-神話と謎の熊野紀行 その2- 
                                             第28回
 新緑の熊野を目指して、5月連休明けにドライブ・ツアーを行った。熊野に行きたいということは「熊野・大和幻視行」(2008)を朝日新聞で読んで以来、長い間の懸案事項であり、特に2011年9月に台風 12号の集中豪雨のために実行寸前で挫折したのは残念であった。この時は何しろただでさえ雨の多い紀伊半島で、1年分の雨が3日間で降ったというのだから、各所で山崩れによる土砂ダムが出来るという国内最大級の豪雨被害を蒙った。その時から仮設住宅への避難が現在も続いている地区がまだあるという。被害や復旧工事あるいは対策工事の詳細は紀伊山地砂防事務所のホームページ(http://www.kkr.mlit.go.jp/kiisannchi/)に収載されており、工事は2016年度までかかると云うことである。

 往路は奈良県五條市から十津川街道(国道168号)を南下した。山々は新緑に包まれてはいるものの、特に目につくのは水害の跡で、山の頂上から谷まで斜面が岩盤ごと崩れた「深層崩壊」が、街道の至る所から見られた。最大のものは流出土砂が京セラドーム12杯分(約1,400万立方メートル)にも及ぶと云うことである。そうした山の斜面は岩や土がむき出しで、なぎ倒された木々が根っこを見せ、また川の水位が上がった痕跡を、流路に沿ってはっきりと認めることが出来る。しかし、復旧工事も着々と進んでおり、トンネルや新道の出来上がっているところも多く、この街道のドライブは以前聞いていたよりも安全となった印象もある。

 十津川街道は「古事記」「日本書紀」をはじめ「吾妻鑑」「保元物語」「太平記」から幕末の諸記録に至るまで、色々なものに登場している。しかし、今回は災害の跡に目を奪われて、記録に残された十津川の諸々の歴史的風物を鑑賞する暇はなかった。一昨年の水害は明治22年(1889年)に大齊原(おおゆのはら)の熊野本宮社殿が流失したときの洪水に匹敵するものであるといい、実に120余年ぶりの大水害である。十津川のことは司馬遼太郎「街道を行く(12)十津川街道」に詳しく紹介されているのでそれに譲り、土地の歴史に関わり立ち入ることを今回は避けたい。我々は区切りとなる十津川郷「道の駅」まで見物・休憩抜きでひたすら走り、そこで名物のそばを食べ遅い昼食とした。奈良県を流れている「十津川」は和歌県に入ると名称が「熊野川」と変わる。それまで谷底に見おろしていた川はいくつかの支流を合わせて、堂々たる風格を示す熊野川となって流れる。

 熊野本宮に着きましたといわれて眺めると、右に鳥居が見えるが、左はえらくモダンな建物が2棟建っていて、いささか予想外である。先ずは旧社殿地へと、左折して小道を下りると、田圃の彼方に日本一の大鳥居(33.9m:平成12年建立)が見えた。聖地・大齊原、熊野川河口から遡ること30km、本流と支流の音無川、岩田川が合流する中州である。明治22年の大洪水で大半の社殿が流出し、かろうじて残ったいくつかの社殿を高台に移転したのが現在の本宮大社である。約1万坪ある旧社地には大木が茂り、その中心に2基の小さな石祠が本殿のあった場所を示している。その石の祠の一つは本宮大社の攝末社の「高倉下神社」であり、高倉下を祭神としている。

熊野川の中州にある旧社殿地 中心部
 紀伊半島の地図上で、東の尾鷲と西の有田を結び、潮岬を頂点とする三角形を作ると、熊野本宮大社はほぼその中心にある。さらに、この場所は大和・吉野方面から川を下ってきた(流下)人たちと、新宮の河口から川を遡ってきた(遡上)人たちが出会うところなのである。熊野山海民俗考(野本寛一、人文書院)の著者は、「流下」は「山から海へ」の志向、「遡上」が「海から山へ」の志向であると指摘している。この指摘を重要だと受け止めたのは「大和王権幻視行」の著者・桐原栄一郎氏であり、大和の先住者である物部氏の祖・饒速日の息子・高倉下と神大和磐余彦(神武)の邂逅は、まさに「山から海へ」と「海から山へ」の出会いであると理解した。「熊野の神」の毒気にあてられ、上陸まもない神武軍は一度に気を失うという窮地に陥った。高倉下がその場に駆けつけ「天空から下りてきた」大刀・韴霊(ふつのみたま)を神武に献上すると、不思議にも神武は正気を取り戻して起き上がり、その大刀を手に取ると敵は総崩れになったと古事記に記されている。刀が天から降ってくることはない、この刀剣は物部氏のレガリア(王権の象徴)ではなかったかと桐原氏は考えている。そして実際は、高倉下率いる物部の軍勢が駆けつけ、形勢を逆転させ、その戦いの後に高倉下が物部氏に伝わる刀剣を神武に献上した、ということではなかろうかとしている。

 戦闘の勝利後に場所を移して、高倉下が神武に物部氏の王権の象徴(レガリア)である刀剣を献上する「帰順の儀式」が行われた。儀式の場所は聖地でなければならない。川の合流点は水系の異なる山岳地帯の入り口にあたり、狩人にとって狩りのための重要な分岐点であるために聖なる地とされ、やがてそういう地は、神の示現の地、託宣の地として祭祀(神社)の発生を見るに至ったと「熊野の創祀とその祭神(橋本観吉)」は述べている。その儀式は「大齊原」で行われたと思うと桐原氏は断定している。そしてその地の小石祠には「高倉下」が祭神として祀られており、また「この地は高倉下が地主」という伝説が残っている。神武は高倉下と出会い、物部一族の帰順を得て、初めてその東征を成功させることが出来たのである。

 祖先神が天から降臨するという北方系の神話、すなわち垂直的世界観を持つ物部一族と、海の彼方に常世を想定する南方系の神話=水平的世界観を持つ海人族の神武が邂逅し、大和政権の創始者は水平から垂直へ世界観を転換するヒントを得た。海と別れた大和王権の創始者達は「高天原」や「天照大神」を含む自分たちの垂直的世界観を作り上げたが、その枠組み転換では消去出来ない部分が記紀のなかに残っている。その最たるものが皇祖神の高皇産霊尊であるとは桐原氏の的確な指摘である。

 旧社地から、洪水で流失を免れた建物を高台に移築したという、現在の熊野本宮大社の参拝に向かう。鳥居の前にいつも飾られているという、八咫烏の幟がないのが淋しいが、痛い膝をいたわりつつ、両側に杉の木立の聳える石段を登ると、八咫烏の幟は上の社殿の前に立てられていた。大注連縄のかかった門をくぐると、杉の緑を背景にして桧皮葺きの移築された建物が並んでおり、向かって左手が牟須美・速玉の両神、中央が主神の家津美御子神、そして右手は天照皇大神をそれぞれ祀っている。中央に祀られている本宮大社の主祭神家津美御子神は素戔嗚命でもある、とされている。高天原で乱暴狼藉を働き追放された失意の素戔嗚が何処をさまよったのか日本書紀は記していないが、紀(木)の国にはその舞台にふさわしい雰囲気がある。「日本書紀・神代紀」の「一書」には、素戔嗚の子、五十猛神が樹の種をたくさんもって天降り、この国を緑豊かにして紀の国の大神になったという一節がある。別の「一書」では、素戔嗚は「息子が国を治めるのに舟が無いと不便だろう」と体の毛を抜いて杉、檜、槇、樟などをなした。そればかりか「杉と樟で舟を作れ。檜は宮をつくる材にするといい。槇は棺に適している」とそれぞれ用途まで示したという。

 島根県出雲市には素戔鳴終焉の地と伝えられる須佐神社がある、一方、和歌山県有田市にも漁民に崇拝されてきた須佐神社がある。その「故郷」がどちらであれ、素戔鳴は「記紀」において、天上と地上・地下の橋渡し、水平から垂直への枠組み転換のつなぎの大役を果たさせられているようである。

 本宮の鳥居と道を隔て、門前町の中程のモダンな建物は田辺市立・世界遺産・熊野本宮館であった。2004年紀伊山地の霊場と参詣道が世界遺産に指定登録されたのちに建てられたもので、常設展示には本宮と熊野信仰・熊野参詣の変遷・熊野本宮の伝承・風土と歳時記があり、展示を見るのは休憩を兼ねた丁度良い息抜きであった。

補陀落の海、昇る朝日
 国道168号を熊野川に沿って、新宮へと走る。文字通り「流下」のドライブであるが、南に向かう道は広く、川幅もまた広い。ドライブは快適で、新宮市からは国道42号に入り、道は南南西に向く。三輪漁港を過ぎ、宇久井港口を左折すると目的地の休暇村「南紀勝浦」は近い。熊野灘に突きでた宇久井半島の高台に建つこの宿は、黒潮が寄せる海岸の勇壮な眺めが自慢である。大平洋を見晴らす東向きの露天風呂から、天気が良ければ朝日の登るのを眺めることが出来るというのが売り物である。海の民・海人の血を引く人々は、海のかなたに常世やニライカナイ(琉球地方の思想)を想定する水平的世界観を受け継いでいる。この宿からは視界一杯に大海原が、地球の丸みを感じさせるように見え、その先波路の果てに海の民の魂の故郷があるように感じさせる。このあたりの眺めには、熊野の海のかなたに「常世」を直感させる「海流の誘い」を伴っており、「海流の誘い」はまた中世の補陀落渡海という名の自殺行にも通ずるものがある。補陀落渡海は、南方海上にあるという観音浄土を目指して、還ることのない船旅に乗り出す宗教的実践で、常世の思想に仏教の観音浄土信仰が重なり、聖なる地で永遠の生命を得ようという信仰が育ったものである。何とか朝日の昇るのを見ようと、色々と努力したが露天風呂から朝日の見える場所は限られており、その場所をタイミングよく占拠するのは至難の業で、ゆっくり充分見るというわけにはいかなか



文献 桐村英一郎 大和王権幻視行 熊野・大和・伊勢 方丈社出版 2010
(岡野 実)
  


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