。雄略の死後、清寧・顕宗・仁賢についての「記紀」の記述は不自然な点が多く、継体の出現についても、作為の跡が感ぜられるのである。
日本書記は継体朝について、「百済本記」を盛んに引用して書かれているが、応神王朝の後半にすでに兆候の見えていた朝鮮経営の破綻の傷口が広がり、継体の治世にデッドロックに乗り上げたことがわかる。大和政権は百済の言い分を聞き、次々に譲歩するという対応を行い、加耶諸国はこのことに大きな不満を抱いたという。韓国の数学者、金容雲著「日本=百済」説という興味ある本があり、真偽はともかくとして、これまでの日本史とは全く異なる視点が特徴である。そこで論ぜられている継体の出自の要点を次に様に紹介する。 ○ 倭国には渡来人が故国と繋がりを保っているニュ−百済などのような入植地(分国)があり、時にはたとえば倭・ 百済連合のような行動をとっていた。 ○ 森浩一氏は「継体大王と渡来人」(上田正昭共編)の中で、井上光貞氏(当時、東大教授)は継体を渡来人である という強い心証を持っていたと述べている。 ○ 継体が即位して、最初に宮を置いた樟葉(大阪府枚方市)は百済系の本拠地である。 ○ 継体は百済の王子昆支(コンチ)ではないか? 継体の倭名「ヲホト・オオト」は漢字では「大人」、「コンチ」の「チ」 は人のことで、「コンチ=クンチ」で「大人」を意味する。 継体と同じ名前の昆支は同じ時期に枚方に在留してい た。 ○ 百済贔屓は天智(息長系)の代に百済が滅びるまで、継体の後も続いた。(白村江の戦い) 謎めいたことが次々出てきて、尽きるところがないところが、継体問題の面白い所であるが、ここら辺で一休みすることとしたい。 |
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文献 1)日本の歴史 @ 神話から歴史へ 井上光貞 中公文庫(1986) 2)「日本=百済」説 金 容雲 三五館 (2011) |
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(岡野 実) | |||||
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